日本に本格的証券市場が誕生したのは、明治11 (1878)年に東京の兜町に設立された東京株式取引所と大阪の北浜に設立された大阪株式取引所が誕生した時です。

幕末に信州から忽然と現れ、巨万の富を築き、“天下の糸平”と言われた田中平八と、同じく信州から現れ、洋銀取引から若くして財を成し、私設の公債取引所設立から関わることになる今村清之助が、日本資本主義の父と言われる渋沢栄一と共にこの東京における市場誕生に関わったことはあまり知られていません。

ここでは、田中平八と今村清之助についてと株式取引所の設置までの道のりを紹介します。

(本記事は、日本取引所グループ著『日本経済の心臓証券市場誕生!』=集英社、2017年12月15日=の中から一部を抜粋・編集しています)

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日本経済の心臓 証券市場誕生!
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「天下の糸平」と呼ばれた男

天保5(1834)年、千畳敷カールで有名な駒ヶ岳の登山口がある信濃国伊那郡赤須村、現在の駒ヶ根市赤穂で、後に糸平と呼ばれることになる藤島釜吉が誕生します。赤穂は駒ヶ根市が市役所を構える中心部で、現在は国道153号(伊那街道)と南は東三河の豊橋まで延びるJR飯田線に挟まれた南北に細長い地域です。

糸平の生家は藤島家という素封家でしたが、糸平の父親の卯兵衛が家の財産を使い果たし、糸平は質屋を経て飯田城下の魚屋に丁稚奉公に出されました。ここで糸平は商売の才能の片鱗を見せ、魚屋として独立、同じく飯田城下の染物屋「丸宏」の娘と結婚し、婿養子に入りました。丸宏の家は田中姓であったので、以後、田中平八となります。

婿入り後、「田舎にいても面白いことなどない。名古屋へ出てひと儲けしよう」と、糸平は店の金を横領、名古屋へ出て米相場に手を出します。この当時、江戸幕府による商圏独占の仕組み「株仲間」が機能していたため、飯田城下で商売する糸平が江戸に出て商売をすることはできなかったという事情がありました。意気揚々と飛び出した糸平の相場の腕はいまひとつで、持ち出した金はすぐに底をつき、身一つで飯田へ帰ってくる始末でした。

その後、糸平は飯田城下で働いていましたが、伊那街道を行き交う商人から仕入れた情報により、横浜で外国人が生糸を求めていることを知ります。「生糸でひと儲けできるのではないか」田舎で商売をしていることに耐え切れず、糸平は再び妻子を残して出奔するのでした。

慶応元(1865)年には大和屋から独立し「糸屋平八商店」を設立、糸屋の平八であることから、糸平と自称しました。

時に糸平32歳。糸平は、日本での生糸などを買付けるために、洋銀から天保一分銀への両替を必要とする貿易商に対して、自らが両替商となって、方々からかき集めた天保一分銀を売り付けたと言われていますが、交換レートは、天保一分銀の仕入れコストに儲けをのせたもので、これは現在のFX取引を行う業者と非常に似たような収益モデルと言えるでしょう。生糸と洋銀取引が、一人の若者を天下の富商に押し上げたのです。

糸平は30代の前半で、すでに天下の大富豪でした。まだ、岩崎弥太郎も渋沢栄一も何者と言うほどのこともなかった時期にです。糸平の才覚と、彼を押している時代のダイナミズムがどれほどのものだったかが窺い知れます。そして、明治5(1872)年、糸平は、その年に設立された横浜金穀取引所の初代頭取に就任しています。

もちろん、この華麗な経歴は糸平の商才によるものかもしれません。また、今とはまったく違い、浮き沈みの激しい時代であったとも言えるでしょう。しかし、糸平のその後の人間関係等を踏まえて、ちょっと引いて眺めてみると、この経歴の陰に一人の政治家の姿が浮かんできます。時の大蔵大輔・井上馨です。

井上馨は糸平の横浜での最初の絶頂期に、参与兼外国事務掛という役職に就いています。この時に井上と糸平がつながっていたと想像するのは難くありません。そして糸平の人生が絶頂に達した明治5(1872)年頃といえば、井上は、大蔵省の財政担当として並ぶものがいない権勢家として君臨していました。

司馬遼太郎の小説『翔ぶが如く』では、留守番政府の事実上の首相である西郷隆盛が、「三井の番頭さん」と呼ぶほどに、井上と三井組の癒着ぶりをからかい、井上が不快感を募らせた様子が描かれていますし、海音寺潮五郎の『悪人列伝』では貪官汚吏の代表のように描かれています(事実、後に尾去沢銅山汚職事件で江藤新平司法卿から激しい訴追を受けて失脚しています)。天下の富豪の華麗な経歴の背後に、日本財政の責任者であった井上馨との関係を想像することはできそうです。

