三重大学の起業支援を経て、マイウェイを行く

その後、三鈴エリーを退職し、商品開発を中心とした中小企業で12年ほど開発、商品化、営業、経営を学び、ついに一国一城の主となった。起業したのである。

「私は32歳の時に死ぬまでの人生プランを作りました。未来に向けた年表のようなものですが、それには『○○歳の時に車を買う』とかいろいろ綴ってあって、その中には『52歳で会社を作る』という項目があったのです。子供たちも独り立ちする時期であり、自分の好きなこと、好きなモノづくりをやりたいと思ったのです」

予定より2年ほど遅れたが、54歳になった時に今のプリンシプルを立ち上げた。

「最初は2人でした。立ち上げ当時は漠然といろんな製品を作りたいと考えていましたが、資金もありませんでした。そこで知り合いだった、当時三重大学の副学長の方に、三重大学には起業支援をするキャンパス・インキュベーションという制度があると教えられたのです。それならば費用も掛からないし、研究開発も、先生との共同研究などもいろいろできる。その頃にたまたま電子機器開発製品の発注もあり、同時にモノづくりもできるという一石二鳥の環境でした」

タイミングも良かったのだろう。ともかく審査を経て無事に大学内のインキュベータ内に本社を設立した。

三重大学に入った理由は2つ。1つはベンチャー企業が大学と研究連係をしていることで信用が得られること。それは大手企業との取引口座が得られることでもあるし、銀行からの融資も受けられることにもつながる。2つ目はオリジナル製品を研究開発して作ってみたいという願望が叶う可能性があったこと。

その結果、「最初の2年間は日銭稼ぎで電子機器の受託開発など様々な方面に手を広げましたが、3年目になってやはりそれじゃダメだと、原点に戻ろうと、ようやく自分のやりたいことに絞りました。それが医療関係です。医療関係の製品を開発するのにあたって、まず薬事法の知識もなかったのでまたまた勉強しました。医療に関してのルートもなかったし、薬事認可資料の書き方もわからなかったので。2年かけてようやく医療機器製造業(一般)と医療機器製造販売業(二種)の許可がおりました。ちょうどその間に商社から消毒機開発の話がきて、簡単にできるだろうと受けたのですが……」

内心は内視鏡を洗うだけと思っていた機器開発は、試作すること3回、3年掛かってようやく完成。足掛け5年で販売できる商品となったわけだが、

「とにかく時間がかかりました。この製品を通じて改めてモノづくりの深さを実感し、人とのネットワークの必要性も痛感させられましたが、新たにいい教訓を得ました」