マネーの流通高が、バブル期以来の高い伸び率になった。これは、インフレの原因になるのではなく、皆が手元に流動性を置きたいと思っている結果として生じているのだろう。勤労者世帯の貯蓄率は、6月は過去最高になったとみられる。企業も借りられるだけ借り入れを増やしている。いずれも不安に駆られての行動だ。政策論議に足りないのは、マネーを購買力に変えるための積極的な働きかけのアイデアだ。
マネーストック残高の急増
通貨の統計で著しい伸びが記録されている(図表1)。日銀がマネーサプライを「マネーストック」と言い換えた通貨統計では、2020年6月のM2(現金通貨+預金通貨+準通貨)の前年比平均残高伸び率は7.2%と、1991年1月(7.4%)以来の高い伸びになった。当時は、資産バブルが警戒されて、貸出の総量規制を敷いて、マネーサプライの抑制を心掛けていた時期だ。
現在は、それ以降の30年間で最高のマネーの伸び率ではあるが、当時とは様相が全く異なる。このマネーの伸びの背景には、積極的な財政出動と貸出促進の2つの要因がある。ともに、コロナ禍の対策として、家計・企業向けの給付金・助成金を支給したり、資金繰りを支援したりする政策によるものだ。その多大なる恩恵の結果として、預金残高などが増えている。バブル期のようにそれがインフレ(資産インフレ・財価格インフレ)の原因になるようなものではないとみる。マネーストックの内訳では、流動性の高いM1の方が伸び率が高く、次にM2が伸びている。広義流動性やM3のように、流動性が相対的に低いものの伸び率はより低い伸びである。マネーの保有者は、いつでも動かせる資金を持ちたいと強く考えているのだ。
家計の給付金は、その代表が特別定額給付金である。7月11日時点では、11.85兆円が支給済みだ(7 月1日時点9.73兆円)。企業には、持続化給付金のほか、雇用調整助成金などが支給されている。資金繰り支援では、2020年5月から民間金融機関による実質無利子・無担保の貸出が開始された。当初3年は利子補給で実質無利子で、さらに返済もせずに5年間は据え置かれるという破格の好条件の貸出だ。
マネーサプライを増やす教科書的な手法は、財政赤字を拡大させて財政出動することと、信用面から銀行貸出を増やすことだとされるが、それをまさに積極動員した格好だ。
家計の慎重姿勢
反面、政策的にマネーを増加させる対応を採ってはいても、それがフローの側面で活発に需要創出を行っているかと問われれば、必ずしもそうではないとみる。個人消費に関しては、5月までの統計は不振の極みである。総務省「家計調査」(2人以上・勤労者世帯)の消費支出は、前年比▲15.5%と大幅なマイナスである。この5月は特別定額給付金によって可処分所得が前年比13.4%と急上昇している。所得増でも、大幅な消費減になるのは、平均消費性向が著しく落ちるからだ。5月の平均消費性向は、季節調整値で53.2%である。貯蓄率(黒字率)は、100%から平均消費性向53.2%を差し引いて求められる。その貯蓄率は、5月の46.8%もまた2000年以降で過去最高である(図表2)。
6月は、特別定額給付金の支給が本格的に行われて、可処分所得をもっと大きく伸ばしているはずだ。6月の消費支出は、キャッシュレス・ポイント還元の終了などもあって多少は上向きになっているとみられるが、それでもおそらくは平均消費性向でみると、過去最低を更新していると予想される。家計調査ベースの貯蓄率は過去最高だとみて間違いないだろう。
こうした家計行動の背景には、やはり感染リスクが収束しないことがある。家計消費は、コロナ感染を強く警戒して、サービス消費を中心に抑制されているだろう。東京都の新規感染者数は、6月中旬から徐々に増加に向かっており、それに機敏に反応するかたちで、消費も停滞しているとみるからだ。6月は特別定額給付金が支給され、経済再開が行われたので、本来はもっと消費が活発化してもよかったはずだ。しかし、残念ながら、コロナ感染の拡大は、そうした政策支援を減殺する外的ショックとして日本経済に暗い影を落としている。
