日本三大まんじゅう~客が爆買いする!福島の銘菓
東京・渋谷の東急百貨店東横店の催事場で行われていた福島の物産展で、ひときわ人だかりを作っていた売り場があった。飛ぶように売れていくのは「薄皮饅頭」。名前の通り、皮は極薄で中には餡がギッシリ。誰もが一度は食べた事のあるおなじみの饅頭だ。
この薄皮饅頭を製造販売しているのが福島の柏屋。東京に常設の店舗もある。都電荒川線が目の前を走る大塚の「東京柏屋」は東京唯一の直営店。ここでも一番人気はやはり薄皮饅頭だ。「薄皮饅頭」(8個1080円)は、こし餡とつぶ餡の2種類。一回り小さなサイズの「薄皮小饅頭」(9個810円)も用意している。
柏屋の本拠地は福島県第3の町、郡山市。街道沿いに佇む「開成柏屋」は中心店舗の一つ。その饅頭は地域の人達の自慢にもなっている。
絶大な人気を誇る饅頭の発祥は、幕末までさかのぼる。1852年、初代・本名善兵衛が考案。お殿様に献上する上用饅頭をヒントに作ったとされる。
店内で笑顔を振りまく5代目・本名善兵衛は「お客様と親しくなることが、地域の中で生かされていく一番の秘訣かなと思っています」と言う。
地域に生かされ、愛される店。そんな思いから作ったスペースが店内の一角にある。コーヒーやお茶は無料で飲み放題。「買い物をしない方もご自由にどうぞ」と店舗の一角を憩いの場所として開放している。地元の人が集まるから、懐かしい出会いもあったりする。
店舗の裏手の敷地内にはのぼり旗が立ち、「萬寿(まんじゅう)神社」の文字が。饅頭に引っ掛けたありがたい名前の神社を、1957年の柏屋が建立した。地元の人達には「縁結び」のご利益があると親しまれているが、饅頭の祖がまつられた奈良市の林神社から分霊してもらった由緒正しい神社だ。
毎年4月に開いている饅頭祭りでは無料で饅頭を振る舞うなど、柏屋は地域にとことん尽くしている。薄皮饅頭の手作り体験も親子に大人気。小学生までは4個作って料金はわずか108円(大人540円)。もうけ度外視で、出来たてのおいしさも体験させてくれるのだ。
地域の人々に、観光客に、都会でも愛される
薄皮饅頭の原料は北海道・十勝産の中でも最高品種の「えりも」。風味が強いのだが、収穫量が少ない希少な小豆だ。この小豆を、通常の倍の時間をかけてあんこにしていく。
まず巨大な釜で1時間かけてゆで上げ、薄皮を取り除いてから巨大な水槽へ。すると白い泡が上がってくる。雑味の元になる小豆のアクだ。このアク取りを3回も繰り返す。水気を切った生あんは、砂糖を加えて2時間練ると絶品のあんこになる。
皮の生地には極上の黒蜜をたっぷりと。薄い皮であんこをくるむのは特殊な包あん機だ。皮になる生地とあんこは別々のノズルを通り、出口で合体。出てきたものをシャッターのように絞り込むようにして切ると、あんこは生地に包まれる。
包あん機とその製造ラインの開発には、8年という時間がかかった。機械の開発に当たったの「レオン自動機」は、国内の包あん機で9割のシェアを誇る専門メーカーだ。
「柏屋さんに『もうちょっと何とかならないか』『皮が薄くなる部分の生地を寄せて』と、何年かけても作り上げようという情熱があった」(田代康憲社長)
そんな柏屋は福島県を中心に27店舗を展開。40億円を売り上げる。東京では大塚の直営店以外でも大手百貨店などで扱っており、取り扱い百貨店は10軒以上になる。
福島では、天ぷらにしておかずとして食べるのも定番になっているほど、生活に根付いている薄皮饅頭。店舗の一つ、「いわき湯本柏屋」は、お土産を買っていきたいと言う人が多く、観光ルートになっていてバスがひっきりなしに入ってくる。客はほとんどがリピーターで、5箱、6箱と籠に入れていく。
客が殺到するのは薄皮饅頭だけではない。お米とクルミをしっとりと蒸しあげた「くるみゆべし もちずり」(97円)は隠れたベストセラー。さらに客がこぞって手に取る黄色のパッケージは、レモン風味のチーズタルト「檸檬(れも)」(194円)。フランス産チーズを100%使い、薄皮饅頭に次ぐ売れ行きとなっている焼き菓子だ。
