(本記事は、内藤誼人氏の著書『ベンジャミン・フランクリンの心理法則』ぱる出版、2018年6月18日刊の中から一部を抜粋・編集しています)

【『ベンジャミン・フランクリンの心理法則』シリーズ】
(1)人たらしがやっているカンタンなテクニックとは?
(2)なぜお金持ちほど自分にお金をかけないのか
(3)「議論しろ」はあまり良くない風潮?フランクリン流「人たらし術」
(4)資産2兆6千億を築いた大富豪が特に気をつけていたこと

ベンジャミン・フランクリンの心理法則
(画像=Webサイトより ※クリックするとAmazonに飛びます)

自慢話には、喜んでつきあってあげる。

私たちには、だれでも自尊心がある。他人に自分を高く評価してもらいたいという願望がある。

自分を大きく見せたいと思う気持ちは、だれにでもある。

自慢話をするのは、自尊心を満たすための行動なのだが、だれかが自慢話を始めたときには、「ほう、ほう」と聞いてあげよう。

ただうなずいてさえいれば、その人の自尊心を満たしてあげることができるからだ。

「自慢話を聞かされていると、うんざりしませんか?」

と考える人もいるであろう。

たしかに、うんざりする。

けれども、それによって相手が嬉しい気持ちになるのなら、ちょっとくらい我慢してあげるのが、やさしさというものであろう。

自分では自慢話などをしてはならないが、他人が自慢話をしてくるときには、喜んで耳を貸してあげるのがいい。

「アメリカで一番人あたりのよい男」と呼ばれたベンジャミン・フランクリン(100ドル紙幣に描かれている人物)も、「他人の自慢話には喜んでつきあってあげる」ことを、自分のルールとしていたようである。

フランクリンは言う。

私は他人の自惚れに出逢うといつもなるべくこれを寛大な目で見ることにしている(『フランクリン自伝』岩波文庫)。

「へぇ、そうなんですか!」
「それはすごいですね!」

と大げさに驚きながら自慢話を聞いてあげるのがポイントだ。

かりに以前に同じ話を聞かされていたとしても、うんざりした顔を見せてはいけない。新しい話を聞かされているときと同じような驚きを演じよう。

イリノイ州立大学のスーザン・スプレッチャーは、初対面の男女を会わせて1時間のデートをさせるという実験をしたことがある。

1時間が経過したところで、お互いのパートナーに点数をつけ合って、「同じ人ともう一度会ってみたいか?」と質問してみた。

この実験において、相手からモテたのはどういう人物かというと、「相手の話をしっかりと聴いてあげる人」であったという。

こういう人ほど、性別を問わずパートナーに好かれ、「もう一度会ってみたい」と感じさせることができたのである。

私たちは、自分の話をするのが大好きだ。

そして、自分の話をイヤな顔ひとつせず、喜んで聞いてくれる人も大好きなのである。

だれかが自慢話を始めたときは、チャンスである。ただ喜んで聞いてあげるだけで好かれるのだから、こういう機会をみすみす逃してはもったいない。

「また同じ話かよ、面倒くさいなあ」などと思わず、好かれるチャンスなのだと思ってニコニコしながら話を聞いてあげるとよい。

すべての議論は不毛。

ベンジャミン・フランクリンの心理法則
(画像=Anatolii Mazhora/Shutterstock.com)

フランクリンは、若い頃には相当な議論好きだったらしい。

議論で相手をこてんぱんにやっつけることに快感を覚えるタイプであった。

ところが議論には勝っても、人には嫌われることを悟り、あるときから議論するのをぴたりとやめたという。そして、議論するのをやめたのは、大正解であったと語っている。

クセノフォン(紀元前4世紀のギリシャの史家、ソクラテスの弟子)の『ソクラテス追想録』を求めたところ、その中にこの論争法の例が沢山出ていた。

私はすっかり感心して、いきなり人の説に反対したり、頑固に自説を主張したりする今までのやり方を止め、この方法に従って謙遜な態度で物を尋ね、モノを疑うといった風を装うことにきめた(『フランクリン自伝』岩波文庫)。

