第二次世界大戦後の焼け野原のなか、先人たちは果敢にGHQと交渉し、閉ざされた市場の再開に尽力し、日本経済の復興と発展の礎を築きました。

(本記事は、日本取引所グループ著『日本経済の心臓証券市場誕生!』=集英社、2017年12月15日=の中から一部を抜粋・編集しています)

【関連記事『日本経済の心臓 証券市場誕生!』】
・(1) 渋沢栄一と共に日本初の株式取引所を作った大富豪と若き経済人
・(2) 集中しすぎた「富」の再配分のためにGHQが行った3つの政策 財閥解体、個人財産税……
・(3) 横山大観が立役者に。日本にコーポレートガバナンスが生まれた瞬間

日本経済の心臓 証券市場誕生!
(画像=Webサイトより ※クリックするとAmazonに飛びます)

証券取引所再開に向けたGHQとの折衝

昭和20(1945)年9月、津島壽一蔵相から「日本証券取引所は10月1日再開する」と発表されながらも、直後、GHQのマッカーサー最高司令官から再開を留保する指令が日本政府に届き、結局、取引所の再開は見送られました。

取引所が開かれていない期間、新円確保のための株式取引、集団売買、財閥解体、SCLCによる株式売出し、証券民主化運動と、日本の証券界は目まぐるしく変化を続けていました。

その間、取引所再開に向けて、どのようなドラマがあったのでしょうか。まずは登場人物から整理したいと思います。

GHQは、取引所再開に向けた調査のため、トーマス・F・M・アダムスを証券行政担当官に指名しました。アダムスは高校を出ると、サンフランシスコ証券取引所に入社、事務員として働きます。証券業者として独立してサンフランシスコ証券取引所の個人正会員の資格を持ち、ブローカーとしても働きました。GHQは、そうした経験を買って、アダムスを取引所担当に任命したと思われます。

アダムスの上司がウィリアム・フレデリック・マッカート少佐(経済科学局、後に少将)で、その上司がマッカーサー元帥という序列になっていました。証券業界側の交渉役は、清水浩でした。清水は、岡山県高梁市に生まれ、旧制高梁中学を卒業後、慶應義塾大学に進学、産業調査会や日本経済連盟などに勤務した後、後に紹介する山崎種二の縁で東京株式取引所取引員協会に勤務、取引所再開の中心人物になった後、東京証券取引所の初代常務理事の1人となる人物です。

清水は、清水比庵(本名は秀)という日本画家を実兄に持ち、清水自身も「三渓」という雅号で日本画を描き、比庵と「野水会」を結成して個展を開催する腕前でした。また英語が得意で、大学在学中は、研究社にて辞書編纂のアルバイトや、井上準之助日銀総裁に雇われて英語書物の整理を手伝ったこともありました。留学経験はありませんでしたが、相当に英語が堪能な人物だったようです。

昭和21(1946)年、清水は会員組織取引所創立準備委員で当時、51歳でした。森泉恒四郎、小山正之助といった元東京株式取引所の理事たちから、

「GHQとの交渉で、どうも通訳がうまくいかなくてね。そこで清水君、英語の得意な君にちょっと助けてほしいんだ」

と、GHQへの同行を求められたことが、清水が交渉の矢面に立つきっかけとなりました。先方では、ブレントリンガー中尉が担当だったのですが、清水は彼に気に入られ、

「通訳よりも、清水さん、あなたがいたほうがはるかにいい。これからはあなたと交渉する」

ということになったのです。

そういう経緯で、昭和21(1946)年、清水がアダムスと対峙すると、アダムスは日本に好意を持っており、日本文化への関心が高いことがわかりました。アダムスは東京の大田区洗足に親子3人で住み、日本人に溶け込むような生活をしており、占領下の日本が置かれている状況をよく理解していました。

清水同様、英語力を買われて交渉チームの一人となった荒川健夫が後に語ったところでは、アダムスは非常に真面目な人物で、賄賂など受け取らず、GHQのメンバーがアメリカの法律を日本に輸入しようとしたところ、日本の実情に合わないと反対して中止させたこともあったそうです。交渉当初、清水は一日おき程度にGHQ本部を訪問し、取引所を再開する必要性などを何度もアダムスに説きました。しかし、アダムスは、GHQの上層部には日本人を信用していない人もいて、証券取引所を再開するにしても、まずは日本という国を信用してもらい、担当者同士が親しくなることが必要だと言うばかりで、清水は、取引所をどのように再開するかの交渉に入れませんでした。

