安田銀行(後の富士銀行、現在のみずほフィナンシャルグループ)の創業者にして、国家予算のほぼ8分の1に相当する富を築いたのが安田善次郎である。彼はその思考と行動が凡人の理解の域をはるかに超えていたため、生前は“ケチ”の一言で片づけられていた。そんな安田の社会に果たした役割の大きさについて振り返り、銀行の本来の責務について考えたい。

(本記事は、北康利氏の著書『新装版 名銀行家列伝―社会を支えた“公器”の系譜』=きんざい、2017年4月25日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)

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すべての銀行が師と仰いだ男

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(画像=大日本帝国近世人名辞彙)

安田善次郎は生粋の銀行家である。まさにバンカーの中のバンカーであった。彼が創業した安田銀行(後の富士銀行、現在のみずほフィナンシャルグループ)は、長きにわたって日本最大の資金量を誇り、金融界に君臨し続けた。そしてこの安田銀行を中核として、安田生命(現在の明治安田生命)、安田火災海上(現在の損保ジャパン日本興亜)、安田信託(現在のみずほ信託)などを擁する、わが国を代表する金融グループ(安田財閥、後の芙蓉グループ)が形成されていく。彼の銀行経営ノウハウは他を圧していた。国立銀行を開業しようとする関係者が大蔵省へ行って銀行の経営手法について相談すると、しばしば、「それは安田さんのところへ行って聞いてきてください」と言われたという。

<帳簿の整理法から、事務の練習、その他全ての事、皆私の所に見習いに来た。第五銀行の出来た時なども、支配人その他の人も私の所から遣った位で、その後続々各種の銀行は出来たが、皆私の銀行を手本にせぬ銀行はなかった位である>(安田善次郎著『意志の力』)

それは彼が両替商だった時代から経験と工夫によって身につけていったものだったが、それがいかに先進的なものであったかについてはいくつもの逸話が残されている。

その1つが高橋是清の回顧談である。日頃から彼は安田を尊敬するところ篤く、富山市愛宕町にある安田の生家跡(安田記念公園)には、今も高橋是清の揮毫した碑が立っている。その高橋が横浜正金銀行(後の東京銀行)の副頭取をしていた明治31、2年頃のこと、海外で銀行の営業手法を研究して帰朝した。さっそく新知識を披露して、いつも教わってばかりいる安田の驚く顔を見てみたいと訪ねていった。洋行帰りの人の土産話を何より楽しみにしている安田は、すぐに奥の座敷に招じ入れて彼の言葉にじっと耳を傾けていたが、話を聞き終わると少し失望した表情で、「そういうことなら、私の銀行でも以前からやっていますよ」と、こともなげに言ったというのだ。あっけにとられる高橋を前に安田銀行で使っている帳簿を示し、欧米で最新と言われている営業手法と何ら変わるところはないことを説明した。 「さすが安田銀行さんはもう外国銀行の新しい理論を実践されているのですね!」高橋が感に堪えない様子で言うと、かぶりをふって、「いやこれは私でもで始めたもので、けっして外国銀行のまねじゃありません」と答えたという。

当時、経営不振に陥る銀行も多く出た。そんな時、彼はしばしば再建を依頼され、銀行業界の危機を救っている。特に有名なのが、日露戦争の真っ最中に破綻した百三十銀行の救済である。大阪を代表する大銀行だっただけに、共倒れの危険さえあった。しかし戦費調達の外債起債に当時日銀副総裁だった高橋是清が奔走している時、わが国を代表する銀行が倒産したとあってはいよいよ外貨獲得は困難になる。国のためだと意を決して引き受けた。それだけではない。戦争が終結しても日露戦争でわが国は賠償金を手にすることができず、大量発行した国債の利払いにも事欠く事態になった。この時、彼は桂太郎首相を訪ね、「高い金利の既発債を期前償還して、新たに低利で国債発行をされてはいかがですか?もし応募者が少なかったら私が残りを引き受けましょう」と提案する。実際に金利が低すぎて人気がなく、相当額を安田銀行が引き受けることとなったが、国家への貢献をこうした形で果たしたのだ。安田善次郎は日露戦争の戦記には一切登場しない。しかし彼はこうした〝陰徳〟を積みながら、〝縁の下の力持ち〟として銀行がやるべき仕事を黙々と実践していったのである。

彼が亡くなった大正10年(1921年)当時の資産は2億円を超えると言われている。同年の国家予算は15億9100万円であり、実に8分の1に相当する富を築いたことになる。史上まれにみる成功者だったが、非凡な人間は常人には理解しがたいところがある。そのため、生前は〝ケチ〟の一言で片づけられた。自らを飾ることをしなかった彼は世間の誤解をあえて解こうとせず、そのため過小評価されているきらいがある。