人たらしは、他人と議論などしない。

議論をしても、まったく意味がないからである。

議論をすると、ただお互いの心に感情的なしこりが残るだけであって、何も得るところはない。議論をせずにすませられるのなら、絶対にそうしたほうがいい。

特に、日本人は、「和を以て貴しとなす」を重視する国民である。

いたずらに自説を主張するのは、和を乱す行為であって、厳として慎まなければならない。

ウエスト・ヴァージニア大学のアリシア・プランティは、アメリカ人と日本人の大学生を対象に「議論好き」のテストを受けてもらい、その得点を比較したところ、日本人の得点はアメリカ人の3分の1であったという。

最近は、日本人もアメリカナイズされてきて、「自己主張はしたほうがいい」とか、「議論を避けるな」という考えもちらほらと広がっているようだが、あまりよくない風潮である。

議論は徹底的に避けるべきで、もし議論になりそうだと感じたときには、できるだけ謙虚に、相手の言い分に耳を傾けるようにするのがいい。穏やかな言い方であれば、自分の言い分を述べてもかまわないが、議論をするのはダメである。

ハーバード大学のビル・ナーグラーも、恋人関係や、夫婦関係におけるコツは、徹底的に議論を避けることだ、と指摘している(『ビルとアンの愛の法則』講談社+α文庫)。

ナーグラーは、議論になりそうなときには、「議論する必要があるのか?」「今すぐする必要があるのか?」「本当に必要か?」「どうしても必要か?」「間違いないのか?」と自問自答したほうがいいとアドバイスしている。

おそらく答えは”ノー”だろうから、議論などしないほうがいいというのである。

議論は、人間関係を悪化させる。議論しないほうが、うまくいく場合が多いことは間違いない。

結論は留保し、相手のメンツを保つ。

人は意見の押しつけを嫌う。

たとえどんなに明白な理由があることでも、頭から意見を押しつけられたら、「はい、そうですか」とうなずくわけにはいかなくなる。

自分のメンツが保てなくなってしまうからだ。

人たらしは、人間のそういう心の機微をよく知っているから、意見や結論を押しつけたりしない。

あくまでやんわり述べるにとどめるのである。

人たらしのフランクリンも、この話法を使うのは常套手段だったようだ。

ただ謙遜な遠慮がちな言葉で自分の考えを述べる習慣だけはこれを残し、異論が起りそうに思えることを言い出す時には、「きっと」とか、「疑いもなく」とか、その体験に断定的な調子を与える言葉は一切使わぬようにし、そのかわりに、「私はこうこうではないかと思う」とか「、私にはこう思われる」とか、「これこれの理由でこう思う、ああ思う」とか、「多分そうでしょう」とか、「私が間違っていなければこうでしょう」とか言うようにしたが、この習慣は、自分が計画を立ててそれを推し進めて行くにあたり、自分の考えを十分に人に呑みこませてその賛成をうる必要があった場合に少なからず役に立ったように思う(『フランクリン自伝』岩波文庫)。

フランクリンは、人の上に立つ人物であったが高圧的なモノ言いは絶対にしなかった。

たいていの人は、地位が高くなると、つい独善的になって、自分の主義主張を他人に押しつけようとするものだが、フランクリンはそうしないように気をつけていたのであろう。

心理学のデータでも、意見の押しつけをしない人のほうが魅力を感じさせることは確認されている。

メリーランド大学のアリッサ・ジョーンズは、断定的な話し方をするカウンセラーと、結論を留保しながら押しつけをしない話し方をするカウンセラーの話し方を分析し、後者のほうがはるかに魅力を感じさせることを明らかにしている。

人と話すときには、どんなに自信があるときでも、「私はこう思うけど、あなたはどうですか?」というように、結論を出すのは相手にまかせるような話し方をするとよいであろう。

これがフランクリン流の人たらし術だ。

そもそも自分の意見や結論を一方的に押しつけていては、コミュニケーションそのものが成立しない。

内藤誼人(ないとう・よしひと)
心理学者。立正大学客員教授。慶應義塾大学社会学研究科博士課程修了。アンギルド代表取締役。社会心理学の知見をベースに、ビジネスを中心とした実践的分野への応用に力を注ぐ心理学系アクティビスト。近著に、『アドラー心理学あなたが愛される5つの理由』『羨んだり、妬んだりしなくてよくなるアドラー心理の言葉』『人は「心理9割」で動く』(以上弊社刊)、『ヤバすぎる心理学』(廣済堂出版)、『人前で緊張しない人はウラで「ズルいこと」やっていた』(大和書房)、『図解身近にあふれる「心理学」が3時間でわかる本』(明日香出版社)などがある。