(本記事は、安達裕哉氏の著書『すぐ「決めつける」バカ、まず「受けとめる」知的な人』=日本実業出版社、2019年2月10日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)
厄介なのは「わからない」ではなく、「わかりたくない」なんだよね。
コンサルタントをしていたとき、記憶に焼きついた先輩からのひと言がある。
「厄介なのは『わからない』ではなく、『わかりたくない』なんだよね」
これは、聞いたときにはそうでもないと思ったが、時が経てば経つほど、含蓄のある言葉だったとわかった。
人は、自分の経験や知識の中にないことを聞いたとき、2とおりの反応を示す。
1つは「わからない」。
そして、もう1つは「わかりたくない」である。
ちょっとした言葉の違いくらいかと思いきや、この2つの差は天と地ほど大きい。
人は「わかりたくない」ときがある
たとえば、こんな話がある。
目の前にボタンがあると想像してほしい。あなたは、そのボタンの管理者から「好きなときにボタンを押してください」と言われる。
あなたはしばらくしたあと、「そろそろボタンを押すか」と思い、ボタンを押す。
この「ボタンを押す」という行為、「じつは、あなたの意志でボタンを押したのではない」と聞かされたら、どう思うだろうか?
普通の人は「は?何、言ってんの?」と思うだろう。
じつはこの主張には、科学的な根拠がある。
脳科学者の池谷裕二は『進化しすぎた脳』で「自由意志は潜在意識の奴隷」と述べ、このような状態のときは「意識より先に体が動いている」ということを脳波の測定実験によってたしかめている。
1.「腕を動かそう」と思う→「腕が動いてボタンを押す」ではなく、
2.「腕が動いてボタンを押す」→「腕を動かそう」と思う、が正しいのだ。
突き詰めると、「人間の自由意志は虚構」と言えなくもない。
この事実はもちろん、直感に反する。
「いやいや、オレが動かそうと思ったから、腕が動いたんだろう!」と言う人は多いと思うが(私もその1人だ)、実際には逆だ。
意識は動くことよりも遅れて脳の中に現れ、あたかも「自分が動かしたように思える」のが実際なのだ。
そして、肝心なのはここからだ。
この話に対する反応は、概ね2通りに分かれる。
まず、「わからない人」の反応は、だいたい次のとおりだ。
「へえ、よくわからないけど不思議だね」 「どういう実験をしたの?」 「それは、脳科学では普通の考え方なの?」
この場合、知識が不足して自分では理解ができない、あるいは足りない知識を補おうとする様子が見て取れる。
しかし、「わかりたくない人」は次のような反応を示す。
「そんなわけない」 「信じられない」 「嘘だ」
つまり、自分の既成概念を優先し、事実を受けとめることができない。これが「わかりたくない人」だ。
大切な事実を「わかりたくない」となるとマズい
これは、飲み会のネタ程度で済めばいいのだが、仕事の成果に関わる話だと厄介だ。
たとえば以前、私がある会社のコンサルティングで営業の支援をしていたとき、どうしても自分自身の営業の拙さを認められない人がいた。
成約率のデータを示しても、
「データの見方がわからない(理解したくない)」 「データが間違っている」 「そんな話は聞きたくない」
と、話し合いそのものを拒否してしまう。
世の中には、客観的事実にもとづいて自分の考えを変えることのできる人と、客観的事実よりも自分の見えているもののほうが大事な人(「バカ」と呼んでもいいかもしれない)、2種類の人間が存在している。
バカとは何か。バカとどう付き合うか。
「バカ」と、人を罵倒するのは行為として褒められたことではない。
だが残念ながら、現実に「バカ」が存在することに異論のある方はいないだろう。
しかし、この「バカ」という存在。いったいどのような存在なのだろうか。バカとは何なのだろうか?
