本記事は、白井旬氏の著書『人的資本経営×ESG思考』(合同フォレスト)の中から一部を抜粋・編集しています。

先進国
(画像=Pixels Huntere / stock.adobe.com)

時代とともに下がる「付加価値」と日本の現状(先進国で最低レベル)

能力の「付加価値」は時代の変化に伴って低下することがあります。例えば、かつての「算盤そろばん」です。算盤は、計算の熟練度が高いことが大きな価値でしたが、電卓、表計算ソフトなどの登場により「計算能力が一般化」し、その付加価値は相対的に低下しました。

技術の進化が進む中で、従業員が持つスキルや企業の提供する製品・サービスの付加価値も、時代に対応しない限り下がるリスクがあります。企業が旧来のスキルや技術に依存していると、結果として競争力が低下し、労働生産性が減少する原因となります。

国の経済規模を示す国内総生産(GDP)とは、国全体の「付加価値」の総和です。それでは、現在の日本のGDPはどの程度なのでしょうか?

経済協力開発機構(OECD)の2022年データでは、日本の1人あたりの労働生産性は世界31位と、主要先進国の中で最低レベルです。

日本が依然としてアメリカ、中国、ドイツに次いで世界4位の経済大国であるのは、人口が多いことが大きな要因であり、個々の生産性は他国に大きく劣ります(図表1-2)。

『人的資本経営×ESG思考』より引用
(画像=『人的資本経営×ESG思考』より引用)

さらに、G7諸国では日本以外の国々が30年の間に実質賃金を順調に伸ばしている中、日本は賃金がほとんど横ばいの状態が続いています。

このことが「日本は経済大国だけれども、国民一人ひとりが豊かさを感じられていない」という現象の大きな原因の1つであると考えられています。

こうした状況を打破するためには、付加価値を維持・向上させる人的資本への投資が不可欠です。

企業が持続的な成長を目指すためには、従業員のスキルを時代に合わせてアップデートし、価値を生み出す能力を高め続けることが重要です。この投資が労働生産性の向上に直結し、長期的な競争力を確保するための基盤となります。

「子どもの習いごと」は“人的資源” or “人的資本”のどっち?

2024年3月、世界最大規模の世論調査会社イプソスが発表した「2024年イプソスグローバル幸福感調査レポート」によると、日本を含む世界30カ国の23,269人を対象に行った調査で、「幸せである」と回答した日本人は57%にとどまり、調査対象国30カ国中28位という結果でした。

さらに、2011年の調査から13年間で、日本人の幸福感は13ポイント減少し、「自分の経済状況に満足している」と答えた人はわずか36%で、最下位となっています。

この調査では、幸福感は「家族と友達」「健康と安全」「お金と政治」「学校・仕事・生活の質」など、様々な観点から総合的に評価されており、これらの要素が組み合わさって幸福の定義が形成されています。

こうした日本の幸福感の低下を背景に、子どもの「将来の可能性や幸福感を高める」手段として「習いごと」が、より一層注目されています。

近年、人気のある「子どもの習いごと」には、水泳、英会話、ピアノ、習字、サッカー、ダンス、プログラミングなどがあり、いまだ「算盤」も根強い人気を誇ります。

親世代に聞くと「子どもがぜんそく気味だったが、水泳で症状が改善した」や「恥ずかしがり屋だったが、サッカーを通じて積極的になった」といったコメントが多く寄せられ、子どもの健康・性格・能力など、その後の人生に関わる要素への関心が高まっています。

参考までに、子どもの習いごとにかける費用の平均は、2022年のソニー生命の調査によると月額14,429円、2024年のベネッセ教育総合研究所の調査では月額16,676円となっており、おおむね毎月15,000円前後と考えるとよいでしょう。

さて、この「子どもの習いごと」を「人的資源経営」と「人的資本経営」の視点から考えてみましょう。

家計に余裕がある状況では、「習いごと」は「子どもの才能開花」や「将来の可能性を広げる」ための投資であり、長期運用型の「人的資本経営」に該当するといえます。

しかし、収入が大きく減少し家計が圧迫されると、毎月の家計のやりくりが重要となり、食費や光熱費・交際費等と同様に「習いごと」も削減され、短期損益型の「人的資源経営」として対応せざるを得ない状況が生じてくると考えられます。

「人的資本経営」への転換と失われた30年

2020年9月、経済産業省が発表した「人材版伊藤レポート」により、日本における人的資本に関する課題が明らかになりました。続いて、2022年5月には「人材版伊藤レポート2.0」が発表され、国内19社の「人的資本経営」の事例が紹介されました。このレポートにより、企業に対して「人的資本経営」を実践することが求められています。

さらに、2022年6月には「骨太方針2022」および「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」が閣議決定され、企業に対する「人的資本経営」への転換と「人的資本の情報開示」が義務づけられるようになりました。その結果、2023年3月期から上場企業は、有価証券報告書において人的資本情報を開示する義務を負うことになりました。