「『この町に柏屋があって良かった』『柏屋があることが誇り』と言われるようなお菓子屋になっていければと願っています」(本名)
「町の縁側になりたい」~行列必至の月1朝茶会
まだ夜も明けぬ午前5時半。郡山駅前にある「柏屋本店」に30人以上の行列ができていた。客のお目当ては、恒例の「朝茶会」なるもの。厨房では職人が、朝の4時前から900個もの饅頭を用意していた。
朝茶会は1974年から毎月1日(午前6~8時、1月を除く)に行われている。席に着いたお客には、早速出来たての薄皮饅頭が。饅頭2個と季節のお菓子が無料で提供される。
客が早朝からやってくるのは他にも理由がある。朝茶会は友達と会う場所。饅頭を食べながら、会話を楽しみに来ているのだ。あちこちで、見ず知らずの客同士が言葉を掛け合う光景が。ここでの出会いからコミュニティーが広がっていくのも狙いだと言う。
「朝茶会に来れば友達ができる。来月も約束して、友達の輪が広がっていく。柏屋は、郡山の町の縁側のような存在になりたいと思っています」(本名)
壁の写真は、先月の朝茶会の時のもの。「思い出にどうぞ」と無料で配っている。しかも、それぞれ写っている人数分を用意する気配りだ。
そもそもは幕末、初代・善兵衛が営んでいた旅籠屋で薄皮饅頭を客に出したのが柏屋の始まり。見知らぬ同士が饅頭を食べて語り合う「心の縁側」の精神は、この時代から続いている。
明治時代に入ると上野と郡山を結ぶ東北線が開通し、薄皮饅頭の駅売りが始まり、その人気は広がっていく。そして昭和の高度経済成長期には交通網が整い、会津や裏磐梯への観光客が急増。柏屋の薄皮饅頭は、全国区の土産菓子となる。
「連日連夜、スキーバスや観光バスが押し寄せて、大変にぎわいました。お金が天から降ってくるんじゃないかと思うくらい繁盛したようです」(本名)
客に寄り添う福島・柏屋~幾多の困難を乗り越えて
柏屋が勢いに乗っていた時代、後に5代目となる本名は誕生。大学を卒業後、1977年、柏屋に入社した。
しかし、その頃になると本業以外に手を出したブライダルや飲食事業などが低迷。経営は悪化し、会社は厳しい状況になっていた。
「銀行さんから呼ばれて、『対策案を出さないと、融資はもうできない』と言われたこともありました」(本名)
追い打ちをかけたのが1986年の台風10号だった。台風が過ぎた翌日に逢瀬川の堤防が決壊。福島県内の各地で洪水が発生し、1万4000戸が浸水するという大災害となったのだ。
柏屋の本社にも洪水が押し寄せ、工場の生産機械や運搬車まで水没。まさに絶体絶命のピンチだった。当時31歳の本名は「何から何まで一気に飲まれてしまい、もう会社は終わりかなと覚悟を決めました」と言う。
しかしその翌日、水の引いた工場に行くと、本名が目の当たりにしたのは、社員たちが泥だらけになって残骸を片付ける姿だった。
「前の日に、もう全て失ったと思った自分が恥ずかしくなりました。社員という財産があるじゃないか、と」(本名)
この損害に保険は適用されず、新しい機械を買うこともできなかったため、社員総出で修復作業に当たった。そして1ヶ月後には工場を再開。廃業の危機を脱したのだ。この直後、本名は父と副社長だった叔父から、社長就任を命じられ、会社の建て直しを託された。
本名が最初に断行したのは、赤字だった事業の整理。その一方で、地域とのつながりである朝茶会やまんじゅう祭りはかたくなに守り続けた。
さらに全店舗で始めたのは「客伝」というシステム。お客に寄り添う店にしたいと、店内での会話をそのまま記録する仕組み=「客伝」を作った。すると、「小饅頭のバラ売りはないの?」「新しいお菓子が出たら、分かるように新商品と書いてないと」といった細かい要望も分かるようになった。
この取り組みを続けていくうちに思わぬヒット商品も生まれた。
「客伝の中に『柏屋のどら焼きは、おいしいけど食べきれない』というのを見つけました。あんこたっぷりで、これだけサービスしたどら焼きはないだろうと思っていたのですが、実際、自分で食べたら食べきれなかった(笑)」(本名)
そこで餡を適量に減らし、生地はフワフワに変えた。すると、1日100個しか売れていなかったのが、1万個出るように。新名物の「柏やき」(86円)が誕生した。
