(本記事は、小川裕夫氏の著書『ライバル駅格差 「鉄道史」から読み解く主要駅の実力』イースト・プレス、2018年7月2日刊の中から一部を抜粋・編集しています)

東急の沿線開発で副都心に躍り出た渋谷駅

ライバル駅格差 「鉄道史」から読み解く主要駅の実力
(画像=Shawn.ccf / Shutterstock.com)

「若者の街」と形容される渋谷駅は、新宿駅同様に1885年に日本鉄道が現在の宇都宮線、高崎線と東海道本線を結ぶバイパス線として赤羽駅‐新宿駅‐品川駅間を建設した際に開設された。

誕生年は同じで、新宿駅は甲州街道、渋谷駅は大山街道といった大きな街道筋にあたっていたという事情も重なっている。

同様の条件ながら、渋谷駅の発展は新宿駅より遅れた。関東大震災以前から発展していた新宿駅界隈は震災後に発展が加速。

一方で渋谷駅は東京の片田舎という印象を拭えない街だった。

その理由は渋谷駅を拠点にしていた玉川電気鉄道(玉電)にあった。玉電は1938年に東京横浜電鉄に吸収されるかたちで姿を消した。

玉電の名前は消失しても、そのDNAはいまもその支線だった東急世田谷線に受け継がれる。

昔をよく知る沿線住民などは、いまでも世田谷線を玉電と呼ぶ。

その玉電は明治末に多摩川から採取される砂利を運ぶための鉄道として開業した。

渋谷駅をターミナル駅として現在の国道246号線上の路面電車を運行していた玉電沿線は農村が広がるだけだった。そのため、旅客需要は乏しく、経営は苦しかった。

玉電の営業が好転するきっかけは1923年の関東大震災だった。

都心部の家屋は軒並み倒壊。復興に際して政府や東京市は地震や火災に強いコンクリート造を奨励した。

それにともなって砂利需要は一気に増加。玉電の砂利輸送は活況を呈した。

しかし、あまりにも膨大な砂利を採取したことで多摩川の水質は悪化。砂利採取は禁止され、玉電は本格的に砂利輸送から旅客輸送へと軸足を移す必要に迫られた。

そこで玉電が利用客の掘り起こしとして取り組んだのが沿線の宅地化と渋谷駅の繁華街化だった。

玉電沿線は世田谷区域にあたる。

明治初年まで同エリアは農村然としていたが、時代が下るにつれて、軍人などが多く住むようになっていた。

とはいえ、閑静な住宅街というほどの規模ではない。まだ人が少しずつ住むようになったというレベルだ。

玉電の株主だった東京信託は玉電の開業当初から沿線で不動産事業に進出する機会を狙っていた。

そして、土地信託という手法で桜新町の開発と分譲を開始する。

当時、多くの私鉄が沿線の住宅開発に熱を入れていた。沿線で住宅を開発すれば、沿線住民が増えて鉄道の利用者も増える。なおかつ住宅販売による収益も入る。

この嚆矢は阪急の総帥・小林一三だとされている。

その手法は瞬く間にほかの私鉄にも模倣されるようになるが、桜新町の開発は、信託という小林とはひと味違った手法が用いられた。

また、桜新町の開発は、たんなる住宅地の開発ではなかった。

東京信託の創業者である岩崎一は桜新町を"東京の軽井沢"とすべく尽力。

岩崎が思い描いていた軽井沢のイメージは判然としないが、桜新町には計画的にソメイヨシノが植樹された。このソメイヨシノは現在でも健在で、桜のトンネルは桜新町の名所になっている。

東京信託と沿線開発を進める一方、玉電は渋谷駅の集客力や拠点力の強化にも乗り出していた。

1938年に渋谷駅に併設する玉電百貨店(現・東急百貨店東横店西館)をオープン。玉電沿線住民が休日に渋谷にお出かけするというライフスタイルを創出した。

渋谷駅の拠点力を強化したのは玉電だけではない。

東京横浜電鉄も同様に渋谷駅をターミナルとしており、玉電としのぎを削った。東横を率いる五島慶太は、財界では"強盗慶太"とのあだ名もあるように、自分に弓を引く企業は片っ端から買収して傘下に収めるという剛腕の経営者として知られていた。

