(本記事は、守屋洋氏の著書『ピンチこそチャンス 「菜根譚」に学ぶ心を軽くする知恵』小学館の中から一部を抜粋・編集しています)
幸があれば不幸がある
- 恵まれた生活が仇(あだ)となって、かえって不幸に見舞われることがある。なんでも思いどおりになるときこそ、むしろ気持ちを引き締めて事に当たらなければならない。 挫折したあとで成功のきっかけをつかむこともある。たとえ八方ふさがりの状態に陥っても、あきらめて投げ出してはならない。
恩裡(おんり)に由来害(ゆらいがい)を生(しょう)ず。故(ゆえ)に快意(かいい)の時(とき)は、須(すべか)らく早(はや)く頭(こうべ)を回(めぐ)らすべし。敗後(はいご)に或(あるい)は反(かえ)って功(こう)を成(な)す。故に払心(ふっしん)の処(ところ)は、便(たやす)く手(て)を放(はな)つなかれ。(前集一〇)
- 快意 心地よいこと。思いどおりになること。
- 頭を回らす 思いなおすこと。引き返すこと。
- 払心 心に払もとる。思いどおりにならないこと。
恩裡由来生害。故快意時、須早回頭。敗後或反成功。故払心処、莫便放手。
「塞翁(さいおう)が馬」という故事がありますね。『淮南子(えなんじ)』という古典に出てくる次のような話が出典になっています。
「塞翁」とは国境の塞とりでの近くに住んでいる翁(おきな)という意味です。翁といっても、昔は四十歳ぐらいになるとそう呼ばれたようですから、必ずしもよぼよぼになった年寄りを連想する必要はありません。
あるとき、その男の飼っている馬が国境を越えて、異民族の地に逃げていったというのです。近所の人々が、
「とんでもないことになりましたなあ」
と慰めたところ、男は平気な顔で、
「いや、いや、これがいつなんどき幸せを呼び込んでくるかわかりませんよ」
と答えました。
はたして数か月後、逃げていった馬が北方の駿馬を連れてもどってきました。やがてその駿馬が駿馬を生んで、男の家は駿馬であふれるようになります。だが男は、
「これがいつなんどき不幸のタネになるかわからない」
といって、いっこうに嬉しそうな顔をしません。
その後のこと、男の息子が乗馬の訓練中に馬から落ちて大怪我をし、体に障害を負ってしまいます。だが男は、
「これがまた幸せを呼んでくるかもしれない」
といって、いっこうに動じません。
はたして数年後、北方の異民族が大挙して攻め込んできます。村の壮丁(そうてい、成人男子)は兵隊にかり出されてあらかた戦死してしまいますが、息子は体が不自由なるがゆえに兵役を免れ、父子ともども生き残ることができたというのです。
これが「塞翁が馬」の故事ですが、私はこれを「循環の思想」と呼んでいます。
人生がそういうものだとすれば、そういう人生をどう生きていけばよいのでしょうか。
それでまたすぐに思い出されるのが、いつか若い将棋の名人が語ったことばです。
「名人、勝つ秘訣はなんですか」
と聞かれて、
「しいていえば、形勢がよくなってもあわてない。形勢が悪くなってもあきらめない。これが勝つ秘訣かもしれませんね」
と答えていました。
これは勝負事だけではなく、「塞翁が馬」の人生を生き抜いていく秘訣でもあろうかと思います。
名人の語るのを聞きながら、私は、
「若いのに、さすが名人だなあ」
と思いました。
勘違いをしてはいけない
- 富貴な家庭は、人に対して鷹揚(おうよう)であるべきなのに、かえって刻薄(こくはく)である。これでは、富貴でありながら、やっていることは貧賤(ひんせん)な人間と変わりがない。どうして幸せを保つことができようか。 聡明な人物は、才能を包み隠しているべきなのに、かえってそれをひけらかす。これでは、聡明とはいいながら、愚かな人間と少しも変わりがない。どうして失敗を免れることができようか。
