(本記事は、小川裕夫氏の著書『ライバル駅格差 「鉄道史」から読み解く主要駅の実力』イースト・プレス、2018年7月2日刊の中から一部を抜粋・編集しています)

じつは「官」の構想で周囲が開発された銀座駅

ライバル駅格差 「鉄道史」から読み解く主要駅の実力
(画像=Korkusung / Shutterstock.com)

日本一の繁華街といっても過言ではない銀座。

銀座のブランド力は抜群で、あの日本マクドナルドでさえ1号店は銀座三越に出店して銀座の威光にすがりつくほどだった。

銀座には高級店が立ち並び、老舗も多く軒を連ねる。新興の店は銀座に店を出してようやく一流店として認められる。

近年では海外の高級ブランドも店を構えるようになったが、日本一の繁華街・銀座の歴史は比較的浅い。

徳川家康が江戸に入府した1590年時点で、銀座一帯はまだ海のなかだった。

家康が積極的に江戸の街づくりを進めるようになるのは1603年。

手始めに大規模な海岸線の埋め立て工事が着手され、そのための土砂は駿河台、御茶ノ水一帯の神田山を削ることで捻出した。

このときの埋め立て事業は銀座一帯までで終わり、市場問題で揺れる築地は、さらにそのあとの埋め立てによって造成された。

埋め立てによって出現した土地には当然ながら地名は存在せず、銀座という名前もすぐには出てこない。埋め立てには各藩の大名から人夫を募った。そのため、藩に縁のある尾張町、出雲町、加賀町といった町名がつけられた。

銀座の町名はここに銀貨鋳造所があったことに由来しているが、その町名が正式にお目見えしたのは1869年。それまで新両替町と呼ばれていた一帯を東京府が銀座と改称したことによるものだった。

しかし、そのときに誕生した銀座は現在の範囲ではなく、ごく狭い一部でしかなかった。銀座が拡大するのは関東大震災による区画整理以降だ。

後藤新平が総裁を務めた帝都復興院では、現在の銀座一帯の区画整理が完了した土地から順次、町名を銀座に変更した。そのため、すべての銀座がいっせいに銀座に改称されたわけではないが、1930年に一帯は銀座と西銀座に整理統合された。

ちなみに銀座のルーツでもある銀貨鋳造所は1612年に設置され、1800年に日本橋蛎殻町に移転した。

つまり銀座が正式な町名になったときには、すでに銀座に銀座はなかった。

だが、江戸時代から“銀座”はブランド的な響きをともなっていたため、新両替町という正式な町名より、地元の人たちは“銀座”という通称を好んでいた。

銀座が日本一の繁華街として走り出すきっかけは1872年に起きた銀座大火だった。

これにより、銀座一帯は焼け野原になった。

明治政府の事後処理は早く、翌日には家屋の本建築を認めないと住民に通達。さらに、その翌日には道路拡幅を含む街路計画が決められた。

そして煉瓦街の建設の準備として測量が開始されることになり、すぐに図面が作成された。銀座大火発生からその間、わずか週間。

考えられないようなスピードで銀座の大改造が進んでいった。

銀座煉瓦街の計画を主導したのは井上馨と渋沢栄一だった。

二人は明治政府が発足した当初から、大蔵省(現・財務省)の同志として明治の日本づくりに奔走してきた仲だった。

もともと井上は都市計画に明るく、明治政府内で都市計画を語らせたら右に出る者はいなかった。

井上の計画に渋沢も賛同。

銀座煉瓦街の建設は着工後、迅速に作業が進められた。そこには「首都・東京のど真ん中に焼け野原が広がっているなんて、近代国家の名折れだ」という政府の面目が関係していたことは想像にかたくない。

江戸時代まで街路は人がすれ違うことができる幅があれば十分だった。しかし、人の往来がさかんになれば経済は活発化し、街は発展する。

そうした思想が資本主義の根底にある。

経済を活発にするには道路も大勢が通行できる幅にしなければならない。物流を効率化するためには、荷車や馬車の往来を確保しなければならない。

それらを踏まえ、銀座煉瓦街は幅間の道路が確保された。

さらに、政府と東京府は大通りに面した建物に煉瓦造の建物以外は認めない方針をとった。これは不燃化を主眼にしたものだが、銀座の大通りには西洋モダンを漂わせる煉瓦造の建物が並んでいく役割も担った。