父の教えを守って夢をかなえる

名銀行家列伝
(画像=Webサイトより ※クリックするとAmazonに飛びます)

安田善次郎は明治維新の29年前にあたる旧暦天保9年10月9日(新暦1838年11月25日)、現在の富山市内の平凡な農家の家に生まれた。

父善悦は質素倹約を旨とする勤勉な性格で、こつこつ働いて金を貯め、富山藩士の株を買って最下級ながら士籍に列した。大変厳しい人だったが、善次郎は父親の教えを忠実に守った。日頃善悦がよく口にしていた、「慈善は陰徳をもって本とすべし、慈善をもって名誉を求むべからず」という教えもそうである。後に善次郎が成功した時、善悦はしみじみこう語ったという。

「次の世ではとてもお前の親にはなれない。お前が親でわしが子供じゃ。それほどお前はたくさんの陰徳を施しておる」

子として親にこれほどの言葉を語らせた人物を、筆者は寡聞にして知らない。5年間の寺子屋での学業を終えた安田は、11歳頃から日本海に面した東岩瀬で野菜や供花の行商を始める。お釣りを間違えた時には、わずかな額でも必ず返しに行く。売り終わると向こうて゛魚を買って帰り、それを富山で売りさばいた。律儀さと非凡な商才がすでに表れている。13歳になった時、富山藩の勘定奉行が大坂商人の手代をわざわざ城下外れまで出迎える姿を目撃し、大商人になろうと一念発起する。

江戸に出て玩具の行商を1年半ほど経験した後、銭両替商兼鰹節商で奉公を始める。彼は日常の心構えからしてほかの奉公人とは違っていた。人の出入りが激しい店の土間に履物が乱雑に脱ぎ捨てられているのを、誰に言われずとも仕事の合間を見てそれらをそろえた。店員の下駄でも番頭の下駄でもみな同様にそろえておく。紙屑や布の切れはしなどが落ちていたら、拾って屑かごに入れた。「善事は小なりとも必ず行い、悪事は小なりとも必ず禁ずる」は彼の座右の銘の1つだが、誰も見ていないところでも、そうした〝善事〟が自然にできる人であった。

元治元年(1864年)、独立して日本橋人形町通り乗物町に安田屋(後の安田商店、安田銀行)を開店。両替のほか、乾物屋として海苔、鰹節、砂糖などを商い始める。この時、心に決めたのが、収入の2割を積み立て、家を買う時は全財産の10分の1以上のものは買わないということ。そして彼は、一度決めたことを終生守った。その堅実さと粘り強さは比類がない。後に彼は自身の人生を振り返ってこう述べている。

〈私には何等人に勝れた学問もない、才智もない、技能もないものではあるけれども、唯だ克己堅忍の意志力を修養した一点に於ては、決して人に負けないと信じて居る。富山の田舎から飛び出して、一個の小僧として奉公し、商人として身を立てゝ今日に至るまでの六十余年の奮闘は、之れを一言に約むれば克己堅忍の意志力を修養する為めの努力に外ならぬのである〉(『意志の力』)

安田の写真を見ると若い頃は優男の雰囲気である。その鋼のような意志の力はぎらぎらと外に出ることなく内に秘められていた。幕府が崩壊して明治の世となると、明治新政府は〝通用十三年限〟という太政官札を発行することで財政難に対応しようとした。10年で元本が返ってきて、後の3年分が金利という、今で言う利付国債だ。両替商が引き受けてくれないと流通市場が形成されない。正貨(金貨)と両替できなければ太政官札に信用は生まれない。

ところが藩札が紙屑になったことでこりている両替商は、太政官札の取り扱いにみな消極的だった。そんな中、「私が引き受けましょう!」と手を挙げたのが安田善次郎である。他の両替商仲間は冷ややかだった。実際、発行と同時に太政官札は暴落。一時は額面の半分を割り込む事態に陥ってしまう。それでも安田は逃げなかった。政権が交代した以上、早晩新政府に信用が生まれるという確信があったからだ。資産の目減りに必死に耐え、両替に応じ続けながら相場が回復する日を待った。すると彼の思惑通り、やがて太政官札の下落は止まり反転上昇する。そして安田商店は莫大な利益を手中にするのである。

太政官札の成功で押しも押されもせぬ本両替商となった安田商店が次に目指したのが公金の取り扱いだった。金額がまとまっている上、今と違って利息を付与せずに預かるだけだからメリットは大きい。たが当時、この分野は三井、小野、島田といった有力な両替商が独占しており、そこへ新興の安田商店が割って入ることは容易ではなかった。

