(本記事は、新佛 千治氏の著書『クルマ買取り ハッピーカーズ物語』=サンライズパブリッシング、2020年8月7日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)

アフリカ大陸に、夢と希望を求めて

クルマ買取り ハッピーカーズ物語
(画像=kemaltaner/stock.adobe.com)

中古車輸出ビジネスに真剣に取り組めば取り組むほど、お金は出ていきました。1年で大体1千万円ずつキャッシュアウトしていきました。

主な輸出先はアフリカの東海岸。今でもそうですが、アフリカはかねてより、日本の中古車の主な輸出先として知られています。ケニアをはじめ、ウガンダ、タンザニア、モザンビーク、ザンビアといった東海岸の国々は日本と同じ左側通行(右ハンドル車利用)なので、日本車の需要が非常に高いのです。

ちょうどその頃、中古車の輸出先として、モザンビークからの取引が増えていた僕は、メールやSkypeを駆使して、モザンビークのセルジオというバイヤーと片言の英語で直接連絡を取り合うようになっていました。そうして何度かやり取りをした後、彼が自家用車として購入したフォードエクスプローラーの輸出の案件をきっかけに、モザンビークまでセルジオに会いに行くことを決意します。

マプートという港町にほど近いところに住む彼は、今後、日本から中古車を輸入してモザンビークで販売していくビジネスを手広くやっていきたいという夢を真剣に語ってくれました。

帰国後、彼が在庫したいという車をリクエストしてもらい、オークションで買いつけて船積みしました。

金額的には500万円はくだらなかったと思います。ランドクルーザープラド、RAV4といった人気車を次々と送りました。

それなのに、セルジオからの返事は「計画がとん挫して、今は払えない」の一点張り。僕にとって死刑宣告にも思えるその連絡は、日々キャッシュアウトしていく状況においては精神的にも耐え難いものでした。

実際未回収金が300万円くらいあり、そこから仕入れも見込んでいた僕は致命的な状況に陥りました。

もう後はありません。

おもしろいことに、周りには、中古車輸出業をはじめてみたのはいいけれど、なかなかビジネスが波に乗らず苦戦している人たちがたくさんいました。

「みんなで現地法人を立ち上げて、一緒にビジネスをはじめよう」。

手を挙げた10人くらいの人たちと何度か打合せを重ね、少しずつ方向性が決まっていきました。

しかし、いざ資金を出す段になると、ひとり、ふたりと静かに去っていき、最終的に残ったのは僕を含めふたりだけ。仕方なく、僕は彼とタンザニアのかつての首都、ダルエスサラームに現地法人を立ち上げて、ビジネスをはじめることにしたのです。

タンザニアに拠点を移してすぐ、地元の人たちに僕たちの商売を知ってもらうため、大々的に新聞広告を打つことにしました。

現地のトレードショーに日本からラッピングして船積みした車を出展したり、一流ホテルを貸し切って、駐タンザニア大使をはじめ、タンザニア銀行の重役といった要人やマスコミまでも招いてパーティを開いたり、売り込むためなら片っ端から何でもやりました。

現地の電話帳を引っ張り出して、スタッフと一緒にスワヒリ語でアフリカ人の社長に電話をかけてアポをとり、バスで道なき道を進みながら、文字通り命がけでクライアントを訪問し、中古車の売り込みを行う日々。

しかしながら、生半可なパーティーも、にわか仕込みの訪問営業も、簡単にうまくいくほど世の中甘くありません。

結局、何をやってもうまくいきませんでした。

たちまち僕は、にっちもさっちもいかなくなって、その年の暮れ、やむなくアフリカから撤退。

そして同時に、中古車輸出ビジネスからの撤退を決意したのです。

改めて身のほどを知ることからはじめる!

