(本記事は、小川裕夫氏の著書『ライバル駅格差 「鉄道史」から読み解く主要駅の実力』イースト・プレス、2018年7月2日刊の中から一部を抜粋・編集しています)
「民」が生み出した活気を「官」があと押しした新宿駅
いまや高層ビルが連なる新宿駅。
その発展は1885年に日本鉄道(現・JR東日本)が駅を開設したことに始まる。
上野駅をターミナルにしていた日本鉄道は新宿駅開設よりひと足早い1883年に上野駅‐熊谷駅間を開業。その後も北へ北へと線路を延ばした。
日本鉄道が上野駅から北へと線路を延ばした理由は北関東一帯で紡績業や繊維産業がさかんだったからだ。
世界遺産に認定された群馬県の富岡製糸場は、まさにその象徴的な存在だった。
北関東で生産された生糸は日本鉄道によって横浜へと輸送された。明治新政府は誕生直後から財政難で、その立て直しの一環として打ち出したのは外貨獲得だった。
そして外貨獲得のため海外でも高評価を受けていた生糸が輸出されることになった。
生糸の一大生産地である群馬には鉄道がなかった。政府は財政が逼迫しており、群馬まで鉄道を敷設する資金がなかった。
そこで半民間の日本鉄道が群馬まで線路を敷設。こうして群馬から上野駅まで迅速に生糸を運べるルートが整えられた。
しかし、生糸輸送のゴールは上野ではなく、あくまでも横浜だ。
上野駅まで運ばれてきた生糸はいったん積み替えられて新橋駅(現在の旧新橋停車場)まで運ばれる。そして新橋駅から再び鉄道で横浜まで輸送された。
この積み替えがスピード輸送、大量輸送のネックだった。
そこで政府と日本鉄道は、1885年に日本鉄道の赤羽駅から分岐して板橋駅、新宿駅、渋谷駅というバイパスルートを建設。
この現在の埼京線にあたるルート上に新宿駅が開設された。
開業当時の新宿駅は東京の外れに位置した。
新宿という駅名は駅より内側にあった内藤新宿に由来する。内藤新宿は現在の新宿御苑あたりにあった。現在でも新宿御苑の周辺に内藤町という町名が残る。
江戸時代、江戸から最も至近にある甲州街道の宿場町として内藤新宿は栄えた。
それは明治に入っても変わらなかった。
人が行き交い、にぎやかな雰囲気を漂わせていたのは内藤新宿周辺で、新宿駅一帯は場末だった。
それでも鉄道の将来性を見抜き、駅の拠点力が街を発展させるパワーを信じた商人たちもいた。
現在でも新宿駅東口で老舗のフルーツパーラーを営む新宿高野は、新宿駅の開業とほぼ同時期に新宿駅東口に出店。開業当初こそ果物販売は副業的な扱いだったが、次第に主業を果物販売へとシフトした。
1909年には新宿中村屋が文京区本郷から移転してきた。
そして1927年には新宿駅東口のランドマークでもある紀伊國屋書店本店がオープン。新宿駅の東口の繁栄は加速した。
戦後、新宿駅東口には広大な焼け野原が残った。この焼け野原で露天商の「組」が跋扈する。
新宿駅東口を取り仕切った組は数多く存在するが、尾津組、和田組、安田組、野原組などは新宿駅東口に積み上げられていた瓦礫を整理し、青空市場を開場した。
新宿駅東口は組によってにぎわいを取り戻した。
妖しさを内包しながらも人が集まるようになり、ものを売る店舗が増えた。戦災復興に落ち着きが見られるようになると、新宿大通りの地主たちも商売を再開していった。
そして地主たちは商売仇でもあるヤミ市の排除に動き出す。
もともと脱法的な商売をしていた組にとって、警察や行政と一体になった地主たちに対抗する手段はなかった。張り合っても勝ち目はなく、新宿大通りから組は撤退。
ヤミ市は急速に姿を消した。
ヤミ市と入れ替わるようにして新宿駅東口のにぎわいを牽引したのが歌舞伎町だった。
いまや訪日外国人観光客が年間2000万人を突破し、観光立国にひた走る日本の課題のひとつにナイトタイムエコノミーがある。
