明治期には、明治維新という政治と社会と経済の一大変革期において、江戸期に発達した米を根幹とした日本の経済・金融のシステムが新たな貨幣経済へと変化し、西洋型の資本主義の導入が急がれました。そうしたなか、先人たちは社会を支える重要なインフラとして株式市場の設立を成し遂げました。戦中、そして戦後には、証券取引所はどのように変わって行くのでしょう。
(本記事は、日本取引所グループ著『日本経済の心臓証券市場誕生!』=集英社、2017年12月15日=の中から一部を抜粋・編集しています)
【関連記事『日本経済の心臓 証券市場誕生!』】
・(1) 渋沢栄一と共に日本初の株式取引所を作った大富豪と若き経済人
・(2) 集中しすぎた「富」の再配分のためにGHQが行った3つの政策 財閥解体、個人財産税……
・(3) 横山大観が立役者に。日本にコーポレートガバナンスが生まれた瞬間
戦争下の兜町(昭和20年)
昭和12(1937)年に日中戦争が始まると、証券市場も取引所も戦時統制下に置かれました。
戦争継続に必要な武器弾薬・船舶を製造する会社を優先的に設立するため臨時資金調達法が制定され、戦争に関係ない企業の資金調達よりも、戦争関連企業の資金調達のための新株募集等が優先されたのです。
しかし経済統制や配当規制は株式市場を萎縮させ、価格は低迷します。昭和14(1939)年にイギリス・フランス・オーストラリアがドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が開始されると、第一次世界大戦後の株高が連想されたのか、証券市場は全面高の様相となります。ですが、しばらくすると、また長い低迷を経験し、ついに昭和16(1941)年7月には政府が株価の下限を決定できる「株式価格統制令」が出されました。
同年12月の日米開戦後は再び活況を呈しました。大本営が発表する戦況は日本有利だったので、株式市場では株価上昇期待が高まりました。戦争中にもかかわらず、昭和16(1941)年12月と翌17(1942)年1月には法令や税制強化で株価の高騰を抑制しなければならないほどで、昭和17(1942)年11月には平均株価が日米開戦前の2倍に達しています。第二次世界大戦後半期、戦局の悪化に伴い株価は下落しますが、戦費調達のために発行された巨額の戦時公債の販売はむしろ盛んになります。並行して、取引所と仲買人(以降、証券会社と言う)への統制をより効率よく強化する目的で、それらの集約化が行われました。昭和18(1943)年3月、戦前に、全国に11あった株式取引所は、新しく「日本証券取引所」に統合され、役員の過半数を政府が握る国策機関となりました。ここに、渋沢栄一と今村清之助らが設立し、日本最初の上場会社でもあった東京株式取引所は消滅、新たな国策会社として、「日本証券取引所」が誕生・上場します。
証券会社については、資本金を合併させ、より大きな会社組織につくり替えていきました。これで、昭和18(1943)年に1964社あった証券会社は、翌昭和19(1944)年3月には400社程度に減少しました。このように取引所と証券市場のプレーヤーへの国家統制を強化する一方で、政府は株価そのものも統制下へ置こうとします。それは、政府の資金による市場を通じた株の買付けでした。
最近でも新聞や各種メディアで「株価対策」という言葉を見かけますが、先に述べた株価抑制策とは反対に、株価維持を目的にした株価対策の最初の発動は、昭和10(1935)年に生命保険社が共同で設立した「生保証券」による株式買上げで、こうした株価維持のための会社を、「株式買上げ機関」と言います。
とりわけ、東京大空襲後の昭和20(1945)年3月以降、昭和18(1943)年に政府の資金で設立された「戦時金融金庫」が、無制限に株式の買集めを行い、空襲前の株価を維持することになります。さらに同年7月以降は、取引所自身が直接に株式を買集めるという前例のない特例措置が発動され、長崎原爆投下の8月9日までこれが継続されました。
この間、兜町で働く証券会社の社員は、鉄兜を被ってゲートルを巻き、非常食を腰につけて出社していました。証券会社からも多くの若者が軍に召集されて、店は歯抜けの状態でした。昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲では、取引所周辺も爆撃され焼け野原となりました。取引は3月16日まで停止になり、東京と通信が途絶した全国各地の取引所も取引を停止しています。
