(本記事は、ティム・ハーフォード氏の著書『ひらめきを生み出すカオスの法則』TAC出版、2017年12月18日刊の中から一部を抜粋・編集しています)

アドリブを取り入れる?台本を捨て、スポード、柔軟性、ひらめきをフルに活用する即興術

ひらめきを生み出すカオスの法則
(画像=Rawpixel.com/Shutterstock.com)

マーティン・ルーサー・キングの入念な演説の準備

1963年、ひどく蒸し暑いワシントンDCを、25万人もの民衆がデモ行進した。

アメリカの首都に集まったのは、“仕事と自由”を求め、公民権法の法案が議会を通過すべきであることをケネディ政権に示し、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの演説を聴こうとする人々だった。

のちに「ワシントン大行進」と呼ばれるこのデモの公式プログラムでは、大勢の著名人による演説が延々と予定されていた。

8月の蒸し暑さは容赦がなかったが、埋めつくす大群衆は、炎天下に立ちつづけていた。人の波はリンカーン記念堂とリフレクティング・プールを飲み込み、ワシントン記念塔に到達して、国会議事堂に向かって広がった。

ゴスペル・シンガーのマヘリア・ジャクソンが壇上に立ち、「私はなじられ、軽蔑されてきた」と情感を込めて歌った。

群衆の期待がますます高まっていった。

アメリカの3大テレビネットワークは予定の番組を中断して、この大行進の生中継に切り替えた。キング牧師は壇上に進み出た―目の前にいる汗だくの大群衆だけでなく、テレビを観ている、それまで経験したことがない規模の国民に向けて演説をするために。

それは極めて重要なスピーチだった。キングは、それを完璧に成し遂げなければならないことを知っていた。

キングは前日の夜、信頼できる側近たちとともに、入念に演説の準備をした。すべての言葉が重要だった。演説場所は、エイブラハム・リンカーンの座像が設置されているリンカーン記念堂の前だった。

リンカーンが奴隷解放宣言によってアメリカ南部の奴隷を解放すると宣言してから、100年が経過していた。

キングは、リンカーンの有名な「ゲティスバーグ演説」を思い起こさせる言葉を演説に散りばめることにした。

キングの原稿は、次のように始まっていた。「今から100年前、ある偉大なアメリカ人が、奴隷解放宣言に署名した。今われわれは、その人物の座像の前にいる。

この重大な布告は、容赦のない不正義の炎に焼かれていた数百万もの黒人奴隷たちにとって、大きな希望の光になった。

それは、とらわれの身にあった彼らの長い夜に終止符を打つ、喜びに満ちた夜明けになった」

マーティン・ルーサー・キングは、いつも演説を入念に準備した。その記憶力は驚異的だった。

5歳のときには、聖書の一節を暗誦することができた。少年キングは両親に、大きくなったら偉大な言葉を話す人になりたいと言った。

その夢は現実になった。キングは牧師だった父親の影響もあって、演説の技術を幼いうちから学んだ。

14歳のとき、バスでジョージア州を横断して弁論大会に参加した。

キングは、「黒人と憲法」という題目で原稿を暗記して演説し、見事に優勝していた。

それはキングの演説の方法だった―徹底した調査をして、何度も原稿を書き直し、暗記して、情熱を込めて演説する。

3年後、キングはこの方法に従い、父が務める教会の小さな会議室で初めて説教をした。それは実に素晴らしかった。

「噂を聞きつけた人たちが次々にやってきたので、大きな会場に場所を移さなければならなかった」と父親は回想している。

キングは大学時代には弁護士をめざしていたこともあり、鏡の前で裁判所での証言の練習をした。初めての職を得るために、アラバマ州モンゴメリーにあるバプテスト教会に応募をしたときも、それまで何度か行っていた説教をした。

職を得た後も、忙しい時間の合間をぬって説教の技を磨くことに努力を惜しまなかった。

神学の博士課程に通っていたキングは、毎朝5時半に起きると、コーヒーをいれ、ごわごわした髭を丁寧に剃ると、3時間説教の練習をし、起きてきた妻コレッタと朝食をとった。

キングにとって、日曜日の説教は特別な意味があった。いつも火曜日には原稿を書き始めた。1週間をかけて、プラトンやトマス・アクィナス、フロイト、ガンジーなどの古今東西の書物から着想を得て原稿を練り上げていった。

日曜日が近づくと、紙に清書して暗記した。原稿は教会に持参したが、演台の前に立つときは椅子に置き、30分以上も何も見ないで説教をつづけた。信者たちは本質的で深い洞察に満ちた話をするキングを賞賛した。

