(本記事は、齋藤孝氏の著書『仕事に使えるデカルト思考 「武器としての哲学」が身につく』PHP研究所の中から一部を抜粋・編集しています)
語彙力を磨けば、伝える力が高まる
人間ならばどんなに愚かで頭がわるくても、狂人でさえもその例外でなく、いろいろなことばを集めて配列し、それでひと続きの話を組み立てて自分の考えを伝えることができる
『方法序説』(デカルト著・谷川多佳子訳・岩波文庫)76ページ
●「すごい」「やばい」「かわいい」の多用は危険水域
人間と機械の違いについて論じているデカルトは、人間と動物の違いについても論じています。
デカルトは「人間以外の動物は、どんなに完全で素質がよくても、言葉を集めて配列し、話を組み立てて自分の考えを伝えることはできない」と言います。これがデカルトの考える、人間と動物との大きく異なる点です。
私は犬を飼っているのでわかるのですが、犬にも感情はあります。さらに思考もしています。つまり、あれこれ思いを巡らせ、考えてもいるのです。喜怒哀楽もしっかりあって、喜んだり、怒ったりといった感情も明瞭に表します。共感する能力は、人間以上にあるとも思います。犬以外の動物にも感情があって、思考もしているでしょう。
しかし、デカルトが指摘するように、語彙力や言葉の配列力、言葉を使った表現力といったものは、動物は持っていないでしょう。ということは、見方を変えると、語彙力などの言語能力が減退すると、動物に近くなるともいえます。
東京スカイツリーを見て「すごい」、スポーツ選手の活躍を見ても「すごい」、あるいは、大変なことが起こると「やばい」、何かおいしいものを食べても「やばい」、さらには、子猫を見ると「かわいい」、黒のロングコートを見ても「かわいい」……。感情表現は「すごい」と「やばい」と「かわいい」しか持ち合わせていないのか、と思えるような人もときおりいます。
これでは〈いろいろなことばを集めて配列し、それでひと続きの話を組み立てて自分の考えを伝えることができ〉ているとは、とうていいえません。そして、これは「危険水域の語彙力」といわざるを得ません。
●「古い脳」だけでは、感情をコントロールできない
少年院で少年たちの世話をしている人によると、本を読むことができない少年が多いそうです。漫画のページをものすごい速さで繰るので、「なんでそんなに速いの?」と聞くと、「文字はあんまり読みたくない。絵を見ている」と言う少年もいるといいます。しかし、本をゆっくり読んだり、字をしっかり書く練習を積んでいくと、少しずつできるようになって、だんだん落ち着きが出てきて、心をコントロールすることができるようになっていくそうです。
読み書きは、自分の心をコントロールしたり、理性を鍛えたりするのに役立つのでしょう。反対に読み書きの訓練を積まないと、反射脳や情動脳といわれる「古い脳」だけが活動して、気持ちをコントロールできなくなる可能性があります。江戸時代から「読み書き算盤」というように、人間の理性を鍛えるのに役立つと考えられます。
●「青空文庫」を活用しよう
語彙を増やすためには、本を読むことが大切です。本というのは、一人の著者の考えがまとまって書かれているため、つながりのある言葉を学ぶためにも、とてもよいのです。辞書を見ながら語彙を増やしていく方法もありますが、それは少しイレギュラーなやり方でしょう。
読書は著者の優れた理性の力を言葉を通じてそのまま学ぶことでもあります。だから、良書を読むと、理性と言葉の力を一緒に鍛えられます。
最近は電車で読書をしている人は、めっきり少なくなりました。老若男女、スマホの画面を見つめている人が多いのが現状です。
しかし、スマホでも、「青空文庫」などを使えば、優れた著作をたくさん読むことができます。青空文庫は著作権の消滅した作品などを公開しているインターネット上の電子図書館で、福沢諭吉、森鷗外、夏目漱石、芥川龍之介、宮沢賢治、小林多喜二、魯迅、カフカなどの多くの作品を無料で読むことができます。
私の知る限り、スマホで青空文庫を活用している人は非常に少ないと思いますが、これはいかにももったいない。語彙力を高め、理性の力を磨くためにも、青空文庫はおすすめです。
良書を読むことは、過去の偉人と対話することである
すべて良書を読むことは、著者である過去の世紀の一流の人びとと親しく語り合うようなもので、しかもその会話は、かれらの思想の最上のものだけを見せてくれる、入念な準備のなされたものだ。
『方法序説』13ページ
●なぜ本を読まないといけないのか