五島の東横も1934年に渋谷駅東口に東横百貨店(現・東急百貨店東横店東館)を開業。

渋谷駅で覇権を競う玉電を五島が快く思っているはずはなかった。

みずからの牙城である渋谷へと進出してきた玉電を撃退すべく、五島は玉電の株式買収を開始。

財務基盤の弱かった玉電はあっという間に株式を買い占められた。結局、玉電は東横に吸収されるかたちで消滅。五島は渋谷を掌中に収めた。

五島王国になりつつあった渋谷だが、1938年に陸上交通事業調整法が施行されることで、その色はますます濃くなる。

同法によって東京の私鉄は半強制的に統合させられた。

これにより、東横は京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)、小田急電鉄、京王電気軌道(現・京王電鉄)などと合併。社名を東京急行電鉄(東急)と改める。

それまでの東京は上野や浅草が繁華街という趣が強く、渋谷は田舎という見方をされていたが、五島は東急王国の拠点として、渋谷の地盤を着々と固めていった。

渋谷駅は駅を中心にすり鉢状の地形になっていて、駅はすり鉢の底部分に位置する。その地形は渋谷駅界隈の開発を困難にしていた。

それでも渋谷の王国化を狙う五島はあきらめず、東京高速鉄道(現・東京メトロ銀座線)を1938年に開業する。

地下鉄によって人の流動が起こり、渋谷駅は押しも押されもせぬ一大ターミナル駅と化した。

戦後、渋谷駅開発はいったんストップさせられるが、わずかな充電期間を経て、渋谷駅前開発は活発化する。

その先導役を務めたのは新宿・歌舞伎町でも尽力した石川栄耀だった。

石川は交通結節点という駅の機能を理解し、主要駅に駅前広場をつくる計画を進めた。

石川は新宿駅前広場に続いて渋谷駅でも駅前広場の整備計画を始める。

そして五島は、渋谷駅の発展のために、渋谷駅周辺だけを開発するのではなく、渋谷駅に連なる東急沿線の開発にも力を注いだ。

1953年に五島は優良な住宅地の開発構想を発表。

神奈川県川崎市、横浜市、東京都町田市、神奈川県大和市に広がる地を多摩田園都市と名づけた。

多摩田園都市の人口は開発の進展とともに増加の一途をたどった。

分譲を始めた当初は1万5000人程度だった人口は2000年を迎えるころには50万人を超え、いまや60万人超に増加した。

多摩田園都市は日本史上でも類を見ない都市開発となった。渋谷の後背地である多摩田園都市の人口が増加すればするほど起点となる渋谷駅は繁栄した。

1966年、たまプラーザ駅が開業。いまや"たまプラ"と呼び親しまれる同駅だが、開業当時は東急が多摩田園都市の玄関口的な存在とすべく、わざわざスペイン語で広場を意味するPLAZAを借用するほどの力の入れようだった。

多摩田園都市にアプローチする鉄道線はいくつかあるが、なかでも代表的な路線が東急田園都市線だろう。

田園都市線が誕生した経緯は複雑で、渋谷駅‐よみうり遊園(現・二子玉川)駅‐ 溝の口駅間は玉電の路線を継承した玉川線だった。

東横は1940年に大井町線の二子玉川駅をよみうり遊園駅と統合し、二子読売園駅としてドッキングし、大井町線を溝の口駅まで乗り入れさせた。

その後、1963年に大井町線は田園都市線に改称し、線路は溝の口駅から西へと延び、1966年には長津田駅までが開業。

現在の田園都市線は渋谷駅‐中央林間駅間の総延長31・5キロメートルの路線だが、この時点では渋谷駅‐二子玉川園駅間の玉川線、現在の大井町線を含む大井町駅‐長津田駅間の田園都市線と路線系統が分離されていた。

