ブラックマンデー、山一破たん、バブル崩壊などを経験した後、シティグループ証券取締役副会長まで務めた藤田勉氏は「先のことは誰にも分からない。その中でも将来を見据え、曲がりなりにも投資の世界で30年以上やってこられたのは、縦軸と横軸を意識してきたからこそ」と振り返る。著書も多く、バブル経済や地政学、FinTech(フィンテック)など幅広い分野で鋭い分析を披露している。そんな藤田氏に、混迷を深める相場の将来を見通すために必要なこと、日本のフィンテックの行く末、ビジネスパーソンやエグゼクティブがしっかりとしたキャリアを形成するうえで必要なことなどを幅広く聞いた。インタビューと著書から、藤田氏の哲学を全5回の記事でお届けする。(構成・濱田 優 ZUU online編集長、藤田氏撮影・森口新太郎)
(取材は2019年2月上旬に行われました)
ファンドマネジャーになって一カ月でブラックマンデー
1982年に山一證券に新卒で入社した藤田勉氏。山一投資顧問に出向し、企画調査部で運用報告書や資料などの作成に従事した後、85年に米国ニューヨークに転勤した。米国ではファンドマネジャーの仕事をするにあたり、ボストンの独立系運用会社ウェリントン・マネージメントに派遣され、CFA(米国ファイナンシャルアナリスト)の資格取得を目指し、「ノンプロがいきなりメジャーリーグに放り込まれた感じ」(藤田氏)ながらも懸命に修行を積んだ。
生まれ育った山口県から上京したのは大学入学時、18歳の時だった。父親は地元で大手企業に勤めていたというが、その時から既に「地元に戻るのではなく、いつかは国際金融の現場で活躍したい」という思いがあったという。上智大学を卒業後に新卒で入社したのが山一だった。そこで努力を重ねた藤田氏が、山一キャピタルマネジメントでファンドマネジャーとして今につながるキャリアの一歩を踏み出したのが87年10月。当時は米国に駐在中、27歳だった。
上司は米国人の大物ファンドマネジャーだったという。彼らの給与は数億円というレベル。それこそ山一證券本体の会長や社長よりも高給をもらっているようなスタープレイヤーばかりだった。ファンドマネジャーになりたて、“ひよっこ”の藤田氏は、その米国人上司の指示を受けながら米国株の売買を始めた。
積年の思いを実現させ、ついにその第一歩を踏み出したばかりの青年・藤田勉氏に運用の世界の恐ろしさを味わわせる事件があった。
「ブラックマンデー」である。