取引所の建物は石造りで頑丈だったので焼け残り、家財道具を取引所の地下に運び入れていた兜町界隈の人々の家財は空襲被害から逃れることができたのだと、兜町では今でも語り伝えられています。また、取引所の年史には備蓄食糧で炊き出しを行った記録も残されています。
同年5月にドイツが無条件降伏すると証券市場は売り一色になったと伝えられています。戦局が思わしくないことは、さすがに投資家たちはわかっていたようですし、不利な戦局で株を売ることが非難されたような形跡もありません。また、東京大空襲後の3月17日に再開された取引においては、軍需産業株が低迷し、民間株式の売買が目立っているので、すでに投資家は日本の敗戦を予測し、新しい日本への期待を市場に織り込んでいたのかもしれません。 同年8月6日に広島に原爆が投下され、大蔵省の指示で8月10日に全国の取引所は売買を停止します。この後、日本証券取引所が再開することはありませんでした。
終戦―新円交換と集団売買(昭和20~24年)―
昭和20(1945)年に戦争が終結し、日本証券取引所をはじめとする証券業界関係者は、国土復興に必要な企業への資金調達をさせるためにも、早期に証券市場を再開することが必要だと考えました。彼らは当時の津島壽一大蔵大臣にその旨を説明した結果、「昭和20(1945)年10月1日から取引所を再開する」との大臣談話が新聞に報じられました。ところがこのことは、日本を占領下に置いているマッカーサー指揮下のGHQには何の了解も得ていなかったのです。この日本政府の行動はマッカーサーの逆鱗に触れ、GHQは取引所再開を認めないとするメモランダムを(大臣談話の前日付で)公表しています。前出の『日本証券史資料戦後編第4巻』に収録されているトーマス・F・M・アダムスの証言によれば、マッカーサーの妻が昭和4(1929)年の世界大恐慌の際に株式投資で大きな損失を出した経験から、株取引は博打であり禁止すべきである、と考えていたとも伝えられています。
終戦直前の株式市場では、戦時金融金庫による株価維持政策によって、買い方の70%が日本証券取引所となっており、とても投資家中心の証券市場とは言えない状況でした。GHQは、日本の証券市場が自由経済に基づいておらず、価格決定が公平に行われていない点、財閥からの影響を受けている会社が多く、独立した経営を行っていない上場会社が多いことなどを問題としており、そうした経済環境が変わるまでは、証券市場を再開することに消極的であったようです。
証券取引所の再開の目途は立たない状況でしたが、戦争終結後からまもなく、家財を売ってでも食料を得たい人々が、手持ちの証券(特に戦時債券)を売却して現金化したいと考え、証券業者を訪ねるようになりました。多くの証券業者にしても、社員を戦争で失い、空襲で店舗ごと焼失したところもあるなか、早々の業務再開は難しい状況でしたが、それでも換金のための売却ニーズに懸命に対応しようとし、一部の証券業者は店頭での株式・債券の買取りを始めました。
すると、今度は株式を買いたいというお客様が訪れてきます。取引所が再開されないまま、東京では昭和(1945)年には証券の集団売買が開始されています。戦後の東京は空襲で焼け野原にバラックが点在する状況で食糧の確保も苦労しているなかで、どうして株式の売買ニーズがあったのでしょうか。そこには次のような事情がありました。太平洋戦争の終結後、戦争中に行われていた金融統制が解除されると、多くの国民は日々の食糧確保のための金を銀行から引き出しました。その結果、市中の貨幣流通量が増え、インフレ傾向が顕著となりました。
そこで、日本政府は、インフレに対応した新しい紙幣(新円)を発行すると共に、交換方法を銀行からの預金引出し時とし、預金引出し額に上限を設けることで、新円を受け取れる量に制約をかけました(昭和21〈1946〉年2月金融緊急措置令等)。こうして市中の貨幣流通量を減らしてインフレを抑制しようとしたのです。
ところが、これには抜け道があったのです。株式を買う時の代金は預金から旧円で支払うことができ、株式を売った際の売却代金は無制限に新円で受け取れるという特例があったため、旧円を多く持っていた富裕層は株式を買って、それを短期間で売ることで新円を手にすることができたのです。新円を入手する目的で、多数の株式売買が行われ、結果的に大量の新旧の円の転換が、証券業者の店頭で行われました。そのため兜町はとても繁盛したそうです。