そこで安田はある作戦を思いつく。公的機関にとって最大のリスクは、預金先の金融機関が倒産してしまうことである。そこで彼らに安心してもらうべく、安田商店は自社の保有する公債を担保として差し入れたのだ。公債を持っているから公金が集まる。その公金でまた公債を買い、それを担保としてまたさらに公金が集まるという好循環が出来上がった。

彼はこの方法で、中央官庁や地方自治体の公金取り扱いを次々と獲得していく。かつて富士銀行は“公金の富士”と呼ばれ、多くの公的機関のメインバンクであったが、それは安田善次郎の先見の明を、100年を超える間享受し続けていたからにほかならない。

日本銀行設立

国立銀行の数が増え、その規模も拡大するに従って、早く中央銀行を設立してほしいという声が強まってきた。銀行は規模が大きくなるに従って支払準備金を用意するのが困難になっていく。必要な時に必要なだけ資金を調達するためにも、公債を担保とする融資や手形割引をしてもらえる中央銀行の存在が不可欠となっていた。そのうち経営破綻する国立銀行も出てきて焦眉の問題となっていく。

この時、大蔵卿の松方正義が渋沢栄一と並んで頼りにしたのが安田であった。政府は当初、欧米の中央銀行制度をそのまま導入しようとしたが、彼は日本の風土に合ったものにしないと円滑な運営は望めないと主張。松方はその意見を取り入れ、ベルギー中央銀行の組織を範としながらも、両替商の伝統の良い部分を引き継ぐ折衷方式で日本銀行を設立することが決まった。

明治15年(1882年)6月27日、民間からは安田のほか、三井の大番頭である三野村利左衛門が日本銀行創立事務御用掛に任命され、10月10日に開業にこぎつける。創立事務御用掛任命からわずか3ヵ月ほどでの設立ということが、国立銀行制度の存続に対する政府関係者の危機感を物語っている。

安田は三野村とともに理事に就任することとなった。この時、彼は日銀での仕事は自分の事業との間で利益相反が起きるとして、第三国立銀行頭取を辞任している。日銀立ち上げという公職に全力を傾けたのだ。日銀では安田は何と割引、株式、計算の3局長を兼ねることとなった。

血の通った銀行員たれ

経営者は時として非情にならねばならない。聖人君子のような慈悲の心だけで経営はできない。銀行員で言えば、融資などを〝断る力〟が試される。だが冷たいだけの人間に優れた銀行員などいない。温かい人間味を持ち、断る時にも相手と痛みを分かち合えるような人格でなければ信用は生まれないことを肝に銘じるべきだ。厳しい取り立てを進言した行員に対し、

「そんな残酷なことはするものではない」

そう安田が諭している場面に遭遇したことがあると、矢野恒太(第一生命創立者)は述懐しているが、これに限らず、彼の情の深さを示すエピソードには事欠かない。

明治25年(1892年)のこと、かねて親交のあった武井守正鳥取県知事から同県の第82国立銀行の救済話が持ち込まれた。取り付け騒ぎが起きて混乱していた鳥取の街は、安田が来るという噂が広まるとにわかに活気づき、着いて最初の晩、早くも彼を訪ねてきた人があった。銀行関係者だろうと思って会ってみたら、幼い女の子の手を引いた70すぎの老婆である。連れてきた孫娘の両親が相次いで他界して2人暮らしだという。この上、預金がなくなればどうして暮らしていいかわからないと苦しい胸の内を訴えにきたのだ。じっと彼女の話に耳を傾けていた安田は、「私が何とかいたしましょう」と思わず口にしてしまった。翌日から調査を開始したが、思った以上にひどい。だが話を断れば老婆との約束を破ってしまう。意を決して救済に踏み切った。いわば信義を重んじて利を捨てたわけだが、経営というものは、彼の行動を手放しで美談とするほど甘い世界ではない。しかし矛盾することを言うようだが、安田善次郎という人間がこうした深い〝情〟を持っていたからこそ、銀行家である前に一個の人間として大成できたのだ。

以前、安田のご子孫にあたる安田弘さん(安田不動産顧問)から興味深い話をおうかがいした。安田善次郎と渋沢栄一は比較して取り上げられることがよくあるが、渋沢が〝論語と算盤〟という言葉に象徴されるように儒教思想をベースにしているのに対し、安田は仏教思想をベースにしているというのだ。

確かに安田は大変信仰心が篤かった。常日頃から、朝夕仏前で礼拝を行い、数珠を日常的 に持ち、旅に出る時は必ず2寸足らずの金色の如来像を荷物の中にしのばせていたという。 全国を旅しながらも、その土地の神社仏閣はできる限り参詣するよう心がけ、路傍の草生したお地蔵さんであっても見つけたら必ずその前で手を合わせた。信仰の篤い人間は、心優しく謙虚になる。そうした気持ちは社員に対する接し方にも表れた。