キングはこの日曜日の説教のために、毎回15時間もの準備をした。

キングは、偉大な演説家だった。しっかりとした教育を受け、才能に恵まれていただけではなく、なにかを偶然に委ねたりはしなかった。

音節の一つひとつにまで細心の注意を払って原稿をつくり、説教の準備をしていたのだ。

準備不足がもたらす悲劇

逆に、準備不足の人がどのような運命をたどることになるかを見てみよう。

元テキサス州知事のリック・ペリーは、2012年アメリカ大統領選挙の共和党候補の本命と目されていたが、討論会での失態によってチャンスを失った。

ある討論会では、その様子を見ていたジャーナリストに健康状態を心配されるほどしどろもどろになった。

別の討論会では、大統領になったら三つの省庁を廃止すると自信たっぷりに列挙し始めたが、3番目の省庁の名前がどうしても出てこなかった。

15分後にようやくそれがエネルギー省であることを思い出したが、見ている方が恥ずかしくなるほどお粗末な討論だった。

2014年、イギリス労働党党首のエド・ミリバンドは演説のなかで、自分こそが次の首相になるべきだと主張した。だが、何十時間もかけて演説の準備をしていなかった。

内容も暗記していなかったし、カンニングペーパーやメモも用意したりはしなかった。ミリバンドは翌朝、テレビのインタビューで次のように説明した。

「私がしたかったのは、スピーチのおおまかな内容を書き出し、それをたたき台にして、国民に向けて演説をすることだった。その方が、聴衆に直接的に語りかけられると思ったんだ。だけど話すべきことを細かく書き出していなかったのはまずかった」

実際、ミリバンドは選挙の大きな論点である財政赤字について話すのをすっかり忘れていた。ライバルたちは、それはミリバンドがこの問題を真剣に考えていないことの表れだと攻撃した。

ミリバンドは批判者の主張の正しさを裏づけるような印象を世間に与えてしまった。数ヵ月後に選挙で大敗し、労働党党首も辞任した。

起業家のジェラルド・ラトナーは、1980年代に築き上げた世界最大の宝石店チェーンを、いくつかのジョークで台なしにした。

1991年、聴衆の企業幹部に向かって、自社製品であるクリスタル・デカンタは“くず同然”であり、イヤリングもサンドイッチより安い代物だと冗談を言った。

この発言は新聞の一面に掲載され、会社の売上は激減した。

ラトナーはCEOを解任され、忌まわしいとして社名から名前まで外されてしまった。

この失言のコストは、50億ポンドと推定されている。ラトナーは、文字通りすべてを失った。

こうした失敗例を目の当たりにすれば、誰だって人前でスピーチをするとき、入念な準備をしたキングを見習いたいと考えるはずだ。だが、それがあてはまらない場合もある。

リスクを冒し、その場の空気に合わせて即興を取り入れるべきときがあるのだ。キングやペリー、ミリバンド、ラトナーの例は、スピーチには慎重な準備が重要であることを物語っている。

しかし、混沌とした即興のプロセスを受け入れることが理にかなっている場合もある。

マイルス・デイヴィスの『カインド・オブ・ブルー』

1959年3月2日、マンハッタンの30番街にある、元は教会だった建物を改造してつくった録音スタジオに、ジャズミュージシャンたちが集まった。

グループのリーダーであるマイルス・デイヴィスは、これから演奏する曲の、漠然としたメロディラインしかつくっていなかった。

セッションは気まずい空気のなかで始まった。デイヴィスが、バンドの元ピアニスト、ビル・エヴァンスを、現メンバーのピアニスト、ウィントン・ケリーに断りなく連れてきていたからだ。

ジャズの精神は即興にある。

通常のレコーディングでは、1曲を数回演奏し、いくつものテイクのなかからいい部分をつなぎ合わせて曲を完成させる。だがマイルスがとった方法は違った。

ビル・エヴァンスはこう説明している。

「このアルバムに録音されているのは、1回目のテイクばかりなんだ。メンバーが初めてその曲を演奏したときの音が使われている。だから聴く人は新鮮に感じるのだと思う。それはファースト・テイクの感覚さ。初回の演奏でそれなりのものができたと思えたら、たいていそれがベストの演奏だ。2回目以降は、最初の新鮮な感覚が失われてしまう」

アルバムの1曲目に収録されている「ソー・ホワット」はこんな具合だ。演奏が始まりかけるが、すぐに中断する。

それが何度かつづく。耳を澄ませば、スタジオ内で紙がこすれる音も聞こえる。

プロデューサーは、ベースとピアノの音に同調してジミー・コブのスネアドラムが振動するのをマイクが拾ってしまわないかと心配していたが、マイルスは気にしなかった。

それも音楽の一部だ、と。

曲は、斬新な試みによって始まる。

ピアノのビル・エヴァンスとベースのポール・チェンバースの二人による、柔らかく精妙なデュエットだ。曲の後半とは異なるゆっくりとしたテンポが、柔軟に変化していく。

ベースが極めて小さな音で旋律を奏でていき、そこにトランペットのデイヴィス、テナー・サックスのジョン・コルトレーン、アルト・サックスのキャノンボール・アダレイが、従来型のコール・アンド・レスポンスの方法で加わり、マイルスのソロに向かっていく。