新円入手目的等で証券の売買が活発化すると、業者間での証券売買のニーズも高まります。明治期の公債売買と同様、取引所がなければ証券業者が集まって自然発生的に集団売買が始まります。『東京株式取引所五十年史』には、先述のように兜町の日証館ビルと取引所ビルの間の路上や、取引所ビルの地下に証券業者が集まり業者間の相対取引が開始されていましたが、次第に手狭となったため、日証館ビルの1階と2階にあった証券会社(日東証券)の店舗を借りて売買を行ったという記載があります。当時の状況をまとめたインタビュー記録によれば、常時出入りする人数は約300名、それがわずか坪のフロアにいたのですから、身動きすらできない状況だったようです。
自然発生的な取引とはいえ、これだけの規模になれば、当然、証券取引を禁じたGHQの目に触れないわけがありません。先に紹介した『日本証券史資料戦後編第4巻』において、GHQの取引所再開交渉担当官であったアダムスは「禁止しようといっても、禁止なんてできませんよ」、「人によっては株式を売る必要もあったでしょうし、株式を買う必要があった人もいるでしょう」という言葉を残しており、GHQが集団取引を黙認していたことを認めました。
GHQが取引所の再開を認めず、証券業者間の集団売買を事実上認めた理由について、明確な見解を示した研究成果は見当たりませんが、後に取引所の再開を認めるにあたってGHQが求めた条件の一つに、取引所での価格とは関係なく、証券業者と顧客が売買価格を決める「仕切り売買の廃止」がありましたので、証券取引慣習に何らかの問題があって、公的な取引所再開が遅れたとも考えられます。東証に残るGHQの占領政策に関する資料は、検証途上のものも数多くあり、今後の研究でさらに新しい事実が判明すると思われます。
「国民一人一人が株主に」―その1 財閥解体・財産税の物納・特別機関解体―
『東京証券取引所年史』によれば、GHQは経済の根底をなすのは金融であるとの考えから、金融に自由経済を導入することを計画し、富の再分配を計画しました。
その計画は、(1)財閥解体、(2)国家特殊機関からの株券所有移転、(3)個人財産税の賦課などの政策を通して、富裕層に蓄積された富をはき出させ、それらを国民一人一人が保有できるようにしようというものでした。それはまた、株式投資の知識がなかった国民に、官民挙げて投資教育を行おうという壮大なプランでもありました。
日本に株式会社制度が導入された明治初期、主な株式投資家は華族や起業家などの少数に限定されていましたが、鉄道投資ブームや株式投資で成金と呼ばれる富豪が現れると、日清戦争・日露戦争を通じて株主数は拡大し、寺西重郎の論考「明治大正の投資家社会」によれば、大正14(1925)年における株主数は延べ50万~60万人とも推計されています。同年の日本の人口が5973万人ですから、株主数は拡大したとはいえ、投資家は人口の1%程度にとどまっていたことになります。
投資家数が少なく、証券取引形態が主に清算取引で、株式の所有を目的としない取引も多分に含まれていたこともあり、とかく株式市場での価格形成は一方的になりやすく、戦前には、株価の大幅下落を伴う恐慌が何度も発生しています。
第二次世界大戦初期、良い戦況が伝えられると、投資家は買いに動き、株価が大きく値上がりした時期もありました。戦争後半になって本土空襲が行われるようになると、投資家は売りに傾くので、株価下落を防止するために設立した戦時金融金庫等の特別な機関が、取引所で流通株式を買付けるようになり、GHQが日本の占領間接統治を開始した時点で、戦時金融金庫等の株式買付残高は12億円に達していました。また、軍事産業を含む財閥の産業寡占が進み、財閥に富が集中するようになっていました。『証券百年史』の「財閥解体」部分の記載によれば、昭和20(1945)11年の財閥解体指令日において、全国の会社払込資本金合計が323億円であったのに対し、財閥解体の対象となった十大財閥傘下の会社の払込資本金合計が114億円であり、日本全体の払込資本金額の35%が財閥により占められていました。
GHQは、財閥や一部富裕層への富の集中を改善し、株式所有の構造を改善することが、再度の日本の軍事国家化を防ぐことに貢献すると考え、株式買上げ機関から株式を接収し、財閥から保有株式を買取り、国民に広く分配することにしました。また、財閥家族の個人保有資産に多大な課税を行い、これまでに蓄積された富を国民の間で再分配することにしました。この「財産税」は、最高税率%という超高額の税で、鈴木邦夫埼玉大学教授による調査では、課税対象となった家のうち、6家で資産が残らず、家で平均%の財産を税金として徴収されました。しかも、財産税支払い後の残余財産から財閥解体にかかる株式を接収したので、財閥家族に残った財産は、非常に少ないものとなりました。 財閥解体で集められた株式75億円、財産税で物納された株式、その他独占禁止法により処分されることとなった株式を合計すると184億円となり、当時の市場全体の時価総額437億円の42%に達しました。