そこで清水は、まずアダムスと親しくなって、GHQの誰が何を好きなのか、細かく聞き出します。すると、マッカーサーに近い副官は馬が好きであるとか、独占禁止法担当官は絵が好きであるといったことがわかりました。幸い清水は画家でもあり、兄の比庵と共に結成した野水会の賛助をしてくれた縁で日本画家の川合玉堂と懇意だったので、当時、奥多摩に住んでいた玉堂に何枚か絵を描いてもらえないかと相談に行きました。玉堂は清水の願いを聞き、馬の絵や風景画を描いて清水に渡しました。

その後、清水はアダムスに頼んで、マッカーサーに近い上層部と面談する機会をつくってもらうと、その席で「馬が好きと伺ったので、馬の絵を持ってきた」と言って玉堂の絵を渡しました。

この効果は覿面で、清水はGHQの上層部から信用を受けると共に、清水の英語が堪能なことから、英語が得意でない米国人から「上司に提出するレポートの英語を添削してほしい」などと相談を受けるような仲にまでなりました。当時、ほかに英語が堪能でGHQに出入りしていた日本人と言えば、白洲次郎を挙げることができます。清水は白洲の7歳年長、GHQ本部(第一生命館)は広い建物ではありませんから、二人が話をすることもあったかもしれません。敗戦後の日本でGHQと渡り合って実務上の復興の道筋をつけたのは、清水や白洲のような人たちでした。

GHQから信頼を得ることができた清水は、いよいよマッカーサーに取引所再開を諒解してもらうためのプロセスに入らなければなりません。どうすべきかと考えあぐねていたさなか、たまたま、山崎種二の誘いで、清水は日本画家の横山大観の自宅(熱海の伊豆山)を訪問しました。大観は明治元(1868)年生まれで、GHQ占領期には代の老境にありました。

大観は、明治36(1903)年にインド、翌37(1904)年にニューヨークへと渡航して、現地で自分の絵を売って生活した人で、日本国内よりも先に海外で評価を得た日本画家でした。そのため、英語の日常会話や手紙には困らず、GHQ本部に赴いて米国人と酒を酌み交わしたとも言われています。

さて、清水と山崎が伊豆山の家に到着し大観を待っていると、大観は英語の手紙を持って現れました。清水は好奇心もあって「先生、それは誰からの手紙ですか」と聞くと、「これはマッカーサーの副官のバンカー大佐だよ」と大観は事もなげに教えてくれました。

清水はあっと驚き、「先生、バンカー大佐を私に紹介してくれませんか。今、取引所再開の問題で行き詰まっていて、マッカーサー元帥との個人的な伝手を探していたのです。バンカー大佐と知り合いになれるとありがたいのですが」と清水は勢い込んで頼み込みました。大観は笑顔で答えます。

「それでは大観の友人だと言ってバンカー大佐と会ってきなさい。紹介状も何もいらん。わしの名前を言えば充分だ」

果たして清水がGHQを訪問し、受付の日本人女性にバンカー大佐の名前を告げ、「大観の友人だ」と言い添えると、魔法のようにバンカー大佐が待っている(マッカーサー元帥も使っている)応接室に通されたのです。清水はバンカー大佐と絵の話題で盛り上がったあと、応接室に飾ってあった絵が部屋に相応しくないと言い、大観の絵と交換したいと切り出しました。大観は欧米の絵画好きの間では有名でしたから、バンカー大佐も大いに喜んだそうです。それ以降、取引所の再開についての交渉スピードが急速に速まりました。

先に紹介したように、交渉官のアダムスは日本に理解を示す立場でしたので、財閥解体や証券民主化で株式所有構造が大きく変化した状況などを見て、上司のマッカートやマッカーサーに取引所の早期再開を助言してくれたのかもしれません。何はともあれ昭和24(1949)年1月、マッカーサーから、取引所規則などの準備が整えば、取引所を再開してもよいとの声明が出されました。清水らが待ちに待った知らせでした。

昭和24(1949)年2月、東京で集団売買をしていた証券業者が集まり、東京証券取引所設立準備委員会が開催され、同年2月には設立総会が開催されました。GHQ主導で新たに制定された証券取引法(昭和22〈1947〉年制定・23〈1948〉年全面改正)では証券取引所が会員制だったので、戦後の証券取引所は会員制でスタートすることになりました。

