人情を解すること誰よりも深く、部下を鍛えること誰よりも厳しく、企業を愛すること誰よりも深かった。彼は守りに入ることなく攻め続け、金融史上最強の住友軍団を築き上げる。本来なら、世の尊敬を一身に集め、名声に包まれた晩年を過ごすはずだった彼の人生は、どこで歯車が狂ってしまったのか……。銀行が信用を失うのは実に容易である。栄光の座についていた時の輝きがまぶしかった分、磯田一郎が我々に示す闇は深い。

(本記事は、北康利氏の著書『新装版 名銀行家列伝―社会を支えた“公器”の系譜』=きんざい、2017年4月25日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)

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ラガーマンとして培った突進力とチームプレイの精神

名銀行家列伝
(画像=Webサイトより ※クリックするとAmazonに飛びます)

磯田一郎は大正2年(1913年)1月12日、京都府北部の舞鶴において磯田家の長男として生まれ、後に岡山で育った。磯田家はもともと熊本の細川家に仕えた武士の家柄で、父・敏祐は海軍軍人。舞鶴で生まれたのは、ここが当時軍港だったからだ。母・チカツルは内気で優しい性格。磯田は母親に叱られた記憶がなかったという。磯田が岡山一中の1年生の時に父親が亡くなると、一家は親戚を頼って神戸に出たため神戸二中に転校。その後、三高、京都帝国大学法学部へと進んだ。三高、京大と、学生時代をラガーマンとして過ごした。身長は175センチと大柄な上に100メートル11秒23という駿足を誇り、“京大に磯田あり”と言われた。当時は京大ラグビー部の黄金期で、彼が4回生の時、常勝の王者・明治に勝って日本一の座についている。

「あの時、明治との一戦に敗れたら、留年してもう一度、日本一の座を争おうと思っていた」

そう述懐しているほどラグビーに打ち込んだ。彼がよく口にした“フォア・ザ・チーム”という言葉は、まさにラグビー精神からきていたのだ。勉強などする暇がなく、試験になると友人からノートを借りて一夜漬けというのがいつものパターンだったが、不思議と成績は良かった。

昭和10年(1935年)に京大を卒業した磯田は住友銀行に入行する。不景気な時代だけに同期で本社採用の大卒はわずか10人。京大法学部で住友銀行に入ったのは彼1人だった。若い頃の磯田は出世競争において同期に差をつけられていた。入行時は三等職員で、9年目に同期トップが二等職員となるのだが、磯田にその発令は下りなかった。こんな早い時期に出世が遅れたのは、同期で1人か2人しかいなかったという。その理由は、入行後もラグビーに熱を上げていたからである。入行後3、4年まではオール関西のメンバーにも選ばれた。

ただ入行7年目に調査部に配属されてからはよく勉強するようになる。機屋に行って音を聴けば、それがどこの機械で、この回転数なら利益はこのくらいかと見当がつくほどだった。軍隊生活3年のブランクはあったものの、実に12年の長きにわたって調査部に在籍することとなり、調査部を転出してからはスピード出世をしていく。大阪・高麗橋支店長、審査第2部長、人事部長を経て昭和35年(1960年)には取締役、昭和38年(1963年)に常務、昭和43年(1968年)に専務、そして昭和48年(1973年)には副頭取に就任する。

「逃げの住友」から「攻めの住友」へ

かつての住友銀行は、経営悪化した会社から融資を引き揚げる素早さで知られ、誰言うとなく〝逃げの住友〟と呼ばれていた。トヨタ自動車が戦後すぐに経営が悪化した際、いち早く融資を引き揚げ、それ以降、トヨタの敷居を跨がせてもらえなくなったことはつとに知られるところだ。磯田はその体質を〝攻めの住友〟に変えていった。

経営悪化した主要取引先に関しても、逃げずにがっぷり四つに組んで再建に取り組んだのだ。興銀の中山素平は〝大蔵省大手町出張所〟と言われるほど大蔵省との蜜月関係を築き、上手に公的資金を引っ張ってきて再建を行ったが、住友銀行は多くの場合、独力で再建を行った。

東洋工業(現在のマツダ)がいい例だ。イギリスのブリティッシュレイランドも、フランスのルノーも国家が全力で支援したが、住友銀行は一銀行でそれをなし遂げようとしたのだ。当時副頭取だった磯田が東洋工業再建にあたったのは、昭和49年(1974年)夏のことである。金融面の支援だけでなく、経営全般の体質改善が必要だと判断した彼は、本店支配人だった花岡信平を派遣し、取締役として輸出部門を担当させて過剰在庫の一掃を図った。周囲は同期トップの出世組である花岡が、東洋工業に出向すると聞いて一様に驚いたという。出向と言えば一線級ではないという烙印だと思われていたからだ。

