福沢諭吉が溺愛し、今とは比較にならないほど高額だった留学費用を出してイギリスに学ばせたのが、彼の甥・中上川彦次郎である。期待にたがわぬ逸材に成長し、官界で活躍した後、時事新報社と山陽鉄道の社長を歴任。特筆すべきは三井銀行の経営トップとしてのあざやかな経営手腕である。不良債権を一掃して工業化路線を明確にし、あわや倒産の危機を救うと、一気に隆盛へと持っていった。“福沢山脈”と呼ばれる慶應義塾出身の大物たちも、その多くは中上川の抜擢があったからこそ世に出ることができたのだ。“三井中興の祖”と呼ばれる、スケールの大きなその人物像に迫る。

(本記事は、北康利氏の著書『新装版 名銀行家列伝―社会を支えた“公器”の系譜』=きんざい、2017年4月25日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)

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福沢なくして中上川なし

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(画像=三省堂「画報日本近代の歴史5」)

中上川彦次郎は嘉永7年(1854年)8月13日、中津藩の下級武士・中上川才蔵と福沢諭吉の2番目の姉・婉の長男として、現在の大分県中津市金谷森ノ丁で生まれた。12歳頃から手島物斎の漢学塾に通い秀才ぶりを発揮したが、下級武士に厳しい中津藩は彼の江戸遊学の願いを聞き届けてくれず、代わりに藩校進脩館で教えることとなった。

そして維新後の明治2年(1869年)、慶應義塾への入学がかなう。1ヵ月ほど早く入塾していた門野幾之進(千代田生命創立者)によると、“見るからに田舎者然たる、しごくやせ型な少年”だったというが、2、3年もすると身長は170センチを超え、握力が7、80キロもある筋骨隆々たる青年に成長した。

入塾して間もなく、「この忙しい世の中に、会読などといって1週間に2、3ページずつ学ぶといった悠長な勉強をしていては進歩がない。先生の講義を聞く形式に改めるべきだ」と、伝統的な学習法に疑義を呈した。先例にとらわれず、自らの頭で考えて合理的に行動するのが中上川の特長だ。結局、会読はしばらくして廃止された。

学問を積んだところで故郷の中津市学校に教師として派遣され、愛媛宇和島の洋学校、慶應義塾でも教鞭をとった後、明治7年(1874年)、イギリスに留学することとなった。

留学費用は福沢が全額出したというから、その溺愛ぶりがうかがえる。ロンドン滞在中、もう1つの大事な出会いがあった。伊藤博文の盟友で、長州藩の重鎮である井上馨の知遇を得たのだ。帰国後、井上が参議兼工部卿に就任すると工部省に呼ばれ、外務卿に転じると今度は外務省公信局長に抜擢される。まだ26歳という若さであった。

だが役人生活は長くは続かない。政権内で力を持っていた肥前藩出身の大隈重信と福沢諭吉は大変親しい関係にあったが、〝明治十四年の政変”により大隈がその地位を追われると、福沢門下生も政府内から一掃されたからだ。井上と親しかった中上川は辞職する必要などなかったのだが、自分だけ残るのを潔しとせず、外務省を退官する。

人一倍負けん気の強い中上川は、野に下っても政府にモノ申していこうと、自分が社長となり福沢を論説主幹にして、翌明治15年(1882年)、『時事新報』を創刊する。これこそが彼の実業家としての第一歩だった。福沢門下の俊秀も待ってましたとばかりに集まってきた。創刊号は1500部刷ったが、発売前に1420部の予約が集まっていたという。

いきなり福沢が過激な藩閥批判を展開して発行停止処分を食らったりもしたが、中上川の経営手腕がさえわたった。新聞紙をピンク色にしたり、一口投書、見開き特集を設けるといった斬新な紙面作りに加え、時代を先取りしていたのが、広告収入で゛経営を安定させる手法である。積極的に外に出て取材させ、外国のニュースも掲載した。こうした努力が実り、『時事新報』は短時日のうちに5千余部を売り上げるまでに躍進。経営が軌道に乗ると、中上川は次の活躍の場を探し始める。

山陽鉄道会社初代社長

そんな時、設立されたばかりの山陽鉄道会社(現在のJR西日本山陽本線)社長就任の話が、慶應出身で三菱の大幹部だった荘田平五郎からもたらされた。荘田は三菱を代表して、この会社の設立発起人に名を連ねていたのだ。地方活性化を促すため、鉄道会社の経営に協力を惜しまなかった福沢は、中上川のこの転職に賛成してくれた。大阪と博多を結ぶ計画で、工事は藤田伝三郎率いる藤田組が担当している。荘田同様、設立発起人の1人でもあった藤田は、中上川以外の社長候補を考えていたが、井上馨の口添えもあって無事社長就任が決まる。明治20年(1887年)、まだ34歳の若さであった。