「なぜ本を読まないといけないのか」という問いに対する答えは、上のデカルトの言葉に集約されているといってよいでしょう。それはつまり、読書は過去の一流の人々と親しく語り合うようなもので、しかもその語らいには、彼らの最上の思想が詰まっている、ということです。
「なぜ本を踏んではいけないのか」という問いに対しても、この答えは十分に有効です。本、特に良書といわれるものは、過去の優れた人々の魂そのものといえます。それをないがしろになどすべきではないし、熟読玩味すれば、私たちの血となり肉となるものです。
読書することに疑問を持っている人は、デカルトの上の言葉を何度も読み返し、しっかりと胸に刻み込むとよいと思います。
最近のビジネスパーソンや学生は、一般的に読書量が格段に減っている印象を受けます。かつては電車や喫茶店などで、本を読む人の姿をよく目にしましたが、今はずいぶん少なくなりました。読書の効用などを考えると、とても残念なことです。
デカルトは〈歴史上の記憶すべき出来事は精神を奮い立たせ、思慮をもって読めば判断力を養う助けとなる。〉(『方法序説』12〜13ページ)とも書いています。歴史を学ぶことで、精神は奮い立ち、それは判断力を養う助けにもなるということでしょう。これは私たちが歴史を学ぶ一つの意義を提示してくれています。
「世界という大きな書物」で自らを鍛える
わたしは教師たちへの従属から解放されるとすぐに、文字による学問〔人文学〕をまったく放棄してしまった。そしてこれからは、わたし自身のうちに、あるいは世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない学問だけを探究しようと決心し、青春の残りをつかって次のことをした。
旅をし、あちこちの宮廷や軍隊を見、気質や身分の異なるさまざまな人たちと交わり、さまざまの経験を積み、運命の巡り合わせる機会をとらえて自分に試煉を課し、いたるところで目の前に現れる事柄について反省を加え、そこから何らかの利点をひきだすことだ。
『方法序説』17ページ
●旅に出ると、多くの真理を見つけられる
〈文字による学問〔人文学〕をまったく放棄してしまった〉だけを読むと、前に紹介したことと矛盾しているように感じるかもしれませんが、そうではありません。デカルトは、この時点で本は十分に読んでいたのです。彼の中では、次の段階として、旅に出るということです。
今の時代でいうと、バックパッカーのように、世界をこの目で見やろうという思いだったのでしょう。あるいは、寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』に近い感覚もあるかもしれません。ただし、デカルトは町ではなくて世界に出たわけです。これはデカルトの青春でもあったのだと思います。
デカルトは〈重大な関わりのあることについてなす推論では、判断を誤ればたちまちその結果によって罰を受けるはずなので、文字の学問をする学者が書斎でめぐらす空疎な思弁についての推論よりも、はるかに多くの真理を見つけ出せると思われた〉(『方法序説』17ページ)とも書いています。
旅に出ると、非常に多くの真理を見つけ出せると、デカルトは主張しています。
デカルトは数年間、ヨーロッパ各地を旅しています。そこで、書物だけでは知ることのできない世間の現実も知り、彼の理性の力や判断力を育むのに、大いに役立ったことでしょう。
書を持ち、旅に出れば、知見が得られる
現代の日本のビジネスパーソンは、デカルトが生きた時代より、はるかに容易に旅に出ることができます。仕事が忙しくて、なかなか旅行できないよ、という人でも、工夫すれば、出かけられることもあるでしょう。あるいは、仕事で出張することもあるでしょう。
そうした場合、デカルトがしたように、性格や立場、職業の異なるさまざまな人たちと積極的に交わって、さまざまな経験を積んで、旅行先や出張先で出合ったり経験したことから、何らかの知見を得ることは十分に可能だと思います。
ただし、そのためには、そうしたことを意識的、自覚的に行なう必要があります。漫然と乗り物に乗ったり、歩いたりしているだけでは、得られることは多くありません。意識を鮮明にして旅する気持ちが大事です。あとから紹介するように、手帳などにメモを取りながら、旅行するのもよいでしょう。
旅は視野を広げてくれます。本を読まない人が増えた昨今、「書を捨て、旅に出よう」より「書を持ち、旅に出よう」を私はすすめたいと思います。
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