これらの巨額の株式の処分は、昭和21(1946)年に日本の帝国議会で可決成立した「有価証券の処分の調整等に関する法律」において設置することになった証券処理調整協議会(SCLC)が行うことになりました。GHQは、SCLC設置法案の可決の際、次のようなコメントを公表しています。
「この種の協議会は、日本国民の間に有価証券の公平な分配を図るため是非必要である。日本では今まで一般大衆が有価証券を維持せず、今後証券所有の大衆化を実現せねばならぬ。協議会の目的の1つは、有価証券に関する大衆教育にあり、新たに証券を購入せんとする者に正確かつ真実の情報を提供するにある」
GHQは、株式投資層を拡大するには、株式を運用する大衆の教育が必要であることを認識し、その重要性を日本政府に伝えています。現在では「投資家教育」と呼ばれる活動は、後に再開される証券取引所において、重要な役割の1つとなっていくのです。
「国民一人一人が株主に」―その2 史上最大の作戦(昭和年22~)―
SCLCは、財閥解体等で生じた処分株を、「証券が旧所有主の手に“復帰”しないよう注意」したうえで、一個人への分譲量に制限を設け、発行会社の従業員、当該会社の本支店または工場所在地の住民に優先買受権を与え、売出しを開始しました。売出し価格は、時価を100とすると、従業員向けが95.2、入札が95.1、一般向けが99.5という、ディスカウント売出しとなっていました。
しかし、売出し価格を割安にしたものの、国民に株式投資の知識がなく、どれだけ申し込みをしてよいのか可否の判断がつかないこともあり、販売実績はいまひとつでした。政府や証券業界の関係者は、株式投資をしてもらうためには、株式の引き受け側への教育が必要であることに気がつきました。GHQも「総司令部は証券が広く日本国民の間に分散されることを期待し、証券が旧所有者の手に復帰しないよう注意するが、さらにどこの小村に住む人たちも証券を所有する機会が与えられ、また従業員、会社所在地の居住者及び小口投資層にも売却される要がある」(GHQ発表:昭和22〈1947〉年6月18日)との声明を発表し、投資家教育を後押しすることになりました。
こうした動きを受けて、昭和22(1947)年9月、証券業者でつくる東京証券業協会は、SCLCの売出しを円滑に行うため、「株式投資による貯蓄運動実施に関する計画」を立案し、証券貯蓄運動や人気株の投票などの啓発活動を行うことを決めました。これを「証券民主化運動」と言い、わが国史上初にして最大の官民一体の株式投資キャンペーンが始まりました。「国民の一人一人が株主に」を合言葉に、公開講演会、投資座談会、臨時投資相談所の開設、株式祭、株式移動展示会、「株式民主化」の映画製作などの一大イベントを実施、関係者の決起大会には、経済団体連合会、全国銀行協会、日本商工会議所、GHQ、片山哲首相、栗栖赳夫蔵相、一万田尚登日銀総裁といった政界・経済界の首脳が壇上に勢揃いするという、国家プロジェクトでした。
証券民主化運動の結果、株式投資の知識は広く普及し、SCLCの株式売出し(2億3300万株)は、昭和26(1951)年6月までの約4年間で完了しました。この結果、日本の株式所有構造は大きく変わりました。昭和20(1945)年末と昭和24(1949)年末の株式分布状況を比較すると、個人投資家の全体に占める割合が53.07%から69.14%に増加しました。この個人投資家比率は、戦後で一度も破られていない最高値です。人数にすれば19万人の新しい株主が生まれたことになります。証券民主化運動は、株式投資家数を増やすという買い手側への教育活動でしたが、株式所有構造が激変したことにより、株式を発行する企業側には大量の個人株主という、新しい株主に目を向けた経営が求められるようになったとも言えます。
株式会社 日本取引所グループ(JPX)
(にっぽんとりひきじょグループ:JapanExchangeGroup,Inc.)
JPXは、世界有数の規模の株式市場を運営する東京証券取引所グループとデリバティブ取引において国内最大のシェアを誇る大阪証券取引所が2013年1月に経営統合して誕生した持株会社。