株式会社プリンシプル ,エンジニア,メーカー


エンジニア人生の集大成!オリジナル製品のメーカーを目指して

長年エンジニアとして大手企業などでモノづくりに携わってきた中西高義氏は、30代で立てた人生プランに沿って、54歳の時に起業した。「自分が納得してお客様に満足してもらえる商品を作りたい」というその一存で設立した会社は10年で急成長。電子機器の受託開発からスタートしたその取り組みは、環境・エネルギー分野やFA事業、医療分野へとその幅を広げ続けてきた。今後は医療用の内視鏡を中心にした洗浄消毒・乾燥・滅菌装置とメンタルヘルス機器、産業用の自動塗布装置をコアに、さらに挑戦と進化を続ける企業へと変貌を遂げて行く。


兄の進言と自らの努力で切り開いたエンジニアの道

高校卒業後、大手の神鋼電機株式会社(現シンフォニアテクノロジー株式会社)伊勢工場に入社した中西高義氏は、しばらくして会社に籍を置きながら鉄鋼短期大学(現産業技術短期大学)電気工学科で学ぶ機会を得た。

「数学専攻の理学博士である兄からは『このままではいかん、もっと勉強しなければダメだ』と厳しく言われていましたから(笑い)。24歳の時に短大で集中して学べたことは良かったのですが、とにかく勉強がとても大変でした。数年遠ざかっていた英語や数学、物理など忘れていることが多かったですからね。追試の連続でしたが、なんとか短大の卒業時の成績では上位トップスリーまでに入っていました」

見た目のスマートさとは異なる負けず嫌いの性格が功を奏した形だ。その後、周囲の反対を押し切って株式会社三鈴エリーという三菱化学の子会社に転職。ここでもまた電子機器業務の前には、初めて経験する化学系プラントの計装業務や、アフリカのナイジェリアにあるNNPCプラントへの1年間の出張も経験した。この1年間が、中西氏の世界観を大きく変えるきっかけになったという。

その後、情報通信グループという新しい部門を立ち上げてもらい、電子・通信機器関係の技術開発に15年ほど携わる。ここでは、大手通信機器メーカーの機器開発から商品までやりきることを経験した。この時に学んだことは、人の和の重要性と、絶対あきらめないということだった。

「今でもその時に蓄積したノウハウが非常に役立っています」


人生を学んだ人間関係と「小石の理論」

「三鈴エリーは、人材教育に力を入れる企業でした。経営とは、営業とは、多くのことを学びました。その間に学習したことがあります。情報というのは情に報いるということですよね。だから人間関係の基本的なところには『情報が存在する』ということです。さらに、自分で責任を持つことがいかに大切かという、〝自分責任論〟ということも学びました」

もう一つ考えて考え抜いてたどり着いた独自の理論があるという。

「私はそれを『小石の理論』と言っています。具体的には〝小石は常に足下にあって踏まれてもなくなることはないし、足下でしか見えない。それと同じように物事は下からの目線で見ないと見えてこないものがある。それをさらに飛躍して考えると聞き手上手になる〟ということ。私はこの理論をずっと言い続けています。それが私の原点ですから」