本書は、古典派経済学の系譜に連なる現代主流派経済学の「経済自由主義」イデオロギーに対するすぐれた批判の書である。著者は、フリードリヒ・リストの主著『政治経済学の国民的体系』を読み解き、その理路を辿りながら、経済自由主義のドグマを批判する。その考察は、マキャヴェリの政治経済論にまで及ぶ。それがリストの国民経済学を理解するうえでいかに重要かは、本書を読めば分かるだろう。

国民, 経済, 停滞
(画像=Webサイトより)

『経済と国民――フリードリヒ・リストに学ぶ』
著者:中野剛志
出版社:朝日新聞出版
発売日:2017年10月13日

国民(ネイション)の経済学

著者が(そして、リストが)批判するのは、今日世界各国の政治家や官僚、学者、マスコミのあいだで公式の政治経済的イデオロギーとなっている「経済自由主義」である。それは、「自由市場こそが、価格メカニズムの自動調整機能を通じて、最適な資源配分を達成する(したがって、政府は基本的には資源配分には介入すべきではない)」という理論に立脚している。

この経済自由主義に欠落している「国民(ネイション)」という概念を経済理論の中核に据え、主流派経済学とは異なる理論体系を打ち立てたのがリストである。彼は、政治経済学の体系を「交換価値の理論」と「生産諸力の理論」に分類し、「富そのもの」よりも「富をつくり出す力」を探究する「生産諸力の理論」は「国民経済学」でなければならないと主張する。

国民経済学とは、「国民国家の概念と性質とから出発して特定の国民が現在の世界状勢とみずからの国民に特有な事情とのもとでどうすれば自分の経済状態を維持し改善しうるかを教える」(小林昇訳、186頁)学問である。

「分業」と「結合」と「作業継続」の原理

リストは、「分業」と「結合(Vereinigung)」が生産性の向上にとって重要であると説く(語根のeinigは「統一された、団結した」の謂)。ここにいう「結合」とは、分割された作業を協働でおこなう集団行動である。著者によると、「リストは、経済発展や経済成長といった現象を、分業と結合による収穫逓増現象として理解した」という。「生産規模をn倍にすると生産量がn倍以上となる」というのが「収穫逓増の法則」である。

リストはまた、「作業継続」の原理も収穫逓増をもたらすと主張する。すなわち、長期にわたる経験と知識の蓄積と継承(=世代間の「作業継続」)は、経済を発展させ、技術を進歩させる。そして、これら「分業」と「結合」と「作業継続」を可能にするのが、「法律や貨幣、度量衡、警察、司法制度、輸送手段」などの「制度」であり、国民(ネイション)とは、この「制度」を共有している人びとのことを指す。それゆえ、「国民こそが生産諸力の源泉」と言えるのである。

主流派経済学に欠けているのは、「現在世代と将来世代の間の分業と結合という論理」、つまり「作業継続」であると著者は指摘する。貿易論議においても、主流派経済学者は「作業継続」の論理を蔑ろにする。「作業継続」による収穫逓増の法則の観点からすれば、リストの幼稚産業保護論は、けっして例外で済まされるようなものではない。

それにもかかわらず、主流派経済学者は幼稚産業保護論を「あくまでも例外的なものとして扱おうとし、自由貿易が原則であることを譲ろうとはしない。」彼らは、保護主義=悪、自由貿易=善というドグマから離れられないのである。

リストの今日的な意義

1980年代からの新自由主義(市場原理主義)も代表的なドグマである。アメリカに追随する日本は、自由化、規制緩和、民営化など、新自由主義にもとづく一連の構造改革を推し進め、その結果、長期停滞の泥沼にはまり込んだ。リストの理論に関連して、著者が長期停滞の原因として挙げているもののひとつが、「短期主義(short-termism)」の蔓延である。

新自由主義の下で進められた金融市場の自由化や規制緩和の政策は、投資家から企業への短期利益追求圧力を著しく強めた。これに抗う企業は、「株価の下落という形で市場から懲罰を受ける」ことになる。そこで犠牲となるのが、長期的な「設備投資、技術開発投資あるいは人材育成投資」(すなわち、リストのいう「作業継続」)であり、その結果として、「技術革新や長期的な生産性の向上は、もはや望み薄いものとなる」という。

この一事をもってしても、短期主義が「作業継続」を寸断し、経済成長を阻害していることは明らかであって、リストの理論が今日的な意義を有することは、現下の長期停滞が証明していると著者は述べる。まことに的を射た指摘というほかない。

国家理性と経済ナショナリズム

リストは、近代政治経済学の系譜の起点にマキャヴェリを置き、彼を高く評価した。著者はその理由を三つ挙げる。第一に、「マキャヴェリがイタリアの国民統合を目指していた」こと、第二に、マキャヴェリが「歴史主義的・比較制度論的でプラグマティックなアプローチに立つ国民経済学を提唱した」こと、第三に、「やがて将来には国民統一から国民的自由がふたたび生まれるであろう」との見通しに示されたマキャヴェリの自由の概念である。

著者はマキャヴェリの『君主論』を引用しつつ、「統治者がなすべきは、理想国家を観念の中に求めることではない。時機、環境、状況といった特定の脈絡の下でのそれぞれの国家の姿を直視し、その特定の脈絡に応じて実践的に判断することである」とし、そのプラグマティックな政治判断が「国家理性」であると説明している。

ハンガリーの思想史家イシュトファン・ホントは、「マキャヴェリが発見した国家理性論が経済分野に応用され、政治経済学の成立に寄与し、さらにはリストの経済ナショナリズムへとつながっていくという」新たな解釈を提示している。著者は、ジョバンニ・ボッテーロやアントニオ・セラらの学説にも論及しつつ、ホントの解釈が成り立ちうることを示す説得力のある議論を展開している。

本書を通じて国民経済学について知れば知るほど、「経済自由主義」のイデオロギーがいかにリストの理論を顧みず、疎んじているかが痛感されよう。裏を返せば、「経済自由主義」が招いた惨状から日本経済を救うのに、今ほどリストの国民経済学の知見が求められているときはないということだ。

著者は、地政経済学を論じた現代の古典ともいえる『富国と強兵』(東洋経済新報社)を2016年末に上梓しているが、本書でも前著同様、そのプラグマティックな思考の緻密さと経済ナショナリズムにたいする信念の堅固さは変わらない。(寺下滝郎 翻訳家)