(本記事は、小川裕夫氏の著書『ライバル駅格差 「鉄道史」から読み解く主要駅の実力』イースト・プレス、2018年7月2日刊の中から一部を抜粋・編集しています)
国鉄「5方面作戦」がつくった駅格差
高度経済成長に突入した東京では、すでに通勤時の慢性的な混雑が社会問題になっていた。
“通勤地獄”という言葉が生まれ、混雑対策は国鉄や行政の急務になった。混雑解消のため、国鉄は輸送力増強に着手。
国鉄が実施した輸送力増強策は“通勤5方面作戦”と名づけられた。
5方面作戦では東海道本線、中央本線、東北本線、常磐線、総武本線の路線で重点的に輸送力を強化した。
現在、東海道本線と横須賀線は別々の線路を走っているが、5方面作戦前までは同じ線路を共用していた。これでは運行本数を増やすことは難しい。
東海道本線と横須賀線を分離し、東海道本線も横須賀線もともに複線化する。それによって増発を可能にした。
同様に、総武本線でも錦糸町駅以東を複々線化し、快速と各駅停車が並走した。
総武快速線は錦糸町駅から御茶ノ水駅に向かう各駅停車と分かれて東京駅を目指し、東京駅で横須賀線に乗り入れる。
総武線は総武鉄道という私鉄から始まった。
両国の当初の駅名は両国橋駅で、国有化されたあとに両国駅に改称した。
総武鉄道時代から東京の東の玄関口としてにぎわった両国駅は、1982年まで千葉県内各方面へと向かう急行列車が発着していた(1988年まで一部の特急が発着)。そのため、ターミナル駅として発展し、駅周辺もにぎわっていた。
それがターミナルの東京駅への移転で東京の東の中心地は錦糸町駅に移っていく。
両国駅の急行列車用の3番ホームはかろうじて残り、臨時列車用のホームとして細々と使用されていた。
近年、JR東日本は両国駅番線ホームの活用を模索して改装に着手。
コンコースには赤じゅうたんが敷きつめられ、壁には両国駅が華やかだったころの懐かしい写真を展示した。また、3番線ホームそのものもきれいにリニューアルされ、イベントスペースとして活用されている。
こうした取り組みは加速し、両国駅3番線ホーム発着のサイクルトレイン「BOSO BICYCLE BASE」(B.B.BASE)が2018年から運行を開始した。
B.B.BASEは南武線から引退した209系電車を使用しているが、B.B.BASEのために車内は改造が施され、自転車を積み込める設備とスペースが設けられた。
5方面作戦は中央本線も大きく変えた。
中央線の御茶ノ水駅と総武線の両国駅を結ぶ中央・総武線は1932年に開通。翌年、中央線と総武線を横断する中央・総武線は中野駅、船橋駅まで延伸している。
もともと中央・総武線は中央線と総武線をひとつの電車で横断できるようにすることで、中央線から総武線、総武線から中央線への乗り換えの手間を省くことが主眼に置かれていた。
しかし、中央急行線(現在は快速を運行)と中央・総武線が御茶ノ水駅‐中野駅間で並走すると、思わぬ副産物がもたらされた。
それは御茶ノ水駅‐中野駅間が複々線化したことで、結果的に輸送力が増強したことだった。
5方面作戦では中央・総武線の区間を中野駅以西にも延長。中央・総武線は三鷹駅まで延伸した。
5方面作戦によって輸送力が強化した各線は混雑緩和に一定の効果を上げた。その一方で、快速が停車する駅としない駅、つまり駅格差の拡大を誘発した。
総武線の両国駅と錦糸町駅もその一例だが、中央線でも各駅停車と快速が停車する駅とでは、その発展ぶりに歴然とした差が見られる。
中央線では「杉並3駅問題」と呼ばれるケースがある。
東京駅を出発した中央線快速電車は新宿駅の次に中野駅に停車する。
その次に停車するのは高円寺駅、そして阿佐ヶ谷駅、荻窪駅、西荻窪駅となる。
しかし、これはあくまでも平日ダイヤ。土曜・休日ダイヤでは、中央線快速電車は高円寺駅、阿佐ヶ谷駅、西荻窪駅の駅を通過する。
これが、いわゆる杉並3駅問題だ。
荻窪駅は東京メトロ丸ノ内線が接続することもあって駅より利用者が多いため、土曜・休日ダイヤでも快速停車駅となっている。
東横特急の「田園調布通過」の衝撃
こうした快速列車や各駅停車によって駅格差が生じたケースは国鉄(JR)だけではない。私鉄にも当然ながら存在する。
2001年に東急は東横線で特急列車の運行を開始した。
これは同年にJR東日本が湘南新宿ラインの運行を開始したことと無縁ではない。当時は上野東京ラインはなく、宇都宮線、高崎線と東海道本線は直結しておらず、お互いを乗り継ぐには東京駅と上野駅で2回の乗り換えを要した。
その乗り換えの手間を省きつつ、所要時間の短縮という画期的な移動を実現したのが湘南新宿ラインだった。
