(本記事は、正林真之氏の著書『貧乏モーツァルトと金持ちプッチーニ』サンライズパブリッシング、2018年7月25日刊の中から一部を抜粋・編集しています)

なぜモーツァルトが金持ちになれなかったか

貧乏モーツァルトと金持ちプッチーニ
(画像=markara/Shutterstock.com)

中世クラシック音楽界に目を向けてみよう。

あの希代の天才モーツァルトは、天才音楽家ではあったが、経済的には恵まれず貧乏だった。

芸術家というものは、下積み時代が長く、貧乏なものだという常識的な考え方もあるだろうが、モーツァルトと同じ時代を生きた音楽家にも裕福な者は確実にいた。

もともと家が裕福であったり、芸術で成功していたりと、色々なパターンはあったが、「芸術家でも裕福な者」は確実に存在したのである。

当時の音楽家は、宮廷や貴族、教会などに雇われ、雇い主の意向に沿った作曲をすることで生計を立てていた。

モーツァルトも同じように働いていたが、雇い主と折り合いが悪くなったり、仕事が気に入られなかったりと、その仕事は長くは続かなかった。

自分の意にそわない曲を作らなくてはならず、それを不満に感じていた彼は、今でいうフリーランスの音楽家として数々の傑作を生み出し、成功していった。

当然、十分な収入があったはずだが、その生活は貧しかったと言われている。

ここで、彼が貧しかった理由として「その理由は、彼と彼の妻の浪費癖であった。」ということが言われている。

確かに、ギャンブルや高価な服を好んでいた彼らは、入ってきた収入のほとんどを使い切ってしまうことが多かった。

しかも彼らは、夜な夜な友だちと飲み歩き、その全部をモーツァルトがご馳走するということを繰り返していたという。

けれども、彼らが貧乏であった真の理由は、実は「使いきれないほどの金額のお金を稼げていなかったこと」である。

そう、もしポールマッカートニーがモーツァルトと同じくらいの浪費をしていたとしても、彼が貧乏になることなど無い。それは、ポールマッカートニーが、少々の浪費などものともしないくらいに稼いでいるからである。

これに関して言えば、当時から、金持ちとなっていた多くの作曲家は、自曲についての権利(今の著作権のようなもの)を管理し、その使用料で生計を立てていた。

しかし、モーツァルトはそれをせず、曲をその都度切り売りして生計を立てていた。

なぜならば、権利を活用する必要など感じないほど汲めども尽きぬ作曲の才能があった、ということなのである。

だからこそ、他の作曲家のように、権利の管理や活用などせずとも、自ら次々に創作する曲の切り売りでも何とか生計を立てていくことができたし、それで充分に食えていたがために、権利を利用する必要性に気づくことさえできなかったのである。

そう、彼が貧乏であった真の理由は、「大衆受けするところで権利ビジネスを行うことをしなかったがゆえに、少々の浪費などものともしないくらいに大きく稼ぐことができていなかったから」なのである。

もし彼が権利で儲けることを考えていたのであれば、それこそ、どんな使い方をしても使い切ることができないような莫大な財を成していたに違いない。

長所というものは、短所の裏返しなのだ(長所は短所を作るものだ)と、改めてそう思う。

しかしながら、これこそが、モーツァルトがお金持ちになれなかった理由である。

優雅な一生を送ったプッチーニ

一方、その約百年後に誕生したプッチーニは、音楽家の家庭に生まれたが、子どものころは目立った音楽の才能を発揮することもなかった。

それでも伝統ある音楽院で教育を受け続けた。

生活のためにオペラを作った彼は、コンクールに応募するも落選。

しかし、リコルディ社という大手楽譜出版会社に見初められ関係を結ぶ。

これにより、プッチーニの作品の出版権はリコルディ社に帰属することとなるが、プッチーニは上映権料のような性質の「ギャラ」を受け取ることができるようになり、生活が安定していった。