また、明治期指折りの艶福家と言われた糸平は、明治4(1871)年、お倉として名を知られる芸者に料亭「富貴楼」を開業させます。場所は居留地の北辺、現在の横浜市中区尾上町5丁目。当時の料亭とは待合茶屋のことで、座敷を貸し出すのが商売でした。座敷に芸妓を呼び寄せて宴会を催したり、遊女を呼んで一夜を過ごす場所でした。著名人が通う有名な料亭の周辺には優秀な芸妓が揃い、この当時の横浜芸妓は、新橋芸者を凌ぐほどの勢力を誇っていました。

お倉は、江戸で遊女として働いていたあと、大坂で芸者となり、糸平に呼び寄せられて横浜へ移ってきたと言います。遊女の間、井上馨と深い関係にあったという話もあるのですが、いずれにせよ、お倉は糸平が目をかけていただけあって、後に「老いても身だしなみのよい女で、老年になっても顔は艶々していた」と噂されるほどの美人でした。当時、お倉に惚れ込んだ政府高官や実業界のトップクラスが次々と汽車で横浜入りしたと言われ、その中には、伊藤博文、井上馨、山縣有朋、大久保利通、岩崎弥太郎、西郷従道、陸奥宗光、福地源一郎、三井高福、今村清之助、そして渋沢栄一、栄一の2歳年上の従兄弟・渋沢喜作などがいました。

この富貴楼で糸平は、多くの有力な政治家や富豪とさらに強いパイプを持つことになります。この幅広い人脈を活かして情報を収集し、多くの儲け話が進められたことでしょう。

晩年には、東京米商会所(兜町米商会所と東京蠣殻町米商会所が合併したもの)の初代頭取になり、この東京米商会所株を上場させて大きな仕手戦を仕掛け、ここでも大儲けしたようです。このように、糸平には取引所を通して儲けるという癖のようなものがありました。

明治の若き経済人、島清こと今村清之助

嘉永2(1849)年、中央アルプスと南アルプスに挟まれた伊那谷にある出原村(現在の長野県高森町)で、今村清之助は嶋田屋吉左衛門の次男として生まれました。出原村は中央道が南北に貫く高台の地域で、旧三州街道(伊那街道とも言う。現在の主要地方道飯島飯田線)沿いに広がります。

清之助が生まれた頃、出原村は交代寄合の座光寺家の領地で、稲作と養蚕を中心とする農村でした。清之助が生まれた嶋田屋は今村姓を名乗り、出原村の有力家の1つでした(ほかには宮脇家、宮下家)。座光寺家は、国学の平田篤胤の弟子を招聘し、国学を家臣や領内の村人に学ばせており、とりわけ、清之助の生家に近い宝泉寺の住職は出原村でも有名な国学者でした。住職は寺子屋を開き、村人に国学を教えていたと伝えられており、幼年の清之助も、宝泉寺の住職から国学を学んでいたと考えられています。

清之助の生まれた今村家は、村の有力者でありながら商売の失敗により財産を減らし、没落の中にありました。清之助が後年、立身出世に燃えるのは、貧しい境遇に生まれ育ったことが要因の1つかもしれません。

とはいえ、当時の手間賃は安く、貧しさから抜け出したかった清之助は、「いくら働いても農家では資産家にはなれない」と幾度となく長兄に訴え、「商売で手早く儲けよう」と提案していました。これに対し長兄は、「家に在り農を勤めて以て老父母に仕えよ」と清之助を諭します。一度は引き下がった清之助でしたが、商売でしか資産家になれる道はないとの想いは消えず、家を出ていくタイミングを窺っていました。

元治元(1864)年、尊皇攘夷を訴える水戸浪士が出原村の北方にある和田峠で高島藩・松本藩と交戦し、勝利を収めて旧三州街道を南下し、出原村を通過するという出来事がありました。水戸浪士は凶暴で襲われるのではないかという噂で旧三州街道沿いの村は騒然としました。当時、清之助は16歳、伊那谷でも時代が変わっていくという実感を得たのでしょうか、その年に、家にあった金2朱を手に家を飛び出します。

