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(画像=アシザワ・ファインテック株式会社)
芦澤 直太郎(あしざわ なおたろう)
アシザワ・ファインテック株式会社代表取締役会長
1964年東京生まれ。1987年慶應義塾大学法学部卒業。三菱銀行に入行後、1991年父親が経営する機械メーカーのアシザワ株式会社に入社し、2000年に社長就任。長年の間に失われたベンチャー精神を取り戻し、社員が活躍できる真の機械メーカーとしての自立を図るため、創業100周年を迎えた2003年、アシザワ株式会社から機械事業を独立させ、アシザワ・ファインテック株式会社を設立、「新創業」に踏み切った。2022年より習志野商工会議所会頭。
アシザワ・ファインテック株式会社
当社は、粒子をナノレベルまで細かくすることが可能な微粉砕・分散機「ビーズミル」の、開発・製造・販売・アフターサービスを一貫して行なっている機械メーカー。1903年の創業以来、常に時代の最先端の技術に挑み、社会の要求に応える製品づくりを行う。創業120周年を機に、持続可能な成長のため、四世代にわたるオーナー社長体制から、社員出身の社長のもとで戦略的で機動力のある新体制がスタート。

アシザワ・ファインテックの事業変遷

ー まずは、アシザワ・ファインテックのこれまでの経緯について教えていただけますか?

私たちの会社は創業から今日まで、数々の変化を経験してきました。創業は1903年で、創業者は私の曽祖父です。彼は元々海軍の造船所で軍艦の修理を担当していた職人でしたが、そこから独立し、東京の月島で自分の作業場を開設しました。当時は金属板を仕入れ、それを丸めて円筒形の容器やタンクを作る仕事でした。

その後、大正時代には蒸気機関車の製造や、関東大震災や東京大空襲の復興に必要な鉄筋コンクリートの建物を作るためのセメント製造設備を製作しました。ただし、当時は下請け工場としての立場でした。

1980年代、私の父親の時代になり、下請けの仕事から自社での開発や営業を行う機械メーカーへと進化する必要性を感じ、現在の事業である粉砕機の開発に至りました。

ー 2003年に事業が不動産事業と分離したという話を拝見いたしましたが、その経緯について教えていただけますか?

創業地は東京の月島と申しましたが、その後昭和の時代に工場が拡大し、東京の江東区に移転しました。ここに広い敷地の工場を設けていましたが、バブルの時代に東京都内で製造業を続けるのは、工場から騒音が出たり、近所迷惑にもなるなど問題が多かったのです。そこで、昭和から平成にかけて、工場を千葉県習志野市に移転しました。

その後、機械製造業は千葉県で続けてきました。しかし、元々工場があった東京の江東区の敷地を有効活用したくて、大型の物流施設を建設し、それを賃貸として貸し出すというかたちで、不動産賃貸業を副業として始めました。 これにより、一つの会社の中に本業の機械製造業と副業の不動産賃貸業が二つの柱として存在する形になりました。ただし、機械製造業は技術が確立すれば楽しいビジネスですが、開発費がかかったり、売れるとは限らないため、売上や利益は年によって変化が激しいです。

一方、不動産賃貸業は大きな財産を取得するための借入が必要ですが、毎年安定した賃貸収入があり、収益性や安全性だけを考えれば、リスクが少ない事業です。 このように、変化の激しい機械製造業と安定している不動産賃貸業が一つの会社の中に存在しますが、金融機関から見ると、不安定な機械製造業はリスクが高いと見なされ、廃業の勧告を受けることもあります。

ー安定した不動産賃貸業を続け、リスクの高い機械製造業をやめるという判断にはならなかったのでしょうか。

それはありませんでした。私としては、祖業である機械製造業は先祖から受け継いだ大きな資産、すなわち技術やお客様との信頼関係、取引基盤であり、これを捨てる選択肢はありませんでした。 そこで、二つの事業をそれぞれ健全な形で存続させるため、会社を分離し、本業の機械製造業を新しい会社として再出発させました。これが創業百年を迎えた2000年の出来事です。

100年企業、成長し続ける秘訣とは

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(画像=アシザワ・ファインテック株式会社)

ー なるほど、ありがとうございます。では、御社の長寿の秘訣や成長の秘訣とは何でしょうか。

残念ながら創業者がどのような思いで事業を始めたかどうか、また後継者がどのような理念で活動していたかなどは、記録も記憶も我が家には残っていませんので、私が考えた後付けの解釈になってしまいますが、百年の歴史の中で、それぞれの時代の最先端の技術に挑戦し、社会に貢献できるものづくりを続けてきたという姿勢は一貫していると思います。

私が行った会社の分離と再出発は、この姿勢を継承し、百年後の子孫や後輩に向けて経営理念を明文化しようとしたものでもあります。しかし、この経営理念は、私一人ではなく、当時社内にいた全員が共感できるものを作る必要があったため、百年先に向けてその理念を具体化し、実現していくための実践計画を作りました。

それから20年が経ち、今年で創業120年を迎えています。これまでの変遷から、私たちの事業の強みは、世界トップレベルの粉砕機の性能を誇ることができています。

地域での取り組み

ー なるほど、それは興味深いですね。続いて、地域で愛される企業を目指すための取り組みについて教えていただけますか?