再び、僕はゼロからのスタートを切るため日本に帰りました。アフリカでのビジネスが失敗した原因はたくさんありますが、中でも特にネックになったのは、英語ができなかったことです。

日本でも商売を進めていくにはコミュニケーションが大事なのに、最低限の意思疎通もできなかった僕が海外で、しかも、現地の人を相手に商売するのに、英語ができなければ話になりません。

なぜ、そんなことに気づかなかったんだと思われそうですが、僕は根っから楽天的で無鉄砲なところがあるためか、「片言でも大丈夫」と安易な情報を安請け合いしていました。

グローバルという甘美な響きに目がくらんでいたのかもしれません。

だから一旦ゼロに戻ってアフリカから日本へ帰り、これから一体、何をやって稼いでいこうかと考えたとき、まず頭に浮かんだのは「身のほどを知る」ことでした。

アフリカなんてこれまで行ったこともなかったし、馴染みもなかった。知り合いもいないし、アフリカについての知識もない。

英語はもちろん、現地の言葉も話せない。

そんな自分がアフリカ人を相手にビジネスをしようとしても、うまくいかないのは当然じゃないか。もっと勝算が見込めるところを選ばなければ……。

でも、自分が勝てるところって一体どこだろう? そう自問するうちに、自ずと答えが決まりました。

当然、日本です。 かつ、家の近所。ここならナンバーワンになれる。大好きな湘南という街をベースに勝負すれば、きっと誰にも負けない。

湘南で一番になろう。「湘南で中古車ビジネスといえば、新佛くんのところが一番だね」と言われるようになってやろう。

こうしてビジネスのテリトリーが決まりました。

弱者の必勝セオリーを身につける

「身のほどを知る」際に参考になったのが、イギリス人エンジニアであるF・W・ランチェスターの「ランチェスターの法則」でした。

「ランチェスターの法則」は、弱者が強者に立ち向かうための戦略手法として知られており、実際に世界各国の多くの企業がこれを実践し、競争を勝ち抜いてきたといわれています(『ランチェスター思考 競争戦略の基礎』福田秀人著他/東洋経済新報社刊)。

新たなビジネスを模索し、ナンバーワンになるためのテリトリーを探していた僕が注目したのは、

  • 局地戦=狭い地域で勝負する
  • 接近戦=特定顧客を獲得する
  • 一騎打ち=競合をつくらない

という3つの戦略でした。あくまでも個人的な解釈ではありますが、アフリカでの中古車輸出ビジネスの問題点や大失敗の原因を的確に表すと同時に、次への可能性につなげるためのヒントが秘められていると感じたのです。

僕は早速、これらの戦略をひとつずつ自分の状況に置き換えていきました。

まずは「局地戦」。ターゲットは近所に絞りました。神奈川県が頭に浮かびましたが、もちろんこれでは広すぎます。続いて「藤沢市ではどうだろう?」「辻堂西海岸では?」とどんどん範囲を狭めていき、そして最後に行き着いたのが「湘南エリア」でした。

ここなら局地戦が行えるだろう。そう確信した僕は、次に「どう接近戦に持ち込むか」、そして「一騎討ちできるビジネスとは何か」を考えました。

つまり言い換えれば、地域唯一の存在として特定の顧客を獲得できる方法です。

これには、湘南という町を徹底的にリサーチする必要がありました。勝負する地域を狭めたからといって、"オンリーワン"になれるわけではありません。

それに地域にかかわらず、日本全国にあらゆるビジネスが存在する以上、競合がいない商売を生み出すなんて、そう簡単にはいきません。

僕はもう一度、中古車輸出の失敗を振り返り、答えを探すことにしたのです。

中古車ビジネスのキーワード

中古車輸出業をしていたときは、「オークションで中古車を仕入れ、海外に販売する」ことをメインに行っていました。うまくいかなかった決定的な理由は、「安く仕入れられないから、利益を出すことができなかった」ことに尽きます。

安く仕入れることができさえすれば、世界中にお客様はいるのだから利益は確実に出るのではないか。しかし、オークションは競りの場。業者が欲しい車は同じで、業者からのニーズが高ければ高いほど車の価格は競り上がる。つまり相場が上がるということ。オークション会場で買うということは、どの業者よりも一番高く仕入れることにほかなりません。

それでは、オークションを仕入れの場とではなく、売り場と考えてみてはどうだろう。

つまり、小売りから卸しへの、発想の転換です。

主にオークションに出品しているのは日本全国の新車ディーラー、中古車販売店、買取り店などです。彼らが売りに出した車を、中古車販売店や輸出業者が落札し、販売していくというのが流通の流れです。