「君には債権保全のためではなく、再建のために行ってもらう。いい会社にしてくれ。2年後には必ず帰す」

部下を送り出す時に磯田がかけるこうした言葉が、彼らを感動させたり、奮起させたりした。花岡もまた磯田の期待に見事応えた。そして約束通り2年で住友銀行に戻ってきた。花岡は、出向を出世の階段とする磯田独特の人事の第1号となったのだ。

昭和50年(1975年)1月には東洋工業問題を専門に扱うための融資第2部を設置し、巽外夫常務を部長として支援体制を強化。昭和51年(1976年)1月には村井勉常務(後の副頭取)を副社長として派遣。さらにその後、役員、部課長クラスへの派遣を増やして、多い時には村井以下9人を数えた。そしてフォードとの提携などによって見事再建に成功する。

花岡は復帰後、本店企画部長として関西相互銀行との合併工作を担当した。ところが、これは関西相互銀行の行員の反対もあって失敗してしまう。辞表を出す覚悟を決め、すでに頭取になっていた磯田の前に出たが、報告を聞き終わるとただ一言、「そうか、仕方ないな」と言っただけであった。磯田は、失敗した花岡の“向こう傷”を問わなかったのだ。苦労させた部下の骨は必ず拾う。そうしなければ、失敗をおそれ保身に走る。彼らの能力を最大限に発揮させるには、“向こう傷をおそれるな”という上司の言葉が絶対に必要だというのが磯田の信念であった。その後、花岡は副頭取となっている。それは磯田の恩に報いるため、必死に働いたせいでもあった。まさにこれが磯田の人事の妙である。懲罰人事の代わりに、逆に重責を与えて捲土重来を期させたのだ。

ドブに捨てた1000億円

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(画像=PIXTA ※画像はイメージです。)

磯田の前に立ちはだかった最大の試練が、経営の悪化した安宅産業の処理問題であった。当時の日本を代表する十大商社の一角だったが、オイルショックのあおりを受けて倒産寸前に追い込まれた。安宅産業の問題が一般に知られたのは、昭和50年(1975年)12月7日の毎日新聞のスクープによってである。「関係五行『米国安宅』に救済措置今週50億円送る」という大見出しの横の「原油代金回収できず600億円こげつき」というサブタイトルが、もうこの会社は立ち直れないことをはっきりと告げていた。

住友銀行がこの事実をつかんだのはスクープの3ヵ月前で、10月上旬には簡野孝副頭取以下の対策チームを立ち上げ、徹底調査したところ単独再建が不可能であることが判明した。堀田庄三会長は事態の深刻さにかんがみ、それまで東洋工業の再建に取り組んでいた磯田を、12月2日、安宅産業問題の特別チームの統括責任者に据えた。負債総額が1兆円、関連会社を含め従業員が2万人もいた安宅産業が倒産すれば日本の商社や銀行の信用は失墜する。(安宅はつぶせない!)磯田は腹をくくった。堀田は19年もの長きにわたって頭取を務め、〝堀田天皇〟とも〝法王〟とも呼ばれていた住友銀行〝中興の祖〟だが、その堀田会長でさえ安宅産業処理を住友銀行が主導することには懸念を示した。だが、伊部恭之助頭取と磯田は、果敢に救済合併の道を探っていく。

合併候補として、住友銀行と親しい住友商事と伊藤忠商事の名が挙がった。合併の最大の売りは、安宅が握っていた新日鐵との取引関係(商権)である。だが住友商事は、同じグループ企業である住友金属の商権をすでに持っている。そこで鉄鋼関係の商権の少ない伊藤忠商事に救済合併してもらう方向へとかじが切られた。伊藤忠側の交渉相手は、かつて関東軍や大本営作戦参謀だったことで知られる瀬島龍三。そのタフネゴシエーターぶりには何度も泣かされたが、幾多の試練を乗り越え、昭和52年(1977年)10月1日に安宅産業は伊藤忠と合併することが決まり、住友銀行は安宅向け融資1131億円を放棄することとなった。

そして、この年の6月、磯田は頭取に就任する。「1000億円をドブに捨てたようなものだ」頭取就任の記者会見で思わずそう口にして物議をかもしたが、愚痴を言いたくなるほど厳しい状況での船出だった。