富貴(ふうき)の家(いえ)は、宜(よろ)しく寛厚(かんこう)なるべきに反(かえ)って忌刻(きこく)なり。これ富貴(ふうき)にしてその行(おこな)いを貧賤(ひんせん)にするなり。如何(いかん)ぞ能(よ)く享(う)けん。聡明(そうめい)の人は、宜しく斂蔵(れんぞう)すべきに反って炫耀(げんよう)す。これ聡明にしてその病(へい)を愚懵(ぐぼう)にするなり。如何ぞ敗(やぶ)れざらん。(前集三一)
- 忌刻 人の才能などをねたんで、むごく扱うこと。
- 斂蔵 うちに隠しておくこと。
- 炫耀 光り輝かすこと。
- 愚懵 愚かで道理に暗いこと。
富貴家、宜寛厚而反忌刻。是富貴而貧賤其行矣。如何能享。聡明人、宜斂蔵而反炫耀。是聡明而愚懵其病矣。如何不敗。
「富貴」とは、富も名誉も手に入れて恵まれた状態にあること。「寛厚」とは、おおらかで面倒見のいいこと。こうあってこそ恵まれた状態を長持ちさせることができるというのです。
逆に、恵まれた状態にありながら「忌刻」であったのでは、人々の怨(うら)みつらみを買います。「忌刻」とは、情け容赦ないことです。
これではいざというとき、まわりの協力が得られないばかりか、簡単に見放されてしまうでしょう。その結果、せっかくの幸せも長続きしないかもしれません。
後半生を迎えて、今自分が恵まれた状態にあると思うなら、なるべく恵まれない人々に対するいたわりの心を忘れないで生きていきたいものですね。それがわが家の幸せを長持ちさせる秘訣でもあるのだというのです。
また、後段のくだりですが、能力や才能はこの人生を生きていくうえで強力な武器になります。ふだんからしっかり磨いていかなければなりません。ただし、これを鼻にかけたり、見せびらかしたりしますと、まわりの反発を買う恐れがあります。なるべく内に秘めておいてほしいというのです。
それについて、こんな話があります。
孔子(こうし)がまだ若いころ、老子(ろうし)のもとをたずねて教えを請うたところ、老子はこう語ったというのです。
「吾(われ)これを聞(き)く、良賈(りょうこ)は深(ふか)く蔵(ぞう)して虚(むな)しきが若(ごと)く、君子(くんし)は盛徳(せいとく)ありて容貌(ようぼう)愚(おろ)かなるが若し、と。子(し)の驕気(きょうき)と多欲(たよく)と態色(たいしょく)と淫志(いんし)とを去(さ)れ。これみな子の身(み)に益(えき)なし」(『史記』老子伝)
わしはこう聞いている、商売上手は、金目の商品は店の奥にしまい込んでおく。それと同じように、君子は立派な徳を身につけておきながら、一見したところ愚人のようにしか見えないものだとな。そなたには驕(おご)り、欲望、気取り、邪心が見えすぎる。そんなものはそなたにとってなんの益もない。さっさと捨て去ることじゃな。
孔子ならずとも若いときは誰でも持てる能力や才能を表に出しがちなものです。これはある程度やむをえないことなのかもしれません。
しかし人生経験を積んで五十歳のころともなれば、そろそろ内に秘める芸を身につけて「容貌愚かなるが若し」のレベルを目指したいものです。
幸せを呼び込むには
- 幸せは求めようとしても求められるものではない。つねに感謝の心を持って暮らすこと、これが幸せを呼び込む道である。 不幸は避けようとしても避けられるものではない。つねに人の心を傷つけないように心がけること、これが不幸から遠ざかる方法である。
福(さいわい)は徼(もと)むべからず。喜神(きしん)を養(やしな)いて、以(も)って福を召(まね)くの本(もと)となさんのみ。禍(わざわい)は避(さ)くべからず。殺機(さっき)を去(さ)りて、以って禍に遠(とお)ざかるの方(ほう)となさんのみ。(前集七〇)
- 喜神 喜びの心。感謝の心。
- 殺機 さつばつとした心の動き。
福不可徼。養喜神以為召福之本而已。禍不可避。去殺機以為遠禍之方而已。
幸せを招き寄せるための心得を二つ挙げています。一つは感謝の心を忘れないこと、もう一つは人の心を傷つけないことです。
