本記事は、匠 英一氏監修の著書『すぐに使えるビジネス教養 心理学』(フォレスト出版)の中から一部を抜粋・編集しています。
理解と納得の構成プロセス
見ているつもりで「解釈」している
大学の相談室で、新人カウンセラーの山田は、相談に来た学生の表情や視線を注意深く観察し、質問のたびに目をそらす様子を見て、「何かを隠しているのではないか」と感じました。研修で「視線には心が表れる」と学んでいたからでした。しかし面接後、指導教員は記録を見ながら静かに言いました。
「この学生は嘘をついていたのではなく、初めての場所で緊張していた可能性もあります」
その一言に、山田ははっとします。自分は相手の行動を見ていたつもりで、実際にはそこに自分の経験や期待を重ねていたのです。
専門家ほど陥りやすい「見方の固定」
経験を積んだ専門家ほど、多くのパターンを知っているため、素早い判断が可能になります。
これは専門性の重要な側面ですが、同時に危険も伴います。すなわち、「この動きならこの心理」という結びつきが強固になるほど、それに当てはまる形で現実を見てしまう可能性が高まるのです。
たとえば、目の動きから心理状態を直接読み取れるという考えは、心理学の実証研究では支持されていません(匠,2023)。ただし、視線や瞳孔反応は、課題への注意や認知的負荷(脳の情報処理の負担)を推測する手がかりになる場合があります。
だから、経験豊富な専門家ほど、いつの間にか自分の経験のみで相手の心の状態を判断しないように注意する必要があるのです。
知覚は三層の媒介過程で成り立つ
人間の知覚は、外界の情報をそのまま写し取る受動的な働きではなく、構成的なプロセスです。外から入る刺激は、脳内に蓄積された記憶や概念、期待と結びつくことで、初めて意味のある知覚として成立します。この仕組みは三つの層で整理できます。
第一に、視線・表情・姿勢などの「観察される身体行動」の層があります。
第二に、注意、記憶、スキーマ、認知的負荷などの「情報処理」の層があります。
第三に、不安、納得、警戒、信頼などの「心理的意味づけ」の層があります。
これらは相互に関係していますが、一対一で対応するわけではありません。
たとえば、ある視線の動きがあったとしても、それが直ちに「不安」や「嘘」を意味するわけではなく、課題状況や個人差、文脈など多様な要因が介在します。
したがって、身体的なサインを心理状態の直接的な表れとして捉えるのではなく、媒介された関係として理解することが不可欠です。
さらに、認知的負荷が高い場面では視線の動きが増えるなど、行動は必ずしも感情だけで説明できない側面もあります。
専門性とは「疑う力」を含む
このように考えると、専門性とは単に見抜く力ではなく、自分の見方を問い直す「疑う力」でもあることがわかります。
近年では、アイトラッキングのような測定技術によって、視線の動きと認知過程の関係が客観的に分析されるようになりました。こうした実証研究は、新しい事実を示すだけでなく、専門家の暗黙知を相対化し、理論の再構成を促します。
経験的に正しいと信じられてきた判断も、「どの条件で成り立ち、どの条件では成り立たないのか」という形で検討し直される必要があります。
人は何をもって「見えた」「わかった」と感じるのか。その背後には、身体・認知・心理が複雑に絡み合う媒介過程が存在しています。
だからこそ、対人理解においては即断を避け、「自分はいま何を見て、どう解釈したのか」と問い返す姿勢が求められます。
その積み重ねこそが、より確かな専門性を形づくっていくのです。
1990年東大大学院教育学研究科を退学後、同年には東大の医学系研究者ら共にとベンチャーの(株)認知科学研究所を創設し、東大医学部公衆衛生研究室にてストレスと創造性の研究成果を事業化。
それ以後は95年に通信機器メーカにて営業・事業開発の部長職に就き、アップル社やNEC、住友3M、NTTなど100社以上のコンサル・研修業に従事。
20代の学生時代より教育改革のために私塾「エミール」設立、東進スクール研究所顧問、eラーニングの(株)デジタルナレッジ顧問や販売ソフト企業の非常勤取締役など歴任する。
他に公的な業務としては、早稲田大学IT経営戦略研究所客員研究員、立正大学心理学部、医系大学の非常勤講師などを歴任。
また、CRM協議会(初代事務局長)など15件の業界団体を自ら創設して新しいビジネスモデル創りを推進。
現在は主に「ビジネス心理検定」の資格普及と、AI活用の思考法の教育・コンサル業に従事。
著作には『サクッとわかるビジネス教養;心理学』(新星出版社)、『ど素人でもわかる心理学の本』(翔泳社)、『ビジネス心理学』(経団連出版)など60冊ほど。
TVでも「ナカイの窓」等でレギュラー出演・企画し、「しぐさ行動分析」の専門家で知られる。
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