『経済改革としての明治維新』
著者:武田知弘
出版社:イースト・プレス
発売日:2018年 2月10日発売
今年は明治維新150周年のため、政府や地方自治体はこぞって記念事業を予定している。 250年続いた徳川政権が倒れ、日本は新たな近代国家として歩み始めた。眼前に迫る西欧列強の脅威に対して、富国強兵・殖産興業といった政策を次々に打ち出す。
西洋列強に伍するための経済改革
富国強兵は、列強に対抗するための軍事強化だ。西洋諸国は争うようにアフリカやアジアといった飲み込み、自国の植民地化にしていった。その波は、アジアの東端まで押し寄せた。
17世紀まで、大清帝国はヨーロッパ諸国よりも文化的にも産業的にも進んでいたとされる。そんな大清帝国は、産業革命が勃興して力をつけたヨーロッパ諸国に追い抜かれた。わずか100年足らずでヨーロッパ諸国は、大清帝国よりも国力を増強させたのだ。
大清帝国がヨーロッパ諸国に蹂躙されたことで、日本も危機を覚える。長らく鎖国で海外との窓口を閉ざしていた日本は、諸外国から産業的にも文化的にも遅れていた。
それらを挽回するべく、明治新政府は旧制度を次々と改める改革に乗り出した。著者は日本という小国が急速に国力を増強できた理由を、明治維新の本質が単なる政権交代にとどまらず経済改革だったからと分析する。
学校の授業で習ったように、封建制度だった江戸時代までは職業選択の自由や居住・移動の自由は認められていなかった。私たちは当たり前のように職業選択の自由や居住・移動の自由を享受しているが、それは明治維新という経済改革による恩恵なのだ。そして、それらはGDPを押し上げる規制緩和・成長戦略でもあった。
明治政府が打ち出した改革は、それだけではなかった。地租改正や版籍奉還、廃藩置県という土地にかかわる制度が次々と近代的な制度に改革されたことで、日本の主産業は農業から工業、そして商業へと向かった。それが日本のGDPを押し上げ、そしてヨーロッパと肩を並べる一等国につながった。
農業は国家を支える重要な産業だ。食糧がなければ人は生きることはできない。だから、農業(農民)を保護することは国家の根幹でもある。しかし、農産物の生産は天候に左右される要素が大きい。また、地域によっては農業に向かない土壌もある。
今でこそ、農業は機械化・IT化などにより生産性が向上し、時に“儲かる農業”とも喧伝される。しかし、明治時代はおろか大正、そして昭和に入ってもなお農業は人力に依存するウエイトが大きかった。農業分野で本格的に機械化が志向されるのは、昭和30年代に入ってからだ。
だが、機械化の気運が高まり、省力化を図る農機が導入されても、農業における人力のウエイトは依然として高かった。
一方、工業や商業は違う。もともと工業は機械を駆使して製品を生み出す産業なのだから、人よりも機械の依存度が高い。技術の進化により、時代とともに工作機械は進化を遂げていき、省力化はどんどん進んだ。そして軽工業から重工業へと裾野は広がり、工業はますます“稼げる”産業へと化した。商業も同様だ。
経済改革の立役者 渋沢栄一・由利公正・松方正義
明治新政府は、産業を農業から工業へと転換するために知恵を絞った。日本の工業化・商業化に貢献した人物はたくさんいるが、本書ではそのキーマンに渋沢栄一を挙げる。渋沢自身はひとつの会社を経営して利益をあげる企業家というよりも、生活を向上させるための事業を次々と興した社会起業家という面が強い。
渋沢が産業を興すことに成功した背景には、政府がきちんとした金融システムを構築していたことも見逃せない。どんなに渋沢がうまく産業を興しても、金融システムが脆弱で、“お金”が世に流通しなければ企業は育たない。安定的な金融システムは資本主義には欠かせないのだ。
本書では、そうした金融システムの安定化のために尽力した2人の財政家をクローズアップしている。その一人は幕末期に福井藩で財政を取り仕切り、明治新政府でも財政基盤を確立させた由利公正だ。福井藩士の頃より、由利は藩札の発行を担当。新政府でも太政官札担当を務めた。
発足当初の明治新政府は、財政が逼迫していた。なぜなら、徳川幕府は政権を返上したものの、各地の領地はそのまま大名たちが保有していた。そのため、江戸幕府から明治新政府に切り替わっても、各地の大名は自分の領地から徴税していた。明治新政府の徴税エリアは限定的だった。
こうした体制を刷新するため、明治新政府は領地と領民を返納させる版籍奉還を断行。これにより、全国の税は中央政府に収められるようになった。また、地租改正によって、それまでは米納だった税制が金納に切り替えられた。
徴税が金納に切り替わったことで、税収は安定化した。しかし、それだけで明治新政府の財政が改善したわけではない。由利の手腕で財政は切り盛りされていく。
そして、もう一人のキーマンが松方正義だ。松方は、日本銀行の設立に尽力した人物としても知られる。なぜ、松方は日本銀行を設立しようと考えたのか? それは、当時の政府がGDPを向上させるために、外貨獲得を目指していたからだ。
外貨を獲得するためには、日本製品を海外に輸出しなければならない。そのためには、海外でも通用する農産品・工業製品をつくる必要があった。渋沢は海外でも売れる製品づくりに励んだ。
そして、輸出品を海外に売るため、政府は豪商たちに貿易を取り仕切る総合商社の設立を促した。諸外国との貿易では、為替などの諸問題も発生した。それら海外との取引をスムーズにするための金融システムを整備したのが松方正義だった。
日本銀行が創設されたことにより、安定的な金融システムが完成。松方によって日本銀行が創設されたのは明治15年であり、明治維新からわずかな歳月で史上稀に見る経済改革は完了した。
今般、日本政府はアベノミクスと称する経済改革を実行中だ。著者は明治維新の経済改革とアベノミクスとを比較し、「明治維新の経済改革は『経世済民』を実現したが、アベノミクスは富が偏っているので庶民の生活は向上していない」と指摘する。
明治維新150年という節目に、明治期の経済改革に取り組んだ進取の精神をおさらいしてみることで、経済の今が見えるかもしれない。
小川裕夫(おがわ ひろお)
フリーランスライター・カメラマン。1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者などを経てフリーランスに。2009年には、これまで内閣記者会にしか門戸が開かれていなかった総理大臣官邸で開催される内閣総理大臣会見に、史上初のフリーランスカメラマンとして出席。主に総務省・東京都・旧内務省・旧鉄道省が所管する分野を取材・執筆。