マッキンゼーによる組織見直し

住友銀行の役員会は、磯田が頭取になるまではいたって静かだった。案件はあらかじめ根回し済みであり、頭取が了承しているものに役員会で異を唱えるのには勇気がいる。そのため自然と静かになったのだ。これに不満を持った磯田は根回しを禁止し、役員会を議論を戦わせる真剣勝負の場に変えた。彼はそれだけで満足しなかった。安宅問題の暗い影を払拭し、行内に清新の風を送り込んでいくことを考えたのだ。

頭取に就任した翌年(昭和53年)、アメリカのコンサルティング会社であるマッキンゼーに、経営戦略に関するコンサルティングを依頼することを決め、4月から具体的作業に入る。当時としては画期的な出来事であった。その報告結果を受け、昭和57年(1982年)7月、総本部制が導入される。従来、スタッフ、ラインを含め23の部が横並びになっていた職能別組織を根本からひっくり返し、ライン、スタッフ各3、計6総本部制とし、総本部長に副頭取、専務をあて、彼らに青天井の決裁権限を与えて迅速な意思決定を可能にした。全行員約1万8000人のうち、実に1500人を異動させる大改革である。それまでは大きな案件だとハンコが何十と必要だったのが、総本部長と関係スタッフの判断だけですむようになった。

旧態依然とした文化や組織形態を持つ銀行がほとんどだった中で、住友銀行の組織の先進性は突出したものとなった。まねをしてマッキンゼーにコンサルティングを頼む企業が後を絶たず、日本支社長だった大前研一の名前もそれにつれて世に出ていった。総本部制の売りは大幅な権限移譲だったが、全体の経営を左右する案件を独断で行う総本部長などいない。磯田の求心力はまったく落ちなかった。機動性が増した分、リスクチェックは甘くなったが、当時はバブルの入口にさしかかっており焦げ付きが少なかったため、攻める力が強ければ強いほど高収益案件を獲得することにつながる。磯田時代の住友銀行は、収益力という意味で、まさにわが国最強の銀行だった。

日本を代表する銀行家として

世界からも注目され、昭和57年(1982年)、金融界で最も権威のあるアメリカの国際金融誌『インスティテューショナル・インベスター』から“バンカー・オブ・ザ・イヤー”に選出された。磯田の最高の晴れ姿である。6年間の頭取職の最後を飾るにふさわしいものだった。そして昭和58年(1983年)11月、新頭取に小松康を指名し、自らは会長に就任する。小松は安宅産業に社長として出向し、再建のために粉骨砕身してきた。住友銀行の頭取の座は、エリートとして温室で育った人間でなく、大きな壁を乗り越えてきた人間こそふさわしいということを世に示したのだ。磯田の得意や思うべしである。

しかし問題は、小松が頭取になった後も、自分が最高権力者であり続けようとしたことである。ワンマン体制になった時、その権力の頂点に立つ者の人間性が問われる。“権力は腐敗する、絶対的権力は絶対的に腐敗する”というアクトン卿の有名な格言があるが、自分の意のままに組織が動き、周囲に茶坊主が増えてもなお、自分を厳しく律していられる人間は少ない。

磯田一郎も例外ではなかったのだ。この時、磯田の腹心の1人で元常務だった伊藤萬(平成3年、イトマンと社名変更)の河村良彦社長が平和相互株の譲渡に大きくかかわって株を上げていた。河村はオイルショック後、経営悪化していた伊藤萬を短時日のうちに再建した敏腕家でもある。磯田には河村ともう1人、西貞三郎という副頭取がべったりと張りついていた。この河村と西は、都銀の役員としては珍しい商業高校出身者である。磯田からすれば、実力主義で学歴がなくても昇進できる象徴として2人を取り立てたのだろうが、彼らはあまりに露骨にゴマをすり続け、磯田も気をよくしてしまっていた。そうしたことは、順風が吹いている間は問題とならない。

昭和63年(1988年)以降、日本が空前の好景気に突入していく中、スイスのゴッタルド銀行(プライベートバンク)の買収、米国投資銀行ゴールドマン・サックスへの資本出資など、住友銀行の勢いはとどまるところを知らなかった。しかし、“バブル”と茶坊主たちに囲まれていたことからくる気の緩みが、磯田の運命を大きく狂わせていくのである。