このような「人的資本経営」への転換は、日本が直面している経済停滞からの脱却を目指す重要な取り組みです。特に、「失われた30年」と呼ばれる1990年代初頭から2020年代初頭までの期間は、経済の停滞と賃金の横ばいが続き、大きな問題とされています。

この時期、日本では不動産価格や株価の大暴落により、多くの銀行や証券会社が倒産し、企業ではリストラやコスト削減が進行しました。また、不良債権問題の影響で金融機関が貸し渋りや貸しがしを行い、多くの企業が大きな打撃を受けました。

その結果、日本人の賃金はこの30年間ほぼ横ばいであり、労働者の意欲や生産性にも悪影響を及ぼし続けています。

例えば、2017年にギャラップ社が実施した「従業員エンゲージメント調査」では、日本の「熱意あふれる社員」の割合がわずか6%にとどまり、多くの人々に衝撃を与えました。

その7年後の2024年6月に発表された同調査の最新報告でも、「仕事に対して意欲的かつ積極的に取り組む人」は依然として6%にとどまり、かつ、「仕事に対して意欲を持とうとしない人」は24%にも達しています。

「働き方改革」の推進以降も、従業員の意欲が依然として低い状態にあり、このことは、「日本の企業や国の経済に悪影響を及ぼす可能性が高い」と懸念されています。

この「失われた30年」と呼ばれる日本の状況を理解するために、同じ時期に他国がどのような状況であったかを見てみましょう。OECDのデータをもとに作成した図表1-3「各国の賃金比較」では、1991年を基準に各国の実質賃金の推移を5年ごとに示しています。

『人的資本経営×ESG思考』より引用
(画像=『人的資本経営×ESG思考』より引用)

1991年と比較して2020年の日本の実質賃金は103.1%で、ほぼ横ばいの低成長を示しています。対照的に、G7の他の5カ国(アメリカ、イギリス、カナダ、ドイツ、フランス)は、2020年時点で実質賃金が129.6%から146.7%の範囲で成長を遂げています。

仮に毎年1%ずつの上昇が30年間続いた場合、複利効果で実質賃金は134.8%に達します。これは、カナダ(137.6%)やドイツ(133.7%)とほぼ同じ水準です。

このことからも、わずかな年々の賃金上昇が長期的に大きな差となり、結果として、日本と諸外国との差が、年を追うごとに大きく広がっていることがわかります。

『人的資本経営×ESG思考』より引用
(画像=『人的資本経営×ESG思考』より引用)

さらに、厚生労働省が2018年に発表した「GDPに占める企業の能力開発費の割合の国際比較」(図表1-4)によると、2010年から2014年の5年間のアメリカのGDPに占める「企業の能力開発費」は約2%です。

日本の約0.1%と比べると、約20倍もの差があり、企業の能力開発費と各国の実質賃金には明確な相関があると考えられます。

このデータは、企業が人材に投資することが長期的な賃金上昇、ひいては経済全体の成長に寄与する可能性を示唆しています。

『人的資本経営×ESG思考』より引用
白井旬
職場の戦略人事パートナー
旅行会社、IT企業、地銀系シンクタンク、経済支援団体、NPO法人など多岐にわたるキャリアを通じ、「個人の活躍と事業発展の両立」を追求。職場リーダーから経営者までの20 年の経験をもとに、人的資本の価値を引き出す独自メソッド「経験の資本化」で、300社・5万人以上を支援。
沖縄県の「人材育成企業認証制度」事務局長を10年務め、独自の「活躍の方程式(活躍=能力×状態)」を開発。近年は、全国へと活動の場を広げ、「地域の人事部」として地域社会における人材育成と活躍支援のプラットフォーム構築にも尽力している。
著書に『生産性を高める職場の基礎代謝』『経営戦略としてのSDGs・ESG』があり、企業向け「人的資本経営とESG」、個人向け「経験資本化ガイディング」を通じ、次世代の「未来から愛される会社®づくり」に邁進中。
職場のSDGs研究所代表取締役、NPO法人沖縄人財クラスタ研究会代表理事も兼任。国家資格キャリアコンサルタントでもある。

※画像をクリックするとAmazonに飛びます。
『人的資本経営×ESG思考』
  1. 先進国で最低レベルの日本の「付加価値」とは
  2. SDGsとESGの違いとは
  3. 事業の発展に必要なのは、人的資本×社会関係資本×心理的資本
  4. 「ドーパミン的承認」と「オキシトシン的承認」とは
  5. 経験値を得てレベルアップ!ヒントはゲームの世界にあった
  6. 「成長」は最大のエンターテインメント
  7. 人的資本開示が求められる背景とは
ZUU online library
※画像をクリックするとZUU online libraryに飛びます。