企業にとっての需要刺激
企業の資金需要も、不安だから手元にキャッシュを持っておきたいという動機によって高まっている。日銀の貸出統計では、銀行・信金の貸出残高は2020年6月の前年比6.2%とこちらも高い伸び率になった。遡及可能な1992年7月まで遡って最高の伸び率である。そこで調達した資金は、銀行などのバランスシート上では、預金残高としても計上される。マネーストック統計の法人預金残高は、2020年5 の前年比は7.8%と高く伸びていた(法人・個人の内訳は1か月遅れでしか公開されない)。企業の預金残高は、コロナ禍以前に金あまりと言われたが、当時よりももっと預金は増加しているのである。先行きの不確実性が高まって、企業は何が起こるかわからない状況に備えて、流動性をできるだけ手厚く持っておこうとしているのである。これを予備的動機という。
そうした動機の下では、やはりインフレは起こらない。キャッシュが需要に結びつかないからだ。マネーは、手元に滞留しているだけで、給与・雇用・設備投資の拡大には結びつかない。安心のために政策的に借り入れを容易にしたのに、流動性需要は無限に大きくなるので、企業はいくらキャッシュを抱えても、それを支出・投資に回そうとしない。ケインズの言った流動性の罠の状態である。
では、コロナ禍がなくなると、キャッシュは一気に需要に回るのか。いや、借入返済が一気に起こるだけだ。企業にとって、魅力的な収益機会が目の前にあったときだけ、投資は誘発される。つまり、収益機会を生み出さないと、マネーの滞留は継続する。
安倍政権の発足後の数年は、成長戦略という言葉が一時的に期待感を生んだ。その言葉が、人々に収益機会の創造を感じさせたからだ。しかし、その期待感は今はない。
財政に対する不安
企業と家計の預金が増えることは、何を生み出すのか。企業・家計の預金増加は、銀行の運用難を加速させて、その資金は国債に回っていく。預金取扱金融機関は、短期債を除く国債だけでも130兆円以上も保有している。国内で増えた資金は、海外に向かう勢いは限定的で、ぐるりと回って財政に環流してきている。政府の資金調達は、日銀の政策と相まって、今までのところは円滑に資金環流されている。
だから、財政拡張に何も問題がないとは筆者は思わない。それは財政収支の改善が、以前に比べて起こりにくくなっているからだ。財政のコンディションは悪くなる。理屈は少し複雑なので、例を使って説明してみたい。例えば、政府が給付した特別定額給付金12.8兆円のすべてが消費に使われたとするならば、そのときは10%相当が消費税を増やす(今は軽減税率・非課税項目を考えない)。税収は1.28兆円増えるから、財政支出12.8兆円に対して、財政収支は▲11.52兆円になる。おそらく、消費増によって、法人税・所得税も増えるだろうから、財政収支の赤字はもっと少なくなるはずだ。
一方、給付金のすべてが消費に回らずに貯蓄されたとすると、税収増はどうなるか。税収増はゼロである。財政収支は▲12.8兆円となる。この数値例は、給付金などが需要創出に回るほどに財政収支は相対的に税収増を通じて改善方向に向かうことを示している。
いかに財政の使途が、需要創出につながるか否かが重要になってくるかがわかるだろう。現在、非常に評判がよくないGoToキャンペーン事業であるが、需要創出の面からみるとそれほど悪いものではない。例えば、2万円の補助で、旅行・飲食費が4万円ほど増えたとしよう。それによって0.4万円が消費税として政府に帰ってくる。財政収支は▲1.6万円の赤字で済む。クーポン券が、その何倍もの売り上げを誘発すれば、それだけ財政収支は悪化せずに済む。 そう考えると、GoToキャンペーンを批判する代わりに、もっとよい需要創出のアイデアに知恵を絞らねばならないはずだ。おそらく、それはエコノミストの仕事でもある。今の政策論議で足りないのは、急増するマネーを購買力に変えるための積極的な働きかけだと思う。(提供:第一生命経済研究所)
第一生命経済研究所 調査研究本部 経済調査部 首席エコノミスト 熊野 英生