現場監督的な立場にあった三島通庸は井上の右腕として銀座煉瓦街を取り仕切った人物で、その後、山形県に県令として赴任。

山形県に着任後は県内の建物を西洋風で建築しまくった。

明治初年に日本はお雇い外国人の力を借りて多くの西洋風の建築物を建てた。そして西洋のように街が変貌した銀座は街路樹が植えられて車道と歩道の区別もされた。

1872年に新橋駅‐横浜駅間で日本初の鉄道が開業したことも銀座には追い風になった。このときに開設された新橋駅は現在の新橋駅ではない。

現在は旧新橋停車場として再整備された汐留駅(貨物駅)があった場所だった。開港場である横浜から新橋まで鉄道に乗車した外国人たちは築地にある居留地を目指した。

駅と居留地のあいだにある銀座は、まさに外国人たちが買い物などを楽しむ街でもあった。

ヒトとモノが集まり、経済が活性化する。そんな銀座に目をつけたのが当時、情報産業として頭角を現していた新聞社だった。

1872年、新たにイギリス人が経営する新聞社が社屋を銀座に構えたのだ。

イギリス人による新聞はわずか3年で廃刊してしまったが、新聞創刊を聞きつけ、銀座では次々と新聞が産声を上げた。

1874年には毎日新聞の前身となる東京日日新聞が銀座に進出。2年後には朝野新聞が続く。横浜で発行されていた横浜毎日新聞も銀座に進出。

これら3社は銀座に社屋を構えた。

大新聞のほか、少部数の新聞社も銀座に集結。銀座はまさに情報の交差点でもあった。

新聞社が銀座に集結した理由は、大手町や霞が関の官庁、永田町の国会議事堂に近く、金融センターになっている丸の内や、商人の街・日本橋も徒歩圏。

さらに、横浜という外国との窓口にも鉄道で簡単にアクセスできるという地の利があったからだと推察できる。

ヒト、モノ、情報が集まる銀座は東京の最先端として不動の地位を確立。西洋からの文化も続々と流れ込み、流行を生み出した。また、新しいビジネスも銀座で花開くことになる。

銀座をモダンにした端緒は、井上と渋沢、そして三島など都市計画に先見の明があった人物たちによる努力の賜物だが、銀座が日本一の繁華街として成長した理由はそれだけで語れない。

官の力のみならず、民の力も大きく銀座の隆盛に寄与した。銀座をモダンにした会社として真っ先に名前が挙がるのは資生堂だ。

化粧品の製造、販売分野で国内シェア位を誇る資生堂は、もはや銀座という枠内だけで語れるほど小さな存在ではない。むしろ日本を飛び越え、世界でもその名前を轟かせる企業にまで成長している。

資生堂と銀座の関係は1872年に始まる。

資生堂の創業者である福原有信は、幕府医学所と大学東校(現・東京大学医学部)で学び、海軍病院薬局長に抜擢された。明治新政府内で順調に出世した有信は西洋調剤、医薬分業を志して起業する。薬局を開いたのは誕生したばかりの銀座煉瓦街だった。

日本では病院に足を運ぶと窓口で薬を処方されることが多かった。病院で手渡されたほうが、いちいち薬局に足を運ぶ手間が省けることもあり、日本では長らく医薬同業が根づいていた。

しかし、それは医者と薬局の癒着を生みやすく、診察代と薬価も不明瞭になりがちになるため、患者にとって好ましいとはいえない状態だった。

GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は医薬同業にメスを入れた。

終戦後、GHQの指示で医薬分業が進められた。それから70年以上が経過しても、日本において医薬分業が進んでいるとはいいがたい。

2006年前後には小泉純一郎総理の指示で厚生労働省は医薬分業に取り組んだ。しかし、2015年ごろには安倍晋三総理が見直しを表明。

日本において医薬分業は迷走に次ぐ迷走を続けている。

約150年という歳月を経ても、日本では医薬分業は浸透していない。そんななかにあって、福原有信と資生堂は明治初年から医薬分業を目指した。

有信の三男・信三は早くから跡取りとして将来を嘱望されて育った。コロンビア大学に留学し、卒業後はニューヨークの薬局や化粧品メーカーに勤務。

その後、ヨーロッパにも遊学に出され、ウィーン、パリ、ロンドンを見て回った。

1913年に帰国すると、信三は資生堂を個人経営の一薬局から化粧品メーカーへと脱皮させるべく経営改革に着手する。

それまで資生堂は東京市民から「新橋の資生堂」と呼ばれて親しまれていた。そうしたイメージを刷新すべく、信三は書籍『銀座』を刊行。続いて店名を東京銀座資生堂に改めた。