栄光からの転落

磯田は入行5年目にラグビー部仲間の妹・河村梅子と結婚。男女2人の子供に恵まれていたが、とりわけ長女の園子を目の中に入れても痛くないほどかわいがっていた。その園子はセゾングループ系の高級美術品・宝飾品販売会社ピサで嘱託社員として働いていた。そして平成元年(1989年)11月頃、彼女は伊藤萬の河村社長に、ピサが買い付けを予定していたロートレック・コレクションの絵画類を買ってもらえないかと持ちかけた。伊藤萬が買ってくれるなら、ピサはノーリスクで右から左へ転売し、利ザヤを稼げる。当然その一部は園子に成功報酬として入ってくる仕組みだ。磯田は河村を自宅や六本木のカラオケバーに呼び出し、園子の取引に対し、格別の配慮をしてほしいと依頼している。

これがきっかけとなって、その後、河村は闇社会にうごめく人脈との関係を深めていくところにイトマン事件のおどろおどろしさがあるのだが、あまりに複雑なのでここでは省略する。ただ雪だるま式に増えていった絵画取引は、伊藤萬に巨額の損害を与えた(大阪地検は347億5000万円の損害と指摘)。河村から磯田への便宜供与はそれだけではなかった。磯田は大阪の豊中に豪邸があり、東京では頭取、会長用の社宅に住んでいたが、会長を退いた後は娘と同じマンションに住んで悠々自適の生活を送ろうと考えたらしく、東京世田谷に自分と園子夫妻名義で2戸の高級マンションを所有していた。その空室未使用のマンションを、伊藤萬系列のビル管理会社は社宅として法外な家賃で借り上げていたのだ。河村が伊藤萬に与えた損害は特別背任罪として立件され、イトマン事件としてマスコミでも大きく取り上げられた。

そして磯田の公私混同も明るみに出て、大きな批判にさらされた。「私心があってはいかん。周りが納得しませんよ。卑しい人はトップになる資格はない」という、かつての彼の言葉もむなしく響く。正論を吐く時は、自分自身の身を省みてせねばならないといういい見本である。この当時、銀行トップがリタイアした後、現在では想像もできないほどの処遇がなされることは往々にしてあった。磯田の一件が発覚してから、わが身を振り返って襟を正した人は多かったはずだ。磯田はその後もしばらく会長の椅子にしがみつき、醜態をさらし続けた。

“向こう傷は問わない”という磯田イズムとは、“何でもアリ”ということだったのだと世間から受け取られたことは、住銀マンにとって残念この上ないことだったろう。危機感を募らせた中堅幹部によって緊急部長会が開かれ、磯田会長退任要望書が出されるに至る。平成2年(1990年)10月7日、ようやく会長退任が発表されたが、取締役相談役という中途半端な退き方であった。磯田降ろしの中心となった西川善文は後に頭取になるが、彼は磯田の遺産である総本部制の見直しを行っている。機動性が高くなった分、ガバナンスが効かなくなる恐れがあるということを、イトマン事件がいみじくも立証したためだった。歴史の皮肉と言うほかはない。

平成5年(1993年)12月3日、磯田一郎は永眠する。享年80。最晩年は精神を病み、凄絶な最期だったと言われている。ちょうどその2年半前に堀田庄三名誉会長が亡くなった際は銀行葬で送られたが、磯田のそれは、西宮の斎場に関係者だけが集まっての密葬であった。学生時代を過ごした京都大学。そこから南にのびる哲学の道の終点近くに落ち着いたたたずまいの名刹法然院がある。今、磯田は杉木立に囲まれたこの墓地で安らかな眠りについている。

磯田一郎
大正2年(1913年)京都生まれ。昭和10年(1935年)京都帝国大学卒業後、住友銀行に入行。昭和35年(1960年)取締役、昭和48年(1973年)副頭取、昭和52年(1977年)頭取、昭和58年(1983年)会長に就任。昭和61年(1986年)経団連副会長に就任。安宅産業、東洋工業(現在のマツダ)、アサヒビールなどの再建に携わる。頭取就任から4年で都市銀行で収益トップにする。他方、イトマン事件などの不祥事により、銀行を私物化した最悪の銀行経営者であるという批判の声は多い。平成5年(1993年)没。

北康利
1960年名古屋市生まれ。東京大学法学部卒業後、富士銀行入行。資産証券化の専門家として富士証券投資戦略部長、みずほ証券財務開発部長等を歴任。2008年6月末にみずほ証券退職。本格的に作家活動に入る。『白洲次郎 占領を背負った男』で山本七平賞を受賞。