線路はひとつにつながっておらず、路線系統が二つに分離していたため、長津田駅方面から渋谷駅まで直通する電車はなく、乗客は渋谷に向かうには二子玉川園駅か自由が丘駅で乗り換えるという不便を強いられていた。

1979年に田園都市線は二子玉川園駅から玉川線を地下化した新玉川線に乗り入れるようになり、大井町‐二子玉川園間は再び大井町線に改称。

多摩田園都市住民の不便は解消される。

2000年には新玉川線が田園都市線に統合。

このように、渋谷の後背地を担ってきた田園都市線をとりまく環境は目まぐるしく変化した。

多摩田園都市の人口急増によって、拠点となった渋谷は一気に東京の都会と化すことになるが、五島、石川に続いて渋谷駅界隈の総仕上げを施したのが「近代建築の3大巨匠」と位置づけられ、フランスで活躍したル・コルビュジエに師事した建築家・坂倉準三だった。

五島の依頼を受けて、坂倉は渋谷総合計画を起案。

玉電百貨店跡地に東急会館を手がけたことで、東急との信頼関係を厚くする。

坂倉の渋谷総合計画には金融センターやバスターミナル、地下街、有料高速道路などが盛り込まれていた。そのうち、金融センターは渋谷駅東口に完成した東急文化会館として結実。

東急文化会館の屋上は当初、水族館がオープンする予定だった。これは渋谷でクジラを泳がせることを五島が夢想していたからだ。

渋谷の王であることを誇示するためのツールとしてクジラが選ばれたわけだが、技術上、渋谷のど真ん中でクジラを泳がせることは不可能だった。

クジラをあきらめ切れない五島に対して、天文学関係者や博物館員たちがプラネタリウムの建設をすすめた。

デートスポットにもなるほど、いまでは普及しているプラネタリウムだが、戦前期には東京、大阪の2カ所にしかなく、東京のプラネタリムは戦災で焼失していた。

東京にプラネタリウムを再興することは関係者一同の悲願でもあった。

国立科学博物館館長の岡田要をはじめとした天文学関係者一同が「宇宙はクジラより大きい」という殺し文句で五島を説得。

五島の名前を冠したプラネタリウムは東急の一施設ではなく、博物館法が適用される財団法人として発足。

東急とは切り離されたが、東急文化会館およびプラネタリウムのドーム型屋根は、渋谷が東急王国、もっといってしまえば五島王国であることを内外に示すものだった。

着々と渋谷駅の東急王国化は進展していたが、東急にとって目の上のたんこぶ的な存在だったセゾングループも、渋谷で存在感を大きくしていた。

セゾングループは西武鉄道総帥の堤康次郎によって生み出された。

しかし、1964年に康次郎が死去。息子の清二が西武百貨店を核とする西武流通グループを引き継ぎ、清二と袂を分かった異母弟の義明が西武鉄道グループを率いた。

鉄道事業では駅や線路がなければ渋谷に進出することはできない。

池袋を地盤とする西武鉄道が渋谷に進出することは物理的に不可能だ。

しかし、百貨店事業は違う。

土地を買収し、建物をつくれば進出が可能だ。西武グループは関東大震災直後から渋谷百軒店を開発して名店を集めていた。

戦後、西武流通グループはセゾングループに改称し、積極的に渋谷の都市開発にコミットした。

1973年には西武百貨店に隣接してファッションビル「PARCO」をオープン。面する道路はパルコ由来の渋谷公園通りと名づけられた。

また、1990年代に勃興したJ‐POPは渋谷からの影響を大きく受けたため、渋谷系とも称された。

渋谷系はセゾングループ発信の文化を吸収したとされており、そういう意味でも、セゾングループの渋谷における存在感は、東急に劣らなかった。

東急と西武は箱根や伊豆で鉄道事業や観光開発で火花を散らす犬猿の仲だったが、渋谷でも火花を散らす強力なライバル関係にあった。

そこには都市開発という面ではなく、文化という目に見えないソフトパワーの対立軸も垣間見える。

最近の渋谷では訪日外国人観光客という外的要因による新たな文化創出も見逃せない。

スクランブル交差点が訪日外国人観光客によって観光名所化するという現象も起きた。

渋谷駅前の雑踏に慣れてしまった都民にとって何気ない日常の光景でしかないスクランブル交差点だが、信号が青に変わったとたんに四方八方から人波が押し寄せるその光景は、外国人にとっては驚異に映る。