銀座をモダンにしたといわれる資生堂が本格的に銀座にコミットし始めたころ、銀座では西洋から到来した“カフェ”という新しい文化が流行する兆しを見せていた。

日本初のカフェといわれる「可否茶館」は1888年に御徒町にオープン。

可否茶館は店内でコーヒーを飲むだけではなく、新聞や雑誌なども豊富に取りそろえられていた。また、トランプやビリヤード、将棋、囲碁で遊ぶこともできた。

マンガ喫茶やインターネットカフェなどの複合カフェが隆盛している現在を考えれば、可否茶館の集客手法は時代を先読みしていたといえる。

可否茶館はオープンから4年で幕を下ろすが、カフェ文化はそれで途絶えなかった。

1911年に画家の松本省三が経営するカフェー・プランタンが銀座にオープン。カフェー・プランタンは作家や芸術家など文化人が集まる社交場になる。

画家では黒田清輝、文学者では森鴎外、永井荷風、北原白秋などが利用していたという。

カフェー・プランタンに続き、カフェー・ライオンも銀座に進出した。

銀座ライオンの名称で全国展開しているため、知名度の高いカフェー・ライオンの経営母体は築地精養軒。築地精養軒は開国によって急増した西洋人を接待するために、岩倉具視の助力を得て設立された由緒正しきレストランでもある。

同店は天皇の料理番として名高い秋山徳蔵を輩出するなど、日本における西洋料理の先駆けでもあった。

それだけに、カフェー・ライオンのオープンは、銀座にとっても大きな刺激になった。

銀座とカフェ文化を語るうえで、カフェーパウリスタも忘れてはならない存在だ。

カフェーパウリスタは1911年に銀座に開業。店名の“パウリスタ”にはブラジルの「サンパウロっ子」という意味がある。カフェーパウリスタの創業者・水野龍は明治期に神戸で商売していた傍らで、日本人のブラジル移民を最初に手がけた人物でもあった。

ブラジル移民を支援した功績から、ブラジルのサンパウロ州政府は水野に対して「年間1000俵のブラジル産コーヒー豆を無償で提供」する約束を交わす。

大量のブラジル豆を元手に、水野はカフェーパウリスタを銀座にオープンした。

文化の発信基地、若者が集まる場として銀座のカフェが人気を得ると、信三も資生堂のイメージチェンジに取りかかる。薬局だった資生堂は信三の提案によって化粧品部を新設し、女性客の拡大を図った。

信三は化粧品販売だけに飽き足らず、パーラー事業にも乗り出す。

資生堂パーラーではソーダ水を販売。瞬く間に評判を呼び、看板商品になった。ソーダ水のほか、アイスクリームも同時に人気商品になった。

戦前期までの銀座は、日本一の繁華街への道を着々と歩んだ。それが敗戦によって暗転する。

戦災で焼け野原になっただけでも銀座には大打撃だったのに、そこに連合軍が進駐してきた。銀座四丁目交差点に立つ服部時計店(現・和光)と銀座三丁目の松屋は進駐軍の基地内売店(PX)にさせられた。

客層の変化もさることながら、銀座の大地主にとって大きな痛手になったのが多額の財産税の納付が課せられたことだ。戦災で甚大な経済的被害を受けているうえ、そのような現金を持ち合わせている地主はまずいなかった。

財産税を支払うために保有していた土地を切り売りするか、国庫に物納するかしかなかった。こうして銀座の土地はいったん細分化される。また、物納された土地の多くは大蔵省所有の土地となった。

一部の地主によって占有されていた銀座は、財産税で放出されたことで企業が進出する余地が生まれた。

この空いた土地にすかさず進出したのが百貨店だった。

連合軍のPXだった松屋をはじめ、三越、松坂屋などが隣接地を次々と買収して店舗面積を拡大した。また、百貨店以外では読売新聞社が社屋の隣地を買収して拡大している。

銀座の大規模集約化が進むなか、戦後の銀座には避けることができない大波が押し寄せていた。それが戦災瓦礫で銀座の河川を埋め立て処分するプランだった。

明治期まで銀座のあちこちに河川が流れていた。

関東大震災で大量の瓦礫が発生すると、それらは地盤の嵩上げのために使われる一方で、銀座の河川の埋め立てにも使用された。関東大震災の震災瓦礫では入船川や築地川の一部が埋め立てられている。