ナイトタイムエコノミーとは、夜間帯における「遊び」の需要を取り込み、それを経済の活性化につなげるというビジネスの概念だ。
組を排除したことで、雑然とした新宿のにぎわいは消えようとしていた。
それを途絶えさせないようにすべく、新宿の地主だった鈴木喜兵衛は、新宿駅東口一帯を健全なエンターテインメントシティ化しようと画策する。一地主でしかない鈴木にそんな大がかりな都市計画を実現する力はない。
そこで東京都職員として都市計画を主導していた石川栄耀に相談を持ちかけた。
鈴木の提案に石川は賛同。
石川の助力もあって、周辺エリアは健全な娯楽街として計画をスタートした。まず、同地には歌舞伎座の誘致が検討される。そのため、町名も「歌舞伎町」と改められた。
歌舞伎座の誘致は未完に終わったが、同地は日本屈指の歓楽街として順調に発展。一時期は治安面が問題視されるようになったが、そうしたイメージは浄化作戦や治安対策により、薄らいでいる。
同地には関西資本の阪急グループ系列の新宿コマ劇場があった。
コマは長らく演歌の殿堂として親しまれてきた。
このほど阪急・東宝グループによる再開発も進み、コマ跡地には新宿東宝ビルが建ち、ランドマークのゴジラ像が来訪者を出迎える。
ヤミ市からにぎわいを創出し、健全な街を目指して不夜城化。そして阪急・東宝という大資本による開発。
時代ごとに新宿駅東口の開発主体は目まぐるしく交代した。
新宿駅東口に通底しているのは、大衆を楽しませるエンターテインメントシティという歴史だ。
一方、新宿駅西口は戦前期までほぼ手つかずだった。
西口には明治期に造成された淀橋浄水場が広がっていた。これは都民の命をつなぐ施設だから、そう簡単に廃止できない。
新宿駅は東口が繁栄を極めながらも、反対側の西口は荒涼とした土地だった。
淀橋浄水場を移転して空いたスペースを開発しようという意見は明治後期から出ていたが、淀橋浄水場は1898年に竣工したばかりで、供用から日が浅い。周囲から理解を得ることは難しかった。
しかし、関東大震災で東京の市街地が壊滅的な状況に陥ると、事情は一変。移転計画は動き出す。
なぜなら、新宿駅西口の浄水場近辺には震災で家屋を失った市民が押し寄せていたからだ。これらを排除するとともに、新しい飽和状態の新宿駅東口の受け皿をつくる。
新宿駅西口の開発はようやく口火を切った。
新宿駅西口の再開発計画は方向性が定まったものの、日中戦争の開戦によって財政的な余裕はなくなり、頓挫する。
再び計画が動き出すのは1950年代に入ってからだ。
1956年に首都圏整備法が成立し、1960年に新宿副都心計画が決定した。同年に淀橋浄水場の機能を代替する東村山浄水場が稼働を開始し、西新宿の副都心開発に目途がついた。
新宿駅西口の副都心開発トップランナーは京王プラザビル。
“京プラ”の開業から副都心開発は段階的に進み、その総決算となったのが都庁の移転だった。
1991年に都庁舎は西新宿へと移転した。淀橋浄水場は都有地だったこともあり、副都心の目玉となる巨大な都庁舎を建設することができた。
都立高校の教師や警視庁の警察官、都営バスや都営地下鉄なども含めれば、東京都の職員数はゆうに16万人を超える。本庁勤務の職員だけでも約2万人。
受け入れる副都心・西新宿は降って湧いた話に大歓迎を示した。
淀橋浄水場が移転して以降、新宿駅西口には高層ビルが立ち並び、国際都市・東京の経済を担うにふさわしい威容を誇っていた。
そこに、さらに都庁舎が移転する。
職員だけでも地域経済にとって大きなプラスになることは間違いなく、出入りの業者や関係者なども勘案すれば、都庁舎の西新宿移転はプラスの作用しかない。
こうした背景から、都庁舎の西新宿移転は平成のミニ遷都とまで形容された。