プッチーニはもちろん、音楽家として今もその名を轟かせている天才音楽家のひとりではあるが、モーツァルトには遙か遠く及ばないだろう。

もし、プッチーニが曲の切り売りで生計を立てようとしても、途端に創作が枯渇し、行き詰まることになるのは見えている。

これはプッチーニ自身もよく分かっていたことであろうから、何とか食いつないでいくための別の方法を探すしかなかったのだ。

幸いにもプッチーニは、リコルディ社に属することができた。

モーツァルトがフリーランスの作曲家ならば、プッチーニは組織とうまく契約を結んだ作曲家である。

安定した環境の中で、オペラのヒット作を生み出し、経済的困窮も解決した。

さらに、ミラノ音楽院の教授としての招聘や、ヴェネツィア音楽院の院長の依頼まであった。

実際にこの役職を受けることはなかったが、人気者であることが裏づけられるエピソードである。

歴史に名を残すも、貧乏音楽家で生涯を終えたモーツァルト

「貧乏モーツァルト」などと、あえてモーツァルトの経済状況を大げさに表現してはいるが、モーツァルトがそこまで貧困にあえいでいたかといえばもちろんそうではなかった。

今のレートに換算して、当時の中産階級の年収が500万円程度だったのに対して、モーツァルトの年収は2000万円を超えていたとも言われている。

今でいえば高収入のセレブには違いない。

とはいえ、クラシック音楽史に永遠に名を残すこの希代の音楽家の年収がわずか2000万円と聞くと、あまりに少な過ぎると思わざるを得ない。

世界で今人気の高いビヨンセがワールドツアーやCD売上などで稼いだお金が118億円とも言われているが、もし今モーツァルトが生きていてマスコミやインターネット、イベント等に登場したとしたら、その出演料だけでも年間数百億円に達することは間違いないのではないだろうか。

しかしながら、モーツァルトが生きていた時代のクラシック音楽の世界では、音楽家のマネタイズに関して、まったく異なるもうひとつの事実が浮かび上がってくる。

そして、それこそ、モーツァルトが年収わずか2000万円の貧乏音楽家として生涯を終えざるを得なかった理由に違いない。

そもそも芸術家とは生き方であって、職業ではない。

その芸術家が生きる糧として稼げる収入源といえば、教会や王侯貴族のお抱え音楽家として、給料を貰うしかなかった。

モーツァルト自身は、そんな束縛から解き放たれ、自由に創りたい曲を創って収入を得るような人生を模索し始めたひとりだったようだ。

そんなモーツァルトの収入源はといえば、王侯貴族の専属音楽家としての給料、演奏会の出演料、王侯貴族やその子弟へのレッスン料、楽譜の出版料、パトロン達からの寄付、そして音楽家としての主収入というべき作曲料であったことが推測される。

しかしながら、作品の評価とは異なり、モーツァルト自身の人間的な評価は低く見られていたようで、王侯貴族や当時経済的に潤っていたブルジョワジー達からの評判は決して高くなかったようなのだ。

つまり、ファンの層がそれほど厚くはなかったということのようである。

プッチーニのように自らの才能を知り、ビジネスにつなげた者だけが生き残る

プッチーニは、まっとうな音楽教育を受けてきたことにより才能が開花した努力型の音楽家と言えるだろう。

それゆえに自分の能力の限界を理解していた。

そこで、モーツァルトのような曲の切り売りをしていくフロービジネスではなく、大きな企業に依存し、権利を活用するストックビジネスに切り換えた。

実際、才ある者というのは、「事務的な手続きをあえて取って権利を管理し、当該権利を活用して自らを守り、安定した収益を取る」などという面倒くさいことを考えないものだ。

権利を取り、管理し、ときにはそれを主張し活用することで、そこから収益を得るのはむしろ弱者の側である。

サラリーマンはサラリーマンという立場を活かし、組織に守られた自分の権利をしっかりと主張するということもむしろ賢い生き方のひとつではないだろうか。

はっきり言ってモーツァルトは天才であり、それは疑いようのない事実である。むしろ、天才過ぎたと言ってもよい。

しかし、残念なことに、音楽の才能はあっても、ビジネスマンとしての商才はなかった。

プッチーニは自分をよく知り、どうすればその才能をマネタイズしていくことができるかを考えることができた。

ビジネスマンとしての才能と、音楽家としての才能の両方を持ち備えていたのである。

どちらがいいということではなく、要は、それぞれに最適なやり方があり、それを見誤らないことが最も大切だということである。

貧乏モーツァルトと金持ちプッチーニ
正林真之(しょうばやし・まさゆき)
正林国際特許商標事務所所長・弁理士。国際パテント・マネタイザー。1989年、東京理科大学理学部応用化学科卒業。1994年、弁理士登録。1998年、正林国際特許事務所(現・正林国際特許商標事務所)設立。2007年~2011年度及び2018年度、日本弁理士会副会長を務める。また、2010年~2013年には東京理科大学専門職大学院(MIP)客員教授を、現在は東京大学先端科学技術研究センター知的財産法分野客員研究員及び、東京大学大学院新領域創成科学研究科非常勤講師等を務める。著書に『弁理士になる最短合格法』(中経出版)、『弁理士をめざす人へ』(法学書院)、『会社の商標実務入門』(中央経済社)など多数。

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