東京大学の名誉教授で、解剖学者の養老孟司は『バカの壁』で、次のように述べている。
「話せばわかる」は大嘘
「話してもわからない」ということを大学で痛感した例があります。イギリスのBBC放送が制作した、ある夫婦の妊娠から出産までを詳細に追ったドキュメンタリー番組を、北里大学薬学部の学生に見せた時のことです。
薬学部というのは、女子が6割強と、女子の方が多い。そういう場で、この番組の感想を学生に求めた結果が、非常に面白かった。男子学生と女子学生とで、はっきりと異なる反応が出たのです。
ビデオを見た女子学生のほとんどは「大変勉強になりました。新しい発見が沢山ありました」という感想でした。一方、それに対して、男子学生は皆一様に「こんなことは既に保健の授業で知っているようなことばかりだ」という答え。同じものを見ても正反対といってもよいくらいの違いが出てきたのです。
これは一体どういうことなのでしょうか。同じ大学の同じ学部ですから、少なくとも偏差値的な知的レベルに男女差は無い。だとしたら、どこからこの違いが生じるのか。
その答えは、与えられた情報に対する姿勢の問題だ、ということです。
要するに、男というものは、「出産」ということについて実感を持ちたくない。だから同じビデオを見ても、女子のような発見が出来なかった、むしろ積極的に発見をしようとしなかったということです。
つまり、自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまっている。ここに壁が存在しています。これも一種の「バカの壁」です。
「バカ」は、知りたくないことに耳を貸さない、だから話が通じない
これに極めて近い話が、心理学で言う「確証バイアス」だ。ダニエル・カーネマンは『ファスト&スロー』で、こう述べている。
サムが親切だと思っている人は、「サムって親切?」と訊かれればサムに親切にしてもらった例をあれこれと思い出すが、「サムっていじわるだよね?」と訊かれたときはあまり思い浮かばない。
自分の信念を肯定する証拠を意図的に探すことを確証方略と呼び、システム2はじつはこのやり方で仮説を検証する。「仮説は反証により検証せよ」と科学哲学者が教えているにもかかわらず、多くの人は、自分の信念と一致しそうなデータばかり探す──いや、科学者だってひんぱんにそうしている。
人に「自分の信念を肯定する証拠を意図的に探す」傾向があるということは、裏を返せば、人は「信念を否定される」「反証を出される」と、情報を意識的、無意識的によらず、シャットアウトするということでもある。
この「情報シャットアウト」の正体こそが、「バカ」の本質だ。
バカは思い込む。 バカは正しさを検証しない。 バカは固執し、ほかの可能性を探らない。 バカは結論に飛びつく。 バカは偏見を持つ。
……ということは、もう1つ重要な事実が明らかになる。それは、人は誰でもバカになりうる、という事実だ。
個人のバイアスの強い領域では、ふだんよほど知的に振る舞う人物ですら、バカになってしまうことがよくある。
たとえば、次のような状況である。
「ふだんはいい人なのに、サッカーの勝敗の話になるとなんであの人、あんなムキになるのかしら……」
「あんな仕事のできる社長が、悪い報告をすると怒るんだよ。『おまえらの気合が足りないから』って……」
「あの学者、政治活動をするようになってから、劣化したよね……。客観的に判断できなくなっている」
また、「いかにもバカっぽいこと」だけではなく、次のような発言も(政治的には正しくとも)、すべて「バカ」な発言である。
「戦争はいついかなるときも避けるべきである。これに例外はないし、議論の余地もない」
「人権は、いつ、いかなるときも、何よりも尊重されるべきである。人権を尊重しないのは悪であり、許されることではない」
発言者はそれを信じ込んでいるかもしれないが、そうでない人もいる。
したがって、「バカな人」がいるのではない。人は誰でも時として「バカな状態」に陥るのである。
つまり、「バカ」とは特定の脳の働きが起きている「状態」のことを示す。
バカの正体を知ってしまえば、自分の思考を日頃から客観的に見つめる訓練を積み、「バカの状態」をできるだけ回避することもできる。
とは言え、人間の認識には限界があり、どこまでいっても主観からは逃れられない。
どこまでいっても、正しさについての100%の証明は不可能で、客観性を標榜することそのものが、疑わしい行為である。
だから、「バカ」は世の中からなくならない。原理的になくすことができない。
我々にできるのは「バカ」を受け入れることである。
もっと言えば、「真実の追求」ではなく、「バカがいる現実の受け入れ」が、世渡りで最も重要なことの1つでもある。
たとえば、「バカとハサミは使いよう」という言葉がある。
前述したように、バカには迷いがない。
バカの極みは狂信者であるが、狂信者のエネルギーは、凄すさまじいものがあり、時に自分の命すら顧みないのである。
また、起業するときはバカになるほうがいい、というアドバイスをする人もいる。
バカな状態は、エネルギーの源泉であり、情熱の発露だというのだ。
すなわち、バカとうまく付き合う、ということは「思い込み」をポジティブに利用できるかどうかにかかっている。
バカは正義を生み出す一方で、偏見を生み出す、諸刃の剣である。
このことを忘れないかぎりは、「バカ」もまた、社会に必要な要素なのだ。
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