戦災復興でも同様に、東京都は銀座の河川を瓦礫で埋め立てて処分しようと考えた。銀座の戦災瓦礫埋め立て計画を主導したのが、新宿・歌舞伎町の立て役者でもあった石川栄耀だ。

石川には瓦礫の処分という名目だけではなく、埋め立てによって銀座に新たな空間的余裕を生み出すという狙いもあった。

石川の目論見によって中央区と千代田区の区境にある外濠川、三十間堀川、京橋川、汐留川などが戦災瓦礫で埋め立てられた。銀座界隈には“橋”のつく交差点や施設が多い。

数寄屋橋、三原橋などは地理にくわしくなくても耳にしたことがあるだろう。それら“橋”の地名は戦争をいまに伝える貴重な遺産でもある。

戦災瓦礫で埋め立てられた河川のほとんどは商業用地として民間に売却された。その売却益は戦災復興費用などにあてられた。

ただし、東京都は復興を急ぐあまり、河川を埋め立てて造成した土地の住所をどうするのかといったことにまで気が回らなかった。そのため、銀座インズや銀座ナインといった商業施設には、いまだに正式な住所が存在しない。

通常、固定資産税や都市計画税などは市町村などの基礎的自治体の税収になるが、東京23区は都が徴税する。そのため、河川を埋め立てたことによって生じた千代田区・中央区、中央区・港区の不明瞭な境界線は問題にはなっていない。

また、居住者もいないため、困ることはない。

銀座が中央区の地名であることから、商業施設に入居している小売店は中央区銀座を望み、事務所系は千代田区有楽町を望んでいるともいわれる。

銀座ブランドが優位に働く小売店と、千代田区という日本の中央を意識させる地名を欲する事務所。それぞれの考え方の違いがわかるエピソードといえるだろう。

明治以降、一等地の名をほしいままにした銀座も、2000年代に入ると、少しずつ古びた印象が否めない街になっていく。

そんな銀座に新しい風を吹き込んだのが、2008年に銀座に出店したスウェーデンのファストファッションブランド「H&M」だった。

2000年前後からファストファッションブランド「ユニクロ」旋風が起こり、道行く人の誰もがユニクロのフリースを着用しているという社会現象が起こった。

ユニクロがファストファッション業界で独走するなか、「H&M」が日本第号店として銀座に出店。銀座という立地が注目を浴び、「H&M」は海外ファストファッションの旗手として話題を呼ぶ。オープン初日には約5000人が開店前に列をなした。

2003年にはiPhoneやiPadなどガジェット製品で日本を席巻した「アップル」が直営店「アップル銀座」をオープン。これら名前が知られた外資による出店が銀座健在をアピールする格好の材料になった。

そして訪日外国人観光客でにぎわう銀座に都市開発事業者として急成長してきた森ビルが満を持して進出。松坂屋銀座店の跡地を含む一画に2017年、商業・文化複合施設「GINZASIX」をオープンした。

「GINZASIX」は「六本木ヒルズ」や「表参道ヒルズ」など話題の商業施設を手がけた森ビルがブランドタウンの銀座に初進出するだけあって、オープン前から大きな注目を浴びた。

「GINZASIX」は、たんなる大きな商業施設ではない。

観光案内所やバスターミナルを備える公共的な役割も持つ。「GINZASIX」の建設において一部の都市計画関係者から注目されたのは、公道を隔てて離れていた二つの区画を、道路を移設してひとつにまとめたことだった。

二つの区画が統合したことで、大きな区画として一体的な開発が可能になったのだ。

従来、道路を移設することは、公共的な理由がなければ不可能とされていたが、そんな離れわざを、森ビルという一民間企業がやってのけたのだった。

ライバル駅格差 「鉄道史」から読み解く主要駅の実力
小川裕夫(おがわ・ひろお)
1977年、静岡県静岡市生まれ。行政誌編集者を経てフリーランスライター。取材テーマは地方自治、都市計画、内務省、総務省、鉄道。著書に『踏切天国』(秀和システム)、『全国私鉄特急の旅』(平凡社新書)、『都電跡を歩く』(祥伝社新書)、『封印された鉄道史』『封印された東京の謎』(彩図社)、『鉄道王たちの近現代史』『路面電車の謎』『鉄道「裏歴史」読本』(イースト・プレス)、編著に『日本全国路面電車の旅』(平凡社新書)、監修に『都電が走っていた懐かしの東京』(PHP研究所)がある。 ※画像をクリックするとAmazonに飛びます