山手線は一般的に旅客列車と思われがちだが、田端駅‐新宿駅‐品川駅の西側半分は貨物線が並走している。
この山手貨物線を利用して、上野駅止まりだった宇都宮線、高崎線を池袋駅‐新宿駅‐渋谷駅といった山手線西側の主要駅に停車しつつ東海道本線に直結させたのが湘南新宿ラインだった。
1960年代には貨物列車が山手貨物線を頻繁に走っていたが、都心部を経由しないで東北方面と東海道方面が行き来できる武蔵野線が開通すると、山手貨物線に余裕が生じる。
湘南新宿ラインは、こうした山手貨物線の空きをうまく活用して誕生した。
東急が東横線に特急列車を登場させたのは、湘南新宿ラインというJR東日本の攻勢に起因している。東横特急の運行開始前、東横線には各駅に停車する普通と、半数近くの駅に停車する急行の2種類しか列車種別がなかった。
急行停車駅は誰もが納得する駅が選ばれていた。
ところが、特急では沿線のアイデンティティでもあった田園調布駅や日吉駅を通過するダイヤが組まれた。今後、田園調布駅と日吉駅のにぎわいが消失し、存在感が薄くなることも予測される(日吉駅は2003年から通勤特急が停車)。
京成の都心進出戦略から始まった「相互乗り入れ」
特急の停車駅になることで駅の拠点力が増したり、快速が通過することで街のにぎわいが消失したりといった現象もさることながら、路線の変更による沿線の衰退現象も見逃せない。
昭和初期、京成電鉄はターミナル駅を押上駅に、東武鉄道は浅草駅に置いていた。
東京の人口軸は西へ西へと移動しており、それだけに京成や東武は西につながる山手線沿線に進出することが最重要課題になっていた。
京成は少しでも山手線沿線に進出すべく、青砥駅から線路を分岐して上野方面を目指した。
1931年には日暮里駅‐青砥駅間が上野線として開業。
1933年には上野公園駅(現・京成上野駅)まで全通している。上野公園駅までの全通により、京成は上野公園駅‐青砥駅間をメインルートとした。
そして、1944年に上野線が本線に統合され、それまで実質的に本線機能を果たしていた青砥駅‐押上駅間は押上線に降格される。
上野進出により、京成は山手線沿線に近づいた。
しかし、昭和30年代に入ると東京の人口軸はさらに西に移り始めていた。京成は人口増加が顕著な西側からの乗客を取り込むべく、相互乗り入れという新手を繰り出す。
1957年に運輸省(現・国土交通省)は地下鉄と私鉄を相互乗り入れして都心まで直通する鉄道計画を発表し、京成、都営地下鉄浅草線、京急者の相互乗り入れが決められた。
3者の相互乗り入れは、利用者から見れば、乗り換えの手間がなくなるなど交通の利便性向上になる。利用者なら両手を挙げて賛成するだろう。
だが、鉄道事業者から見ればまた違った話になる。
京成の軌間は都電に合わせた1372ミリメートルの馬車軌、京急の軌間は1435ミリメートルの標準軌と異なっていた。軌間が異なれば、当然ながら同じ車両を走らせることができない。
異なる軌間なのに、どうやって電車を直通するのか。
新たに建設される浅草線はどちらかに合わせて建設するから問題にならないが、京成か京急はいずれにしても改軌しなければならない。果たして、どちらの軌間に合わせるのか。
話し合いの末、京成が1435ミリメートルに改軌することで決まった。
改軌工事は終電後に区間を区切って実施されたこともあり、京成は運休せずに2ヵ月で工事を完了する。こうして、1960年から京成は押上線を通じて浅草線との相互乗り入れを開始。浅草線と京急線の相互乗り入れは1968年に開始された。
地下鉄との相互乗り入れによって、京成は他社線を介しながらも悲願の都心進出を達成した。
昭和期に本線から押上線に降格された路線が都心とつながるという皮肉な結果であったが、こうした動線が変わることで、駅の拠点力に変化が生じることはめずらしくない。
京成と同じく西側への進出が最重要課題になっていた東武は、ターミナルの浅草駅から都心への進出を模索。
浅草駅からの延伸が実現した後も西側への進出を図ったが叶わなかった。1962年に北千住駅‐人形町駅間で暫定開業していた営団地下鉄日比谷線との相互乗り入れを実現して、都心進出を果たした。
日比谷線は1964年に中目黒駅までの全線を開業しており、東武は北千住駅を介して都心部とつながり、さらに都心部から東京の西側にまで直結した。
これによって北千住駅の拠点力が高まったことはいうまでもない。東武にとって、東京の西側に進出することは悲願であり、それを相互乗り入れという新たな手段で達成したのだ。
鉄道会社が会社の垣根を越えて他社と車両を共有しながら直通運転する相互乗り入れは、京成と浅草線を皮切りに、東京圏のみならず大阪や名古屋、福岡などの都市圏でも導入されていった。