スマートフォンの普及と、それにともなうSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の隆盛で、それは世界に拡散。

"クール・ジャパン"を代表する一風景になった。

訪日外国人によって注目される渋谷の新たなカルチャーだが、クリアしなければならない課題もある。

渋谷駅はすり鉢状の地形の底にあり、道玄坂を上るまでの道のりにはラブホテル街がある。

高度成長期、そうしたラブホテル群は繁華街の活性化のプレイヤーとして暗躍する一面もあった。

ところが、時代は大きく変わった。

いまやラブホテルは風紀や治安の観点から忌避される傾向にある。

ラブホテルの新築や改築を認めない自治体もある。そのため、ラブホテルは数字上では減少する一方だった。

そうしたラブホテルへの圧力が強まるなか、脱法的な"偽装ラブホテル"が社会問題として浮上する。

"偽装ラブホテル"とは、ビジネスホテルで営業許可を取得し、そのあとにラブホテルとして改装し、業態転換を図ったホテルを指す。

ラブホテルは近隣に学校などがある場合は新規の営業が許可されない。

そうした規制をくぐり抜ける脱法的な裏技として、営業許可の取得はビジネスホテル、実態はラブホテルという"偽装ラブホ"が業界にはびこった。

行政や警察でも対策を講じているが、偽装ラブホの実態は正確に把握できていない。

渋谷区は偽装ラブホテルの増殖に頭を悩ませていた。

そこで2006年にラブホテル建築規制条例を制定。同条例は多数の規制を設けることで偽装ラブホを取り締まれるようにした。

同条例の制定により、いったんは渋谷駅界隈が清浄化された。

その一方で、ラブホテル規制が厳しいため、一般のホテルの開業を阻むという不測の事態も発生。

同条例で一般のホテル新設を阻害した大きな項目は「フロントやロビーは1階に設けること」というものだった。

今般、上層階がホテル、下層階が飲食店といった複合型のホテルは少なくない。渋谷区の条例ではこうしたホテルが建設できないのだ。

また、条例は渋谷駅の地形が考慮されていなかった。渋谷駅はすり鉢の底という地形から、坂を利用し、フロントを3階、1・2階が駐車場や車寄せというような構造で設計されているホテルが複数ある。渋谷区の条例ではこうしたホテルの建設も不可能とされた。

今日、訪日外国人観光客の増加で宿泊施設の新増設が焦眉の急となっているなか、そうした阻害要因を取り除かなければ、渋谷駅の発展は見込めない。

渋谷区は2016年に条例を改正。これにより、ラブホテルの新増設をブロックしつつ、一般のホテルを新設できるような規制に生まれ変わった。

ちなみに、2018年6月には民泊を可能にする住宅宿泊事業法が施行されるのにともない、渋谷区の条例も再改正されている。

渋谷区のラブホテル規制見直しは、経済的な部分だけではなく、渋谷発の流行や文化の発信促進にもつながる。

渋谷のポップカルチャーが海外からいっそう注目を浴びるきっかけにもなるだろう。

ライバル駅格差 「鉄道史」から読み解く主要駅の実力
小川裕夫(おがわ・ひろお)
1977年、静岡県静岡市生まれ。行政誌編集者を経てフリーランスライター。取材テーマは地方自治、都市計画、内務省、総務省、鉄道。著書に『踏切天国』(秀和システム)、『全国私鉄特急の旅』(平凡社新書)、『都電跡を歩く』(祥伝社新書)、『封印された鉄道史』『封印された東京の謎』(彩図社)、『鉄道王たちの近現代史』『路面電車の謎』『鉄道「裏歴史」読本』(イースト・プレス)、編著に『日本全国路面電車の旅』(平凡社新書)、監修に『都電が走っていた懐かしの東京』(PHP研究所)がある。 ※画像をクリックするとAmazonに飛びます