まず感謝の心ですが、人は誰でも生まれてこのかた、多くの人たちのお蔭をこうむって今日があります。その恩を忘れず、できる範囲でお返しすることを心がけて人生を全うしたいものです。
もともと日本人のなかにはこの心が流れていました。ただし、日本でも近年「自分さえよければ」という人が増えてきたように思われます。これでは一時は幸せをつかんだとしても、長続きしません。先人たちが築いてきたよき伝統を受け継いでいきたいものです。
もう一つ、相手の心を傷つけないことですが、とくに注意したいのは、ふだんの発言です。こちらに悪意などはないのですが、何気なく口にしたひと言が、相手の心をいたく傷つけていることがあります。私などもあとで「しまった」と思うことが何度かありました。後悔先に立たずですね。そういう意味でも、発言はくれぐれも慎重にしたいものです。
むろん、以上二つのことを心がけても、幸せを呼び込むことができるとはかぎりません。しかし、幸せを呼び込んでくる道を広げることはできるでしょう。
幸と不幸の分かれ目
- 何が幸せかといって、平穏無事より幸せなことはなく、何が不幸といって、欲求過多より不幸なことはない。 しかし、あくせく苦労してこそ、初めて平穏無事の幸せなことがわかり、心を落ち着けてこそ、初めて欲求過多の不幸なことが理解できるのである。
福(さいわい)は事少(ことすく)なきより福なるはなく、禍(わざわい)は心多(こころおお)きより禍なるはなし。唯(た)だ事(こと)に苦(くる)しむ者のみ、方(はじ)めて事少なきの福たるを知(し)り、唯だ心を平(たいら)かにする者のみ、始(はじ)めて心多きの禍たるを知(し)る。(前集四九)
福莫福於少事、禍莫禍於多心。唯苦事者、方知少事之為福、唯平心者、始知多心之為禍。
『老子』もこう語っています。
「禍(わざわい)は足(た)るを知(し)らざるよりも大(だい)なるはなく、咎(とが)は得(う)るを欲(ほっ)するよりもさんなるはなし」(第四十六章)
この世の中で、最大の災厄は足るを知らない心に起因し、最大の悲劇は利益をむさぼる心に起因している。
人間であるからには、誰にでも欲があります。無欲になれといわれても、おのずから限界があるかもしれません。
だが、欲にまかせて突っ走ったらどうなるでしょうか。いつかどこかで足を踏みはずす恐れがあります。『老子』はそれを警告しているのです。
現役のときは、とかく仕事に追われて、心の休まる暇もありません。あとで振り返ってみますと、いっそうその感を深くします。
せめて仕事から解き放たれたあとの人生だけでも、せっかく与えられた平穏な生活のなかに幸せを見出していきたいものです。
では、どんな生き方を目指したらよいのでしょうか。『荘子(そうじ)』の次のことばが参考にな るかもしれません。
「時(とき)に安(やす)んじて順(じゅん)に処(お)れば、哀楽(あいらく)入(い)る能(あた)わず」(養生主(ようせいしゅ)篇)
時のめぐり合わせに身をまかせ、自然の流れに従って生きるなら、悲しみにも喜びにも心をかき乱されることはない。
「とらわれず、こだわらず」――流れに逆らわない、自然流の生き方をよしとする考え方です。
「修身(しゅうしん)、斉家(せいか)、治国(ちこく)、平天下(へいてんか)」を大所高所から説く儒家と呼ばれる人たちに対して、『荘子』は、そんなに無理をしなくてもいいんじゃないの、といなしています。
あくせく生きるだけが人生ではありません。
現役のときには、「治国、平天下」とまではいかなくても、ノルマだ、目標だと、それなりに無理を強いられながら走ってきたわけです。
そこでは、流れのままに身をまかせて、というわけには、なかなかいかなかったでしょう。そうであれば、この先は、もう少しのんびりと人生を楽しんでもいいのではないでしょうか。
ほんとうは、現役時代であっても、人生の充足をはかろうとするなら、『荘子』的な側面がもっとあってもいいのかもしれません。
せめて第一線を退いた後半生だけでも、こういう生き方を目指したいものです。