また、取引所の定款は、アダムスが勤務していたサンフランシスコ証券取引所の定款を翻訳したものを使いました。現在の東京証券取引所の定款は、株式会社化などの際に大幅に変更していますが、当初の定款は、「サンフランシスコ」を「東京」に直した程度で、サンフランシスコ証券取引所の定款をほぼそのまま使っていたそうです。

一方、売買方法の基礎となる業務規程は、戦前のものとは大幅に変更となりました。GHQは、日本の証券取引所で行われていた清算取引(個別株先物取引)は実需を伴わない取引も含まれているために投機的であるとして禁止し、実物取引のみを認めました。これには証券業者から強い反発がありましたが、GHQは取引再開の直前に「証券三原則」という明文化された指令を出して厳命しました。このあと、株式の先物取引が認められるのは昭和62(1987)年になってからですから、再開までに38年もの歳月を費やしたのです。

こうして、新設の東京証券取引所による取引所取引の再開準備は整いました。東京証券取引所は今でも大観の絵を保有しており、毎年1月だけ一般公開しています。取引所再開の立役者が日本画だったというのは、いかにも日本ならでは、と言えましょうか。

横山大観は昭和33(1958)年、川合玉堂は昭和32(1957)年にそれぞれ亡くなりました。

平和不動産は戦前の取引所の承継者

日本経済の心臓 証券市場誕生!
(画像=PIXTA)

昭和22(1947)年、新たに証券取引法が公布され、戦時金融機関性を持ったそれまでの日本証券取引所を解散することになりました。日本証券取引所は、昭和18(1943)年6月、旧東京株式取引所ほか10ヵ所の株式取引所を統合合併し誕生させた組織で、出資割合の4分の1を政府が保有し、役員は政府が任免するという特殊法人でした。

日本証券取引所の解散に伴い、取引所再開運動は性格を変えて、新たに証券取引法による証券取引所を設立し、取引を開始するという方向に舵を切り換えました。新法による証券取引所は会員制法人のため、改めて会員からの拠出により設立されることとなり、日本証券取引所の資産や出資者を引き継ぐことはできません。

そこで、日本証券取引所を、新設される会員制の証券取引所に取引所建物を貸す不動産会社に変更し、再出発を図ることとしました。これが現在の平和不動産株式会社で、業態も名称も異なりますが、明治(1878)年に設立された全国の取引所の系譜を受け継ぐ承継会社です。

平和不動産の設立に際し、日本証券取引所の出資者約3万9000人に平和不動産の株式を3対1の比率で割り当てましたので、設立当初から平和不動産は株主数が4万人近い大きな規模の会社となりました。取引所建物を保有する会社ですから、証券業者間で株式を分けて非上場で持ち合っていればよいという意見もあったそうですが、『平和不動産四十年史』によれば、売買高に応じた賃料収入が取引所から入るという仕組みにしたことで、実質的に取引所と変わらない収益構造となり、戦前に最も売買され指標銘柄であった取引所株式のように活発に売買されるのではないかとの思惑から、出資者に株式を割り当てて、上場させたと伝わっています。

こうして誕生した平和不動産は、取引所株式がそうであったように、一日の取引の最初と最後の締めの撃柝売買で扱われることになり、構造上、株式市況全体の変動に合わせるような値動きを続けていくことになります。

証券取引の再開―東京証券取引所の誕生―

昭和24(1949)年4月1日、東京証券取引所は会員制法人として出発を果たしました。立会開始は同年5月16日です。また、上場銘柄数は495社696種で、すべて戦前の日本証券取引所からの引継上場です。東京証券取引所が発行していた月間統計誌『証券』創刊号によれば、立会開始の月では日本発送電、関東配電、帝国石油などの復興に欠かせないインフラ系銘柄が活発に売買されています。集団取引を行っていた同年5月上旬の取引高上位と比較しても大きな変化がないことから、集団取引から取引所取引への移行は特に問題なく行われたと考えられます。

また、売買慣習も大きく変わりました。戦前の証券界は仕切り売買が主流で、取引所での価格を参考に証券業者と顧客が約定し、証券業者が取引所価格との差で利ざやを得るというものでした。取引所内の注文伝票はなく、口頭のみで記録も当事者の合意でしたから、都合が悪くなると「なしなし、これなしね」と売買の記録から削除してしまうというようなこともあったと言われています。