はい、私たちのビジネスはB2Bで、電池や化粧品など様々な業界にサービスを提供していますが、千葉県という地域と密接に結びついているかというとそういうわけではありません。というのも、お得意先は日本全国に広がっており、海外にも及んでいます。しかし、地域へ貢献していくということは重要なことだと考えています。私たちの工場がある場所は、かつては東京湾の遠浅で、海苔の養殖や貝が取れたり、野鳥や魚が豊かに生息していた自然環境でした。昭和の後半に埋め立てが行われ、人間の住居や工場が作られました。

そのため、私たちが工場を構えているこの場所では、地域の皆さんや自然環境と共にビジネスを行っているという意識は一部持っており、地元にある東京湾に残された最後の自然、谷津干潟という場所で、社員が定期的に清掃活動を行っています。

また、私自身が社長から会長になったため、これからは別の角度からも地域への貢献に対してより一層力を入れていきたいと考えています。

守るべき伝統

ー 変化の激しい時代だからこそ、何を守り、伝統として守り抜くべきか、その点について教えていただけますか?

私たちが作っている製品自体は変わり続けています。その変化の激しさは、加速度的に高まっていると感じています。しかし、私たちは変わりたくて変わっているわけではなく、変わらざるを得なかったというのが実情です。

売ろうと思って作った製品が売れなかったので、品質を高めたり、コストを下げたり、別のマーケットに同じ製品を持っていくなど、いろんな試行錯誤を繰り返してきました。その中でお客様から別の機械を作ってくれとか、天変地異があって今と同じ事業ができなくなったといったようないろんな偶然が重なり現在に至っています。

百周年を迎えたときに、多くの方々から「百年間続けられましたね。すごいですね。その秘訣は何ですか?」と問われ、私自身はその時まだ社長になったばかりだったので、その答えを父親に聞いたことがあります。その時の父親の答えは「絶好調の時期がなかったからだ」というものでした。 つまり、常にピンチと投資が隣り合わせだったので、危機感を持って製品を変える、あるいは社内の改革をするといったことを絶えず行ってきた結果、その時代の変化に対応できたということです。

また、過去の輝かしい歴史など何もないので、過去を振り返りたいとさえ思わないというのが父の考えでした。それから20年間、その言葉を胸に、私も経営を行ってまいりました。このような姿勢で取り組んだ結果として、今日の粉砕機としての性能のトップレベルにたどり着いていると思います。

また、最先端の技術に挑戦していくという姿勢と、それを通じて世の中、日本の産業全体、さらに言えば、世界中の人々の健康で平和な暮らしに貢献するという姿勢は今後も持ち続けていきたいと考えています。

将来の展望

ーありがとうございます。時代に合わせて事業を変えていき、改革を起こすことは簡単ではないと思います。そんな中で今後どのような未来を描いていて、その実現のために現在何を行っているのでしょうか?

私たちの会社は120年の歴史を持っています。その間、代々オーナー社長の長男が後を継いで安定的に経営をしてきました。私自身、小さい頃から社長になると言われ続けてきましたが、同じことを私の子供や孫に言うべきかというと、それが本当に良いのかということを自問自答してきました。

私の子供が男でなく、娘しかいないという事情もありますが、社長の息子が必ず社長になる、つまり社長の息子でないと社長になれないというのは、これからの変化の激しい時代の中で、会社が成長し続けるためには障害になりかねないと思っています。 その結果、今回私が社長の座を譲ったのは、子供でもなく、身内でもなく、従業員として入社した人物です。その人物は社長になろうと思って入社したわけではありませんが、入社後に努力し、周囲からのサポートを受けて、社長になれるということを示すことができました。

そして、これから私は会長という立場で、その実現を新社長と一緒に目指していきたいと思っています。

ただし、会社の株式や経営権そのものを手放すわけではありません。経営する人がオーナー社長でなくても良いと思っています。それぞれの時代ごとに最もふさわしい人が社長になれるということを理想としています。

ーありがとうございます。最後に「見えないことで、未来を拓く」というブランドメッセージについて教えていただけますか?

この「見えないこと」というのはいくつか意味があります。まずは、私たちの独自技術である微粉砕についてのことで、これは粉を見えなくなるまで小さくする技術のことです。また、弊社の粉砕技術を知らない消費者はほとんどだと思います。そういう意味で、社会から見えないですが、知らないところで社会の役に立っているということを表しています。社員に対しても同様で、私のように表に出る立場の人間もいる一方で、社内で本当に活躍している社員でも、表向きは知られず、評価されにくい社員もいます。このような社員も、人には知られていなくても、社会の役に立っているし、私はそのような影の努力もしっかりと見ているということを伝えています。

ー やはり100年もの歴史を誇る企業様の考えは深いですね。大変勉強になります。本日は貴重なお時間をありがとうございました。

氏名
芦澤 直太郎(あしざわ なおたろう)
会社名
アシザワ・ファインテック株式会社
役職
代表取締役会長