本記事は、リチャード・デイヴィス氏の著書『エクストリーム・エコノミー 大変革の時代に生きる経済、死ぬ経済』(ハーパーコリンズ・ ジャパン)の中から一部を抜粋・編集しています
ザータリ難民キャンプ
●15歳のギャングのボス
その目のために、人は彼をキツネと呼ぶ。地平線へ向けられたハレドの視線は、危険がないか何かいいことがないかを探して、すばやく左右に動く。彼はつねに警戒しなければならない。リーダーとして危うい集団を率いている。もし捕まれば、ハレドも仲間もヨルダンから追放され、戦時下のシリアに戻される。
危険な暮らしにはその分、旨みもある。毎日、家に20ディナール(約28ドル)をもち帰れるのだ。専門技術をもった30歳のエンジニアがヨルダンの首都アンマンでもらえる給料のざっと2倍になる。稼ぎが大きいのは、違法だからだ。ハレドたちは密売人グループで、食料、タバコ、電子機器、医療用品などを売りさばき、世界最速で拡大しつつあるザータリ難民キャンプの境界線をこっそり出入りしている。ハレドは15歳だ。
密売ゲームを始めてまだ日は浅い。2013年まで、ハレドは南シリアのダエルという町に暮らし、戦争前のシリアの子どもの94パーセントがそうだったように、学校に通っていた。乾いて68埃っぽいヨルダンとはちがい、シリアは水源の多い緑豊かな国で、故郷ダエルはオリーブとぶどうの産地として知られていた。戦争前のダエルの人口は3万人ほど、大都市にはほど遠い穏やかな町だった。
だが2011年3月、住民がバッシャール・アル・アサド大統領への抗議運動に参加したために、ダエルはその後の内戦で激しい爆撃の標的になった。住民には国境を越えて南に逃げるしか道がなかった。アチェの人たちが2004年の災害ですべてを失ったあと生活を立て直したように、彼らも難民となった場所で生活を立て直そうとしている。
ヨルダン北部の難民キャンプにいるシリア人も、災害を生き延びたアチェの人たちも、大切な人を亡くし、財産を失い、社会と経済が破壊されるのを目の当たりにした。そのショックは大きく、残酷だった。だが、私のようにザータリにしばらく滞在してみると、アチェのときもそうだったように、ある種の楽観的な感覚と、どんな困難でも人は打ち破っていけると信じる気持ちが芽生えてくる。
ザータリも極エクストリーム限経済の場所であり、とてつもない逆境のなかで奇跡のように経済が動いている。難民が何を失ってきたかを突きつける場所だが、創造性豊かな経済が短時間で生まれる場所でもある。新しいビジネスが次々につくられる一大ビジネス拠点となり、周辺のヨルダンの町に商品を「輸出」するほどに成功している。
私は、この難民キャンプから得られる教訓は、津波を生き延びたアチェのそれとは、多少似てはいても種類のちがうものだと思っていた。アチェでは、駆けつけてきた外部の援助団体が海のそばには戻らないほうがいいと助言をしても、生き方を決めるのは住民であって、結局彼らは何世紀も住んできてよく知っている場所に戻ってきた。
だがザータリ難民キャンプに住むシリア人家族は事情がちがう。安全を求めて逃れてきた人たちであり、外国の土地に難民として暮らす彼らは厳しい管理下に置かれている。ヨルダン当局や国際援助団体など外部の機関は、助言者ではなく統治者であり、難民の生活に大きな影響を与える決定を下すのは、彼ら自身ではなく外部の機関なのだ。
死亡者の人数ならザータリのほうが少ないかもしれないが、自分が主体となって生き方を決められるかどうかで見れば、ザータリの難民のほうがはるかに多くを失っているのではないだろうか。
どこの難民キャンプでも非公式の取引があたりまえにおこなわれるものだが、ザータリ難民キャンプは新しい店の数などの公式データを見ただけでも桁外れの勢いだということがわかった。そこで私は実際にザータリへ行き、買い物をする場所も食べるものも着るものも厳格な管理下に置かれているはずの彼らがなぜ、またどんなふうに活発な取引をおこなっているのか、確かめようと考えた。
ザータリの才能豊かな起業家たちに会って、経済が破壊されたときに彼らがどうやって生活を立て直したのか、その秘訣についてインタビューを重ねるうち、ザータリ難民キャンプのシリア人が悪魔の双子のように怖れるもうひとつのキャンプがあることを知った。
ふたつの難民キャンプの経済を比べることで、ちょっとした品物やサービスにしろ、人生の選択と自己の主体性にかかわるもっと重大なことにしろ、非公式な取引がいかに難民のニーズを満たすのに役立っているかを知ることができた。双子のキャンプはまた、外部機関が人にとっての経済活動の価値を理解していない場合、難民がいかに悲惨な状況に追いやられるかも浮き彫りにした。
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