GHQは、こうした慣習は投資家保護に反しているとして、取引所再開にあたっては、「顧客注文を取引所へ直出し」、「時間優先」、「記録をつける」を徹底するよう証券界に指示しました。日本の証券業者は伝票など書いたことがない者ばかりです。売買開始日である5月の前日の日曜日には、GHQ立会いの下、伝票を使った米国式売買仕法を証券関係者に教え込む特別レッスンが行われたと伝えらえています。

こうして昭和24(1949)年5月16日に売買が開始されたのですが、その後、朝鮮戦争特需で景気が上向きとなり、株式取引は増加の一途をたどります。昭和28(1953)年2月12日には、午前の立会いの売買照合が終わらないために午後の立会いが休業する事態となり、機械化待ったなしの状況が訪れます。

とはいえ、機械化といってもコンピュータというものがあるということは知られていても、自分たちの仕事をコンピュータに移すような開発ができそうな会社は、そう多くはありませんでした。

しかし東京証券取引所は、まだ計算機もない1950年代に、日本の金融業界においては初めてのコンピュータ化に挑戦することになるのです。

商法改正とコーポレート・ガバナンスの萌芽

証券民主化により個人投資家数が増大すると、株式を転売する場所、証券取引所の再開が一層急務になりましたが、同時に発行会社には個人投資家を向いた経営が必要となりました。明治23(1890)年に公布(一部明治26〈1893〉年、ほかは明治31〈1898〉年に施行)された商法は、資本金の分割払込制度を採用する一方、会社の資金調達を株主総会で細かく決定しなければならず、株主総会中心型とも言える仕組みでした。株主総会中心型は、株主一人一人が会社の詳細な意思決定に関与できる点で民主的と言えますが、経営状況をよく知る取締役が機動的に経営判断できない課題もありました。

そこで、戦後に改正された商法では、授権資本制を導入し、取締役に一定の範囲であれば株主総会を開催せずとも資金調達を行い、経営に必要な判断ができるようにしました。

これは、わが国における本格的な企業統治「コーポレート・ガバナンス」の始まりと言えるかと思います。プロ経営者がどのように会社を統治するのか、その手腕が試される時代が到来したと考えられます。

しかし、昭和30年代(1955年~)に入り高度成長期が訪れると、収入が増えた勤労世帯からの銀行預入額が増加すると共に、株価が上昇基調となり、銀行は融資先の株式を第三者割当や市場買付けにより入手・保有するようになります。

こうした変化は東証の株式分布状況の調査結果で裏付けられます。昭和24(1949)年に64.1%を記録した個人株主比率は、昭和60(1985)年には25.2%まで下落した一方、同期間の金融機関の保有株式割合は9.9%から40.9%まで上昇を見ています(東証調べ)。

少数の金融機関等が多くの株式を保有する状況について、著名経営者の松下幸之助は、昭和40(1965)年に『実業の日本』と『PHP』誌上で始まった連載記事「あたらしい日本・日本の繁栄譜」の中で、「現状としてはやむをえない面がある」としつつも、「決してのぞましいことではない」とし、株式の大衆化を主張します。確かに、株主の中には、株主総会で何回も質問したり、会社に対して高い要求を突き付ける者もいますが、株主というのは、「株に投資することによって国家の産業に参画し、その発展に寄与奉仕するといういわば尊い使命をもっている」のであるから、双方が真摯に向き合わなければならないと説きます。

松下幸之助は、少数の金融機関しか株主がいなければ、会社は金融機関にとって利益になるような経営をしてしまい、いずれ大衆から見放されて収益が低下することを危惧していると思われます。そのため、価値観の異なる多くの個人株主を持ち、社会全体にとって利益となるような経営を心掛けるべきだと説いているのです。

誰しも耳が痛い意見は聞きたくないものです。それをあえて聞いて経営に臨むという姿勢が、現代の経営者にも求められているのかもしれません。

株式会社 日本取引所グループ(JPX)
(にっぽんとりひきじょグループ:JapanExchangeGroup,Inc.)

JPXは、世界有数の規模の株式市場を運営する東京証券取引所グループとデリバティブ取引において国内最大のシェアを誇る大阪証券取引所が2013年1月に経営統合して誕生した持株会社。