開始から90秒後、重要な瞬間が訪れる。

ドラムのジミー・コブが急いでブラシをスティックに持ち替えた拍子に、シンバルを少々強く叩きすぎてしまった。コブはデイヴィスがテイクを中断すると思った。

だがデイヴィスはかまわずソロに入った。

それは、ジャズ史上屈指の名演奏になった。バックグラウンドで響きわたるコブのシンバルの音がゆっくりとフェードアウトしていくなか、デイヴィスのソロが奏でられていく。

ゾクゾクするような組み合わせだ。ミスのように思えたシンバルの音が、思わぬ効果を生んでいた。

2度のレコーディングセッションを終え、マイルス・デイヴィスは20世紀の音楽を根本から変えるほどの影響力を持つアルバム『カインド・オブ・ブルー』をつくり上げた。

フランク・シナトラやマイケル・ジャクソンの音楽プロデューサーとして知られるクインシー・ジョーンズは、「毎日このアルバムを聴いていた。それは私にとってオレンジジュースみたいに身近なものだった。今でも、昨日つくられたばかりのような新鮮さがある」と語っている。

デイヴィスたちは、この革命的な音楽を、即興で演奏した。それは、ほとんど奇跡といっていい。

しかし、意外にも、『カインド・オブ・ブルー』はデイヴィスが意図していた音楽とは微妙に異なっていた。

デイヴィスは自伝に次のように書いている。

「私が“あのアルバムでは、本当はアフリカのフィンガーピアノの雰囲気を出したかったが、失敗したんだ”と言うと、誰もがびっくりした顔をする。あのレコードは傑作だという評判を得ていたし、私自身も気に入っている。だから、相手は私がからかっていると思うみたいだ。だけどそれは本当に、特に「オール・ブルース」と「ソー・ホワット」で私がめざしたものだったんだ。そして、失敗に終わった」

ときとして、混乱は価値を生み出す。

たとえそれが、めざしていたものではなかったとしても―あるいはめざしたものではなかったからこそ、思わぬ価値が生まれるのだ。

キングの伝説の演説に隠された秘話

話を、冒頭で触れたキングに戻そう。

1963年、キングはワシントン大行進に集まった25万人のデモ参加者と各局のテレビカメラに向かって演説をすることになった。さすがに、偶然に身をゆだねるというわけにはいかない。最善の準備が必要だった。

キングは側近とともに原稿を練り、タイプライターで清書した。

演説の内容は物足りないとして批判されるだろうか?

それとも歓迎されるだろうか?

その舞台裏では、さまざまな政治的駆け引きがあった。さらに、演説の持ち時間は7分しかなく、キングも例外ではなかった。

こうした制約があったために、入念な原稿を作成し、本番でそれを読み上げるというスタイルは必須だと思われた。

こうしてでき上がった原稿は、いかにも堅苦しかった。

ある部分は詩のような響きもあったが、別の部分は難解な法律用語のように聞こえた。キングは演台の前で原稿を読み上げ始めた。

それは聴衆の魂を揺さぶるようなものではなかった。

だが終盤、キングが聖書を引用した〝正義が水のようにこぼれ落ち、公正さが強い流れになるまで、私たちは決して満足しません〟という言葉を口にしたときから、変化が起こり始めた。

キングの演説に合わせて大観衆の称賛のざわめきが、波のようにうねり始めた。

キングは原稿を見下ろした。そこには、次に読むべき文言がこう書かれていた。

「今日、我々は創造的不満を発展させるための国際協会のメンバーとして、それぞれのコミュニティに戻りましょう」仰々しく、面白味のない文言だった。

キングはとっさの判断で、原稿通りに演説するのをやめ、即興を始めた。

「ミシシッピに戻ろう、アラバマに戻ろう……」

周りにいた友人や仲間は、キングが原稿を捨てたことに気づいた。それは最大の危機であり、最大のチャンスでもあった。

演説のクライマックスに向け、キングは語るべき言葉を探していた。目の前にいる大観衆と、テレビを見ている全国民の心に響くような言葉を。

「あなたの夢を教えて、マーティン」

歌手のマヘリア・ジャクソンが叫んだ。

ジャクソンは、キングがそれまでの数カ月間、教会での公民権運動集会に集まった人々に向けて語っていた、〝白人と黒人が仲よく暮らす明るい未来〟という夢を指していた。

何台ものテレビカメラと期待に満ちた表情の聴衆を前にしたキングは、この状況に見事に反応しながら、20世紀でもっとも有名な演説を、即興で始めた。それは、キングの夢だった。アメリカの夢に深く根ざした夢だった。

「私には夢がある。いつの日か、ジョージア州の赤い丘の上で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルに着くことを。私の四人の幼い子どもたちが、肌の色ではなく、人格によって評価される国に住むことを……」

キングの即興の言葉は、20世紀を揺るがした演説を締めくくった。その演説は、「私には夢がある」(I have a dream)という名で、永遠にこの世に知られることになったのである。

ひらめきを生み出すカオスの法則
ティム・ハーフォード(Tim Harford)
フィナンシャルタイムズシニア・コラムニスト。エスクワイア、ワイアード、ワシントン・ポスト、ニューヨーク・タイムズなどの媒体に多くの記事を寄稿。著書に、『まっとうな経済学』(ランダムハウス講談社)、『アダプト思考予測不能社会で成功に導くアプローチ』『まっとうな経済学者の「お悩み相談室」』『人は意外に合理的』(いずれも武田ランダムハウスジャパン)などがある。

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