彼は早速海外から関係する専門書を取り寄せると、片っ端から目を通した。そののめり込み方は、山陽鉄道時代に生まれた子供に〝鉄四郎(四男)、道(次女)”という名をつけていることでもわかる。設計にも意見し、この本にはこう書いてあると指摘する、技術者泣かせの社長だった。「中上川という人は、一旦決めたらテコでも動かない。だからあの人の下に使われておる者は非常に楽です。世の中には計画を立ててやっておるうちに、悪口を言われるとグラグラする人が多いが、あの人には絶対にそれがない」とは、後に娘婿となった池田成彬の言である。

広軌のレールを採用し、勾配にも注文をつけた。技師たちは勾配40分の1を主張したが、中上川は反対する。瀬戸内海航路の船舶より速くないと競争に勝てないという現実的な計算がそこにはあった。カーブを減らし、平地を直線的に走らせれば速度が出るし、燃費もよくなる。東海道線の勾配は100分の2.5であったが、「100分の1以内にせよ!」と厳命したことから、〝ワン・ハンドレッド”というあだ名がついた。

停車場や操車場にも広い用地を確保し、ドル箱と考えていた神戸─姫路間は複線を前提に用地買収するなど、長期的視点に立った経営を行った。車両・器材等は一流品を選んだが、一括購入することで安くした。当時は鉄道局(後の国鉄)経由で購入し、鉄道局の官僚がマージンをとるという悪い慣習があったが、中上川はそれを許さなかったため、鉄道局の役人には評判が悪かった。上には尊大だが下には優しい。巡視に際し敬礼する社員がいると、必ず脱帽して答礼した。福沢譲りの平等を愛する精神で、社員を書記・技士・雇員と大まかにしか分けず、職名に階級格差をあまり出させないようにした。明確な命令を出し、社内のモラルを上げた結果、工事は急ピッチで進み、神戸─尾道間を2年半で完工させる。

ところが不運にも明治23年(1890年)の恐慌の影響で会社は経営不振に陥ってしまうのだ。目先の高配当を期待していた株主から不満の声が出始め、中上川の社長排斥運動に発展していく。長期的視野に立った経営方針がわかってもらえない。苦悩は深く、そろそろ辞める潮時かと思い始めた。

井上馨と久々に東海道線の中で会ったのは、ちょうどそんな時のことである。井上も悩みを抱えていた。首相の山県有朋から経営不振にあえぐ三井銀行を何とかするよう言われていたのだ。

「もし君ほどの人物が2人いれば、1人は三井銀行に迎えて立て直しをしてほしいものだが……。」

井上はそう言って秋波を送った。これをきっかけとして、中上川は三井銀行入りを真剣に考え始める。

火中の栗を拾う覚悟の三井銀行入り

名銀行家列伝
(画像=Webサイトより ※クリックするとAmazonに飛びます)

中上川を悩ませた明治23年の恐慌の影響を三井銀行もまた受けており、貸付金の3分の1が不良債権化するという惨状にあったが、誰もがさじを投げているからこそ取り組みがいがあるとも思えた。福沢に手紙で相談すると、三井入りするようわざわざ電報で返事があったが、その後送られてきた手紙の中に、三井物産を率いている益田孝にはくれぐれも気をつけるようにとの注意書きがあった。果たして福沢の危惧したとおり、後になって益田との間に深い確執が生まれる。福沢諭吉という人物の、先を読む力の確かさを思わずにはいられない。

明治24年(1891年)8月12日、三井銀行に入った中上川は、三井鉱山と三井物産の理事、三井呉服店調査員を兼務し、三井大元方参事に就任する。〝三井大元方”とは、三井グループ全体を統括するために作られた組織であり、三井銀行の立て直しをしながらグループ全体の組織の見直しをも行っていくことになる。三井銀行に入って半年ほどは、理事に据え置かれ試用期間とされた。そうする間にも事態は悪化していく一方だ。京都支店で取り付け騒ぎが起こり、日銀特融でどうにか命脈を保つという状況に陥っていく。しびれを切らした中上川は、「私を副長(実質的な頭取)にしないのなら暇をください!」と三井銀行総長(三井家による名誉職)の三井高保に直訴し、2人いた副長を退任させて、中上川専制体制が整った。