こんなやり方で、本名はお客が望む新商品を開発。ヒットも次々と生まれるようになり、一時は26億円まで落ち込んだ売上げは、52億円に倍増した。
ところが、2011年3月、未曾有の災害、東日本大震災が起こる。続いて発生した原発事故は福島に大きなダメージを負わせた。柏屋も休業を余儀なくされたが、「住民たちが集まれる場所を」と一ヶ月で営業を再開した。
本名には店を開けていいものかどうか、迷いもあったが、「店の近くに大きな野球場があって、避難している方が何千人と来ていた。オープン前からお客様が並ばれて、『良かったね』『待っていたよ』と言っていただいた。最高に嬉しかったです」と涙ながらに言う。
しかし、逆風はまだおさまっていない。福島の食べ物を避ける人は今でもいる。震災から8年経った今も続けているのが放射能の検査。自社で測定器を購入し、検査を実施。国が定める基準値の5分の1という厳しいハードルを課している。これまで数値は一度も超えたことはないが、やり続けている。
「おいしいものなのに食べてもらえないのはすごく悲しいことなので、これからも負けずに発信していきたいですね」と、社員の一人は語る。
福島・和菓子店の詩作活動~「子供の夢の青い窓」
「開成柏屋」の店舗の奥で、子供たちが集まって、真剣な顔で詩を書いていた。
柏屋は1958年から月に1度、「青い窓」という詩の集いを開催している。
昭和30年代の高度経済成長期、郡山も発展を遂げたが、子供たちが楽しく遊べる場所は失われていった。それを憂いた本名の父は、友人たちと「子供たちが夢を描ける場所を作ろう」と立ち上がった。子供たちの詩を募集すると、全国からたくさんの作品が送られてきた。それを冊子にして発行したり、店舗の前に展示して発表している。
純粋な心で書かれた詩は、会社のかじ取りをする本名のよりどころにもなっていると言う。
「社長になって、悩んで、この会社をどうしようと真剣に考えていた時に、久しぶりにその詩を読み直したら、『こういう会社にしたかったんだ』と、小学生の詩に教えていただいた」(本名)
それは『ポケット』という、東京・町田市の粟辻安子さんという女の子の詩だった。
「お母さんのエプロンのポケットの中を見ると、ボタンやはんけち、小さなえんぴつ、ちり紙やひもも、はいっている。そのほかにもまだはいっている。ポケットに手を入れて、いそがしそうに、はたらいている。くしゃみをすると、すぐちり紙を出してくれる。妹のかおがきたないと、はんけちを出して、かおをふく。おかあさんだけのポケットではない。みんなのポケットだ」
「柏屋のポケットは、柏屋だけではなく、社会みんなのポケットだと。そんな会社にしたいと感じまして、それを目指そうと」(本名)
子供たちの詩はラジオでも紹介している。ラジオ福島『子供の夢の青い窓』は毎日放送。番組は30年も継続している。
柏屋の橋本陽子は、詩を選ぶなど番組作りにも参加している。
「広く子供たちの詩が愛されていると、いつも感じております」(橋本)
子供たちの汚れのない心を飾る店。柏屋をそれが似合う店にし続ける。
~村上龍の編集後記~
薄皮饅頭は、独特の食感で、絶妙な甘さで、しかも「どうだ、おいしいだろう」という「自己主張」がまったくなかった。1000年前から存在していた感じもしたし、たった今生まれたばかりというような印象もあった。
「まごころで包む」という初代の言葉は、ただの社訓ではなく真実なのだと思った。
収録中、本名さんはよく笑顔を見せたが、目の奥には厳しさを感じた。新政府への会津藩の抵抗、水害、大震災、原発事故と、福島には試練が続いた。
薄皮饅頭の優しい美味しさは、人の痛みを知る人だけが作り出せる、そう思った。
<出演者略歴>
本名善兵衛(ほんな・ぜんべい)1955年、福島県生まれ。1977年、東京農業大学短期大学卒業後、柏屋入社。1986年、代表取締役就任。2012年、5代目・本名善兵衛を襲名。
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