家を出たものの、出原村は両脇を峻険な山々に囲まれ、近くに盛り場もありません。どうしようかと伊那街道を歩いていると、たまたま旅装の僧侶を見かけたので、一緒にどこかへ連れて行ってもらえないかと頼み込みました。すると僧侶から「江戸に出るつもりだが、それでもよければ一緒に来なさい」と許され、江戸まで僧侶と旅することとなります。

出原村を出て一月足らずの後、現在の東京都板橋区板橋本町に到着した清之助は、僧侶と別れると、たまたま泊まった宿の同宿者から、横浜なら自由な商売ができると聞いて、さっそく徒歩で横浜に向かうことにしたそうです。この時、同じ伊那谷の出身で、横浜で成功を収めつつあった糸平を、清之助が知らなかったとは思えません。ひょっとしたら清之助は、最初から横浜を目指していたのではないでしょうか。

明治3(1870)年には、清之助は平塚の斉藤彦兵衛の次女やす子と結婚、横浜で商店「島田屋清助」を開業したそうです。

ここまでくると、さすがに話がうますぎます。名古屋で平野屋が同郷の英雄の糸平からの借金で倒産したと聞いた時、このような行動家の清之助が何を考えたのか想像してみましょう。おそらく清之助は、糸平に会いに行ったことでしょう。清之助がさざえを焼いて、上田に蚕卵紙を買付けに行って、生糸相場を張って、洋酒スタンドで儲けるといったくだりは、糸平が横浜で商売を拡大していくストーリーとどこか重なっているのかもしれません。後年の二人のつながりの濃さを見ても、この頃から糸平の下で仕事をして頭角を現した清之助が、同郷出身で歳年上の糸平から認められたのだ、と考えるほうが自然な感じがします。特に、平野屋破産の理由は糸平への借金ですから、糸平が棒引きにすると言えば平野屋は簡単に再興できたはずです。

ただ、そのような人間模様を想像はできても、記録で追うことはできません。あくまでもわかっていることは、清之助が糸平と同郷であること、両人共に生糸の商売を経験していて、明治6(1873)年、糸平が頭取になった横浜金穀取引所の役員に清之助が推されたということだけです。清之助は、身振り手振りを交えてイギリス人や中国人とも話ができたと伝えられています。横浜での成功の裏には糸平の影が見え隠れしますが、もちろん清之助本人の相当な努力や才能もあったのだと思われます。清之助は横浜で「島清」と呼ばれ、すぐに、横浜屈指の両替商(洋銀相場師)として知られるようになり、両替商仲間「横浜組」の領袖になっていったのです。なにが真実であれ、清之助が当時、誰もが認める一廉の人物であったことは間違いないようです。

株式取引所の設置までの道のり

明治6(1873)年月、中村祐興ほか数名が、政府に株式取引所の設立を出願したことが、わが国で最初の株式取引所設立構想となります。当時は株式取引所の設置を認める根拠法令が存在しないこと、出願者に三井組や住友組などの大手金融業者が含まれていないことから、この出願を認めることはできないとして不許可となりました。

ただ、このことが明治政府内の株式取引所の設置に関する議論の活性化につながりました。欧米視察の経験がある新進派の井上馨、渋沢栄一と、慎重派の玉乃世履に分かれて導入可否の議論が行われました。最終的には、最初の株式取引所設置出願から1年後の明治7(1874)年、井上と玉乃両方の言い分を取り入れる形で株式取引条例を布告しました。その内容は、栄一の主張を入れて帳合米取引に相当する定期取引は導入したものの、玉乃の主張に沿って仲買人の身元保証金を500円、証拠金率を%とする規定を置いたため、実質、一定規模以上の金融業者でなければ仲買人として参加できない仕組みでした。帳合米取引は投機的な取引であると考える玉乃たちにすれば、これを導入する以上は参加業者を絞るつもりだったのです。

例えば、後に安田財閥となる安田組は、当初は中小金融業者の1つで、規模は小さいながら、利益を得やすい公債売買等を積極的に手掛けていたようですが、この規定では参加することが難しかったようです。

そもそも公債売買を実際に扱っている清之助たちも、こういった方針に従うことはできませんでした。時の大蔵卿の大隈重信は仲買人の参加希望者が現れないことを不思議がっていたと伝わっていますが、栄一は大蔵省を退官してしまっていますから、そういった事情をよくわかる人が大蔵省にいなかったのかもしれません。

かくして条例は施行されたものの取引所はできず、それとは別に公債売買は行われているという状況が続いたわけですが、栄一も清之助もそれが望ましい状況だとは考えていなかったようです。

そうした折、清之助が率いる横浜組から、「これだけ公債の売買があるのだから、正式に政府の許可を受けて公債取引所を設立しようではないか」という声が起こり、清之助が栄一に明治政府へ公債取引所設立を出願したいと相談しました。