中上川副長は、まず焦げ付いた貸付金の整理から着手する。有名なのが東本願寺との交渉だ。無担保のままずるずると融資し、融資額が100万円ほど(現在価値にして約50億円)になっていた貸付金回収は三井にとって頭の痛い問題だった。中上川は、東本願寺の飛地境内地である渉成園(枳殻邸庭園)を担保に入れるよう求め、1年以内に返済がなければこれを差し押さえると通告した。寺側が難色を示すと、「時と場合によってはご本尊の阿弥陀如来を差し押さえるかもしれません」と言い放った。たまりかねた東本願寺は全国の門徒に寄付を依頼。あっという間に180万円の喜捨が集まった。この金で借金が返済できただけでなく本堂の屋根の葺き替えまでできたため、「仏敵中上川は地獄行きと思っていましたが、意外な功徳を積めましたから極楽に入れそうですな」と冗談口を叩いた。まさに〝明治の信長”といった面目である。

政府要人との不透明な関係も一掃しようとする。自分を推挙してくれた井上馨の関係であろうと容赦しない。井上と同じ長州閥で第3師団長だった桂太郎(後の首相)の弟・次郎が兄の権威を借りて借金を返さなかった時には、中上川自身が桂太郎に談判し、麻布高樹町の桂邸を売って返済させている。伊藤博文が京都の祇園でどんちゃん騒ぎをやった時、滞在費用が足りなくなったため千円ほど用立ててほしいと、秘書官が三井銀行京都支店に頼みにきたことがあった。盟友である井上馨の息がかかった銀行でもあり、すんなり貸してくれると思っていたのだが、日頃中上川から厳しく営業方針を叩きこまれていた京都支店長は、何と初代総理大臣の伊藤に対しても行内規定に準拠して担保を要求する。後日、井上はあまりにひどいと抗議してきた。政治家との癒着が公金取り扱いで生じたことを見抜いた中上川は、その返上を行う。地方の支店は公金取り扱いが主な業務だったから、次々に閉鎖されていった。

その代わり、勃興期にあった大企業向け融資に注力し、その一方で支店の営業管理を徹底した。東京、名古屋、大阪の3店を母店として各地の支店を統括させ、最終的には東京本店に権限が集まるようにした。これまでは支配人(支店長)の自由裁量の部分が大きかったのだが、各支店の貸出限度額も決めた。元三井物産パリ支店長の岩下清周を採用して大阪支店長に据え、現在のプロジェクトファイナンスのような大規模案件融資を手掛けさせたりもしたが、彼が貸出限度額を守らなかったことから左遷を命じ、これに不満だった岩下は三井を去った。極めて優秀な人材だったが、規律違反を見過ごすわけにはいかなかったのだ。

短期貸出の金利を低くし、長期貸出の金利を高くしたことも中上川の銀行家としてのセンスの賜物だ。融資期間が長くなって貸出リスクが高くなるのに応じて金利を上げるというのは、今では当たり前のことだが、当時ではまだ珍しかった。〝厘”単位の廃止も彼の功績だ。10厘で1銭だったが、この単位を廃止して、預金は銭単位に切り上げた(貸金利息は切り下げ)。わずかに損が出るが、大幅に事務コストは削減できる。他行に呼びかけたが時期尚早とされ、三井銀行が率先して実施。結局、他行もすぐに追随した。

不良債権処理をグループ構築のチャンスに変えて

中上川改革の最大の目玉は若手気鋭の人材を採用し、育成したことである。慶應出身者が多かったが、ほとんどは新聞記者や書生上がりだった。

ほんの一例を挙げれば、武藤山治(鐘淵紡績中興の祖)、藤原銀次郎(王子製紙社長、〝製紙王”と呼ばれた)、藤山雷太(大日本製糖など藤山コンツェルンを築いた)、波多野承五郎(『時事新報』主筆、『朝野新聞』社長)、日比翁助(三越創業の功労者)、池田成彬(後の大蔵大臣、枢密顧問官)など。

従来の商人が手代や丁稚に対したのと決定的に違ったのは、彼らの人格を認め、個性を引き出し、その功績に対して十分な処遇をしたことである。一方で懲罰規定も定め、信賞必罰とした。藤山を本店抵当係長、藤原を大津支店次席、波多野を調査部長、池田を足利支店長にと、まずは銀行内において薫陶を授け、その後、融資先の経営不振会社へと送り込んだ。

明治25年(1892年)、経営不振に陥った王子製紙は、社長の渋沢栄一から中上川のところへ増資による経営支援依頼が来ていた。中上川は増資に応じる条件として、三井から役員を送り込むことを主張。ここで渋沢のほうから藤山雷太が指名される。中上川は出向前の藤山に、「君が専務になるのは、王子を三井が取りにいくということだから、ゆめゆめ彼らに懐柔されるようなことのないように。あの会社を三井の製紙会社たらしめるのだ」と因果を含めている。立て直しと言いながら、中上川はこれらの企業を三井の傘下に収めていくことを企図していたのだ。

再建は難航をきわめ、明治31年(1898年)には藤山と大川平三郎(王子製紙の技術長)が正面衝突し、大ストライキへと発展する。この時藤山は、社内で圧倒的な人気を誇った大川と、王子製紙の創設者でもある渋沢に引退を迫り、これを実現させた。