新宿は駅の東西に延びるかたちで街が発展してきた。
そして駅の北側には不夜城・歌舞伎町が広がる。
歌舞伎町も新宿駅に欠かせないコンテンツといえるが、歌舞伎町は新宿駅とは別に独自の進化を遂げていった。
一方、駅の南側では広大な貨物操車場が街の発展を阻害していた。日本国有鉄道(国鉄、現・JRグループ)は新宿駅の利用者が増加したことにともなって拡張工事を繰り返していた。
1987年に完成した新宿駅南口の駅ビル「ルミネ2」が南口の発展の契機になる。
南口の駅ビル「ルミネ」は西側で小田急の商業施設「ミロード」と接する。
南口駅舎の中央部は線路上にあるため、建物を高層化するのにも限度がある。国鉄は東側を高層ビル化することで新宿駅を発展させていった。
新宿駅南口を発展させるためには南口の貨物操車場を移転するしかない。同地は1987年に設立された国鉄清算事業団が所有する土地だったために、土地の売却は思うように進まなかった。
しかし、1996年にようやく再開発によって百貨店の髙島屋が運営する商業ビル「タカシマヤタイムズスクエア」が誕生。
いまでも南口の発展を支えている。
そして新宿駅南口の発展を語るうえで欠かせないのがサザンテラスだ。サザンテラスはタカシマヤタイムズスクエア跨線橋を通じて線路の反対側に開設された。
タカシマヤタイムズスクエアに遅れること年、1998年に新宿サザンテラスがオープンし、そこには遊歩道とともにカフェやレストランが並んだ。
サザンテラスが注目を浴びたのはドーナツチェーン「クリスピー・クリーム・ドーナツ」が2006年に日本初上陸を果たしたときだ。
これまで新宿の開発史をたどれば明らかなように、新宿の街は駅を軸に東西に発展、開発されてきた。
それがクリスピー・クリーム・ドーナツの進出で動線は一変。連日、店の前には100メートル以上の行列ができるようになり、新宿駅の南側が注目されるようになった。話題が話題を呼んで、行列は日に日に長くなった。
しかし、新宿駅南口に革命を起こした同店も、残念ながら2017年に契約を満了、閉店している。
新宿駅南口を変えた「クリスピー・クリーム・ドーナツ」と入れ替わるように、2016年に高速バスターミナルを集約した「バスタ新宿」が誕生する。
バスタ新宿の誕生は時代の要請だった。
2000年代後半から格安で移動できる長距離の高速バスや夜行バスの需要は高まっていた。人気の上昇を受けて多くの事業者が高速バス事業に参入。
高速バスが発着する東京の街は、新宿駅、東京駅、池袋駅などが定番だが、なかでも新宿駅は抜きん出ていた。
高速バスが爆発的な人気になっていたころ、行政の対応は後手に回っていた。バスターミナルが未整備だったため、バス事業者は各自で乗り場を設置した。
その結果、最盛期には新宿駅界隈に19ヵ所もの高速バスの停留所が乱立する。
同じ新宿駅とはいえ、19ヵ所も停留所が分散している事態は利用者もわかりにくい。また、あちこちに大型バスが停車していると道路渋滞といった悪影響もある。
バスタ新宿はそれらを解消し、停留所を集約化、拠点化する目的で開設された。
バスタ新宿は国道20号線の真横に建設されたが、その施設には立体道路制度が活用された。
立体道路制度とは虎ノ門ヒルズの建設でも採用されているもので、道路の上下の空間に建築物を建設できる制度をいう。1989年に法制化されたこの制度は、何回かの改正を経て、使い勝手がよくなった。
その後、東京をはじめとする各地でも積極的に都市計画に組み込まれるようになった。
この法改正のあと押しもあって生み出されたバスタ新宿によって、新宿駅の拠点力はさらに強化された。
今般、人口減少社会に突入しているなかで、東京都だけが、いまだに人口増を続けている。その東京のなかでも、とくに新宿への一極集中が加速している。