日本の中古車流通の優れた点は、オークション会場の検査やルールが極めて厳密に定められており、出品業者も落札業者も安心してオークション会場を利用できること。

日本の中古車売買において、Cto Cの個人売買や、インターネットを通じたBto Cビジネスがいまいち普及しないのは、この秀逸なオークションシステムのおかげだろうと考えました。

そして何よりこのシステムの素晴らしいところは、出品した車が落札されると、書類提出の翌日には落札額が会場から支払われるという点にあります。

例えば、今日一般ユーザーから買取りした車を明日のオークションで売れば、駐車場代もかからず明後日には代金を全額回収できるということです。

小資本ではじめられて、資金回転率がずば抜けていて、在庫不要でできます。

これだ! そう確信した僕は早速ひとりでゲリラ的にクルマの買取り業をはじめました。

とにかく「車を買います」と、家族をはじめ、知人、友人、近所の人などに声をかけまくりました。最初は相手にされませんでしたが、割とバカになって同じことを言い続けていると、「じゃあちょっとうちの車見てよ」と不思議なもので自然と声がかかるようになりました。

社名づくりにこだわる理由

せっかく声をかけてもらったのに、がっかりさせるわけにはいきません。

とにかく他社の買取り額や下取り額より徹底的に高い価格を提示していきました。

そのうち「これはいける」と踏んで、広告を出すようになりましたが、そこで壁にぶち当たりました。

大手競合他社の看板にはかなわないということです。

査定の現場にいるのは、僕ひとりではありません。

テレビやラジオでバンバンCMを流し続ける大手買取り店の営業スタッフを目の前にして、まったく相手にされないこともありました。

確かにお客様の気持ちになって考えると、自分の大事にしてきた車を見ず知らずの個人経営の、店舗もない買取り業者に譲るのに抵抗があるのは当然です。

そこで、買取り店のブランド、しかも、一発で頼みたくなるような社名が必要だと痛感しました。

こちらはどこよりも高く買おうとしているのに、ブランド力がないからといって、同じ車を他社に安く売ってしまうなんて、お客様にとって大きな損失です。

ブランドづくりに向けて、徹底的に自己分析を行いました。単なる真似事のような社名だけではだめだ。

誰でも、気軽に、安心して頼めるような、強烈にキャッチ―で、なおかつ理念が凝縮されていて、ブランドをひと言で表現できる名前。僕自身が、これまでの人生で培ってきた経験を通して世の中に感謝と尊敬の意を表したい。この理念を言語化しました。

「車を通じて、かかわる人すべてにハッピーを提供していく」。

この理念から"クルマ買取りハッピーカーズ®"という会社名が生まれたのです。

やがて、自分の勝負エリアである湘南のさらに狭い地域に限定して、一般的な買取り相場よりもできるだけ高く買取りを続けていると、徐々に商売が繁盛してきました。

すると噂を聞きつけた中古車輸出業者たちが10社くらい集まって加盟店となり、車買取りビジネスの輪がどんどん広がっていきました。これが現在のフランチャイズの前身となるのです。

クルマ買取り ハッピーカーズ物語
新佛 千治(しんぶつ ちはる)
株式会社ハッピーカーズ 代表取締役
営業職としてメーカーに入社落ちこぼれ営業マンから全国トップクラスの営業マンに成長するも、自分の可能性をもっと広げてみたいと、退社。大波に乗ることを目指してハワイへ。
帰国後、新たにデザインの勉強をはじめ、広告業界に飛び込む。出版社にデザイナーとして入社し、のちに大手情報サービス会社で広告制作ディレクター、コピーライターとして実績を積み、2005年にはクリエイティブディレクターとして広告制作会社を立ち上げる。
その後、外部要因に左右される経営環境を変えるべく、もうひとつ事業の柱をつくろうと中古車の輸出ビジネスを開始。海外への販売ルートの開拓を視野に、中古車の輸出先となるアフリカのタンザニアに現地法人を立ち上げる。
しかし、治安の問題もあり短期間で撤退を決断。中古車輸出業から手を引く。その際の経験を活かし、日本国内において一般のお客様から中古車を仕入れて、オークションで販売する車買取り業者、株式会社ハッピーカーズが誕生。
2015年の事業立ち上げからわずか4年で、全国に70以上の加盟店を展開する企業へと成長する 。

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