安田銀行の行員に山中清兵衛という人がいた。安田商店の頃から働いていた丁稚上がりである。ある時、鳥取への出張を命じられた彼は、帰京してすぐその足で報告に行った。ちょうど夕食時で、女中は2つの膳を運んできたが、それを見た安田は、

「せっかくだから取り膳にしてもらえばよかった……」

とつぶやくように言ったという。現代人には何のことやらわからないかもしれないが、〝取り膳〟とは同じ膳を2人で囲むことを意味する。それは対等の人間を遇する作法なのだ。主人と店員の間に天地ほどの差があった当時としては考えられないことである。(この人のためなら生命を捧げてもいい!)この時そう思ったと、山中は後日、人に語っている(芳川赳著『勤倹力行安田善次郎』)

銀行家なら大きな夢を持て

安田は晩年、いくつもの夢を持っていた。1つが個人預金の拡大である。当時の預金の多くは公金や大企業からの預かり金である。そもそも個人には、銀行に金を預けるという習慣が定着していなかった。彼は安田銀行の支店網を充実させて小口預金を幅広く集め、預金残高を飛躍的に増大させることを夢見ていた。それを東京市債などの信用度の高い公共債で運用することで市中消化を助け、社会資本の充実に充てようという構想である。当時、東京市長の後藤新平は東京という都市の抜本的近代化を構想していた。これに共感した安田は、膨大な予算を必要とするこの都市計画に対応するべく準備を進めていたのである。

もう1つの夢が、東京─大阪間を結ぶ高速電気鉄道敷設計画であった。渋谷を起点として、大阪の野田に至る全長460キロを6時間で結ぼうとした。東海道線の新橋─神戸間が急行を部分的に使って16時間半、直通で20時間という時代だから、いかに途方もない計画だったかわかるだろう。ところが明治40年(1907年)、申請は却下される。鉄道院がドル箱である東海道線への影響を心配して横やりを入れたためであった。安田の夢がかなうのは実に半世紀後、昭和39年(1964年)10月1日の東海道新幹線開通を待たねばならなかった。

彼はもう1つ大きな夢を持っていた。100歳以上生きることである。大正10年(1921年)の春、83歳になっていた安田は、関係会社の社員を集め、「昔から<お前百まで、わしゃ九十九まで>と言い、百をもって人生の極度なるごとく思うのは大いなる心得ちがいである。人は養生しだいで優に百歳以上に達し得るべきもので、私はこれから若返って、ますます事業を発展せしむる志である」と訓示したという。 盟友であった浅野総一郎にこんな歌も贈っている。

――五十、六十鼻たれ小僧、男盛りは八、九十

ところが安田善次郎は、100歳はもとより、8、90の男盛りも十分には楽しむことができなかった。この年の9月28日、朝日平吾という国粋主義者の手で暗殺されてしまうからである。資本主義の進展による都市部への人口流入と地方の疲弊、それに伴う貧富の格差拡大が社会問題化し、庶民の怒りの矛先は富める者へと向かっていた。米騒動など各地で暴動の起きる中、朝日は安田善次郎を暗殺することでヒーローになろうとしたのだ。

この直後、原敬首相も中岡艮一という青年の手によって暗殺されている。安田の死は、皮肉にもテロリズムの時代に入るきっかけとなってしまうのである。社会への貢献も、その素顔も知られないまま、民衆の敵として葬られた安田善次郎はさぞや無念であったろう。だが間違いなく、彼はわが国の金融史上に輝く、尊敬すべき先達の1人だったのである。

安田善次郎
天保9年(1838年)富山生まれ。元治元年(1864年)江戸日本橋で両替商を開業。太政官札の取り扱いなどで財をなし、明治9年(1876年)第三国立銀行、明治13年(1880年)安田銀行、明治26年(1893年)帝国海上保険(現・損保ジャパン日本興亜)、明治27年(1894年)共済生命保険(現・明治安田生命保険)をそれぞれ設立。潤沢な資金で社会資本整備に尽力したほか、不良債権処理、銀行の経営指導・再建に手腕を発揮したが、大正10年(1921年)殺害される。

北康利
1960年名古屋市生まれ。東京大学法学部卒業後、富士銀行入行。資産証券化の専門家として富士証券投資戦略部長、みずほ証券財務開発部長等を歴任。2008年6月末にみずほ証券退職。本格的に作家活動に入る。『白洲次郎 占領を背負った男』で山本七平賞を受賞。