栄一にとってみれば、待ってましたとばかりの気持ちだったのではないでしょうか。栄一は、公債売買の実務をよく知る清之助と共に、東京公債取引所を設立する方策を進めることにします。この時、清之助26歳、栄一35歳。

早速、栄一は、政府が参加を望む三井組と協議を持ちます。三井組としては、公債が銀行資本金として利用できるため買い手には興味があるものの、公債売買には参加しないとの考え方でした。公債は国立銀行の発券時の兌換資産として最も需要があるから、第一国立銀行を経営している三井組と栄一が取引所を経営してしまうと、おのずと第一国立銀行が公債を買い集めているようにも思われてしまいます。銀行経営を今後の中心と考えていた三井組が公債売買への関与に否定的であった理由はそこにありました。

さらに、糸平、清之助を代表とする江戸期の両替商の流れを汲まない洋銀取引上がりの金融業者を三井組は快く思っていなかったとも言われています。横浜で大暴れして、今度は東京で公債売買に手を出すという大胆さに、儲かるためなら何の売買にも手を出す“海千山千の強欲な連中”ばかりだという印象を抱いていたようでした。

栄一は取引所の設立を急いでいました。というのも、明治政府は、国内での国債発行も検討しており、その実現のためにも、金禄公債の円滑な売買が必要と考えていました。

しかし、三井と並ぶ政商の三菱とは、栄一と当主・岩崎弥太郎の考え方が合わず喧嘩別れしたままでしたし、国立第一銀行創設で栄一と一体であるはずの三井組も、国立第一銀行から事実上分離独立させた三井銀行を保持するのが最優先で、株式取引所には興味を示そうとしません。

そうしたなか、小野組と島田組が資金運用で不正があったとして廃業となり、株式取引所の仲買人候補として、清之助を中心とする横浜組の重要度が高まっていました。彼らが参加できるような仕組みの検討はとても重要でした。

栄一は、どのようにすれば政府が納得しつつ、多くの仲買人が参加できる株式取引所にできるかを思案しました。株式取引所は、政府が大量に発行した金禄公債を円滑に売買させることが設置目的の1つでしたので、政府としても、栄一への期待は高まっていたことでしょう。

明治8(1875)年には井上馨が政府に復帰し、井上を通じて、糸平からのとりなしで清之助が指揮する横浜組への三井組の不快感の解消が進んだと思われますし、これによって、清之助と栄一の協力関係も機能し始めました。また、一応、在野にある栄一と政府の間の連携もうまくいくようになったとも考えられます。

こうして、栄一が検討を進め、糸平や清之助が協力した結果、明治(1877)年月、渋沢栄一、渋沢喜作、小室信夫、小松彰、三井養之助、三井武之助、三野村利助、木村正幹、福地源一郎、深川亮蔵が連名で株式取引条例を旧来の米会所の規則に近づける改正を政府に要望すると共に、同年月日、同人らを発起人(筆頭は渋沢喜作)とし、東京株式取引所の設立認可申請を行い、同月日に許可を受けました。

明治政府に提出された創立証書の控えによれば、発起人や場所は、渋沢家と三井組に集中しており、政府から信用を受ける顔ぶれを揃えたことがわかります。発起人の内訳は、渋沢家2名、栄一と同様に官僚出身者2名、三井組4名、銀行家1名、ジャーナリスト1名となっており、三菱や横浜組からは誰も加わっていません。設立場所は、三井家が所有する兜町の敷地内でした。

続いて、明治(1878)年になってすぐ、東京株式取引所創立準備のための集会を開催しました。その結果、東京株式取引所の設立にあたり、株式取引条例を改正するよう政府に要望すること、栄一と清之助は共に筆頭株主にならず同じ株数を出資し影響力を同一とすること、役員にもならないことなどが決められたようです。

それから間もなくして、栄一は大隈重信を訪ねて東京株式取引所設立の調整を行い、ロンドン証券取引所の規則を参考に、東京株式取引所の定款や申合規則を準備し、株式取引条例を廃止して新しく同年5月4日に布告された「株式取引所条例」により改めて設立免許を受けます。

株式会社 日本取引所グループ(JPX)
(にっぽんとりひきじょグループ:JapanExchangeGroup,Inc.)

JPXは、世界有数の規模の株式市場を運営する東京証券取引所グループとデリバティブ取引において国内最大のシェアを誇る大阪証券取引所が2013年1月に経営統合して誕生した持株会社。