明治27年(1894年)、武藤山治を鐘淵紡績の兵庫分工場支配人として送り込んだ。武藤は中上川の教えを守り、職工の優遇が経営改善の最善策だと考え高給にした。優秀な人材が集まり、他社の危機感は高まる。大阪の業者は中央綿糸紡績業同盟会を作り、綿花商に対して鐘紡に一切綿花を売るなと指令を出す。当時これは“大阪戦争”と呼ばれ、関東勢と関西勢の対立の構図としてとらえられた。結局、日銀総裁・岩崎弥之助が仲介に入って収まったが、その後、武藤は同業者を次々に吸収合併。一躍業界最大手に躍り出る。

三菱に先行された石炭では、中上川は北海道に目を向けた。経営が行き詰まっていた北海道炭礦汽船(多くの炭鉱を経営していた)の株を、三井内部の人間も知らないまま秘密裏に買い占めたのだ。エネルギー供給の根幹である石炭を押さえることは、工業化路線の帰結でもあった。こうした獅子奮迅の働きにより、三井銀行は再建され、同時にその後のわが国の産業界をリードする一大企業集団を作り上げた。

あざやかな色彩をもって駆け抜けた10年間

晩年の福沢は脳溢血の発作に悩まされたが、彼が病床にある時、中上川は毎日のように見舞いに行った。子供たちに残せる遺産が少ないと気に病んでいることを耳にすると、10万円(現在価値のしにして5億円ほど)もの大金に熨斗をつけて贈っている。世間の言う〝福沢なくして中上川なし”という言葉を、誰よりも彼は身に沁みて感じていたのだ。快復の願いもむなしく、3度目の発作を起こした福沢は、明治34年(1901年)2月3日午後10時50分、この世を去る。

ところがその中上川も、慕っていた叔父の後をすぐ追うことになる。彼が寿命を短くした背景には、美食家で運動嫌いのために肥満し、慢性腎臓炎を患っていたことがあった。それに『二六新報』が明治33年(1900年)4月から執拗な三井攻撃記事を掲載したことと、三井内部の主導権争いからくるストレスが加わったのだ。福沢の予言通り、益田孝が彼の力を牽制しようと動き始めていた。中上川が政治家の優遇をやめたために、応援団だったはずの井上馨も批判的になっていた。

そんな中、中上川を牽制する目的で三井に送りこまれてきたのが早川千吉郎だった。帝国大学法科大学を卒業後、大蔵省に入省。松方正義に気に入られ、日清戦争時の財務処理などで活躍したやり手である。心労が中上川の命を削り、彼は早川が三井入りした翌年にあたる明治34年(1901年)10月7日、腎臓疾患を悪化させて急逝する。享年47。叔父の福沢に遅れることわずか8ヵ月。早すぎた死であった。

まるでその死を待っていたかのように、早川は三井銀行の改革に動き出す。中上川の工業化路線を否定し、運転資金のような短期融資主体の商業銀行路線へと大きく営業方針を転換したのだ。結論を先に言えば、このことは完全に裏目に出てしまう。三井銀行は栄光の時代から転落し、安田や三菱銀行などの後塵を拝するようになっていくのである。その後、娘婿の池田成彬が立て直しを行っていくが、中上川の頃のような栄光の時代が再び訪れることはなかった。『三井銀行八十年史』は「第三章中上川彦次郎の改革」の中で、社史としては珍しく感情のこもった次のような文章を載せている。

<当行の長い歴史のなかにも、中上川副長の主宰した10年間ほど、あざやかな色彩をもつ時期はない。そこには、みなぎる若さと、明確な方針と、強力な実践とが、資本主義の成立という近代日本の誕生期を舞台として、はつらつと躍動しているのを見ることができる>

稀代の名銀行家・中上川彦次郎、もって瞑すべしである。

中上川彦次郎
嘉永7年(1854年)大分生まれ。明治2年(1869年)福沢邸に寄寓し、慶應義塾に入学。中津で教員として勤めた後、明治7年(1874年)渡英。帰国後、慶應義塾で教鞭をとる。明治11年(1878年)井上馨に抜擢されて工部省御用掛となる。明治15年(1882年)『時事新報』社長に就任。明治20年(1887年)山陽鉄道会社創立、社長に就任。明治24年(1891年)三井銀行に入行し、三井大元方参事(その後副長)を務めた。明治34年(1901年)没。

北康利
1960年名古屋市生まれ。東京大学法学部卒業後、富士銀行入行。資産証券化の専門家として富士証券投資戦略部長、みずほ証券財務開発部長等を歴任。2008年6月末にみずほ証券退職。本格的に作家活動に入る。『白洲次郎 占領を背負った男』で山本七平賞を受賞。