大ブレーク「食べる豆乳」~創業100年、攻める老舗企業
東京・港区。その日、表参道に黄緑色のビルが出現した。その外装は豆乳の定番商品、パック豆乳にそっくり。ビルの前には大行列ができていた。行われていたのは無料で豆乳を配る販促イベント。豆乳をパックのまま凍らせる新しい食べ方、「豆乳アイス」の提案だ。バニラアイス、マカダミアナッツ、チョコミント……。冷凍庫で凍らせるだけで豆乳をアイス仕様で楽しめる。
爆発的に増やした豆乳のラインナップは今や30種類以上。新たな豆乳ファンを生み出した。斬新な手法で豆乳をブレークさせたのがキッコーマンだ。
この豆乳は元々、食品メーカー「紀文」のグループが手がけていた。それを2006年にキッコーマンが傘下に収め、徹底的にテコ入れすることで、年商300億円を超える事業に成長させた。
キッコーマンの知られざる商品は豆乳だけではない。デルモンテも日本ではキッコーマンが手がけるブランドだ。そのトマトジュースもやはり斬新さで売れている。「リコピンリッチ」にはトマトに含まれる栄養素リコピンが通常の1.5倍も入っている。「リコピンリッチ」をふんだんに使った手軽にできる栄養たっぷりの料理も人気となっている。
東京・港区のキッコーマン東京本社。開発チームは研究開発の末、業界に先駆けて、リコピンの増量に成功した。
「900グラムのボトルにトマト28個分を使っています。逆さにしても出てこないぐらい濃厚で、飲み物として成立させるのが難しかった。ある意味で革命的な、開発に苦労した商品です」(プロダクト・マネジャー・松野裕介)
そして「リコピンリッチ」を広めるために力を入れてきたのが、さまざまなトマトジュースレシピの提案。「リコ活」なんて言葉も考えた。売り上げは前年の1.4倍に急上昇した。
キッコーマンは創業100年とは思えない大胆な商品で攻め続けている。国内の醤油の需要が激減する中、キッコーマンの年商はついに4500億円を突破した。
醤油でも大胆に攻めている。売れている「しぼりたて生しょうゆ」。醤油が酸化するのを防ぐ密封式ボトルを開発。加熱処理をしない新鮮な醤油も味わえるようにした。
「いつでも新鮮」シリーズとして展開し、用途によって使い分ける醤油の新たな楽しみを定着させた。トビウオを使った「あごだししょうゆ」、ミッキーマウスが描かれた限定品はリッチな味わいの「減塩しょうゆ」……。「いつでも新鮮」シリーズは醤油を変え、100億円商品に育った。
さらに斬新な醤油の開発も進められている。千葉県野田市のキッコーマン本社。醤油開発のエキスパートが集まるしょうゆ開発部では、用途に合わせた味わいを作り込んでいた。
長年培った発酵技術を武器に、ライバルに負けない醤油を次々に作りだしていく。例えばカキのだし醤油「牡蠣しょうゆ」。「カキは風味が強い出汁。濃厚な醤油を合わせないとカキの風味に負けてしまうので、濃い醤油を選ぶ」という。
茶色の粉は、独自の低温乾燥技術によって粉末状にした「パウダーしょうゆ」だ。これなら、弁当のおかずなど醤油を使いにくかったものにも使うことができる。新たな需要を掘り起こす商品だ。
「幅広いシーンに使っていただき、塩を使うように醤油も使ってもらいたい」(加工食品開発部長・早瀬弥恵子)
ヒット連発のキッコーマン~醤油をアメリカに広めた男
キッコーマンを巨大企業に育て上げた名誉会長・茂木友三郎(84)は、「『こんなものが欲しい』と思った商品ができたら、人々は飛び付く。欲求を有効需要に変えることで需要が創造され、付加価値が生まれる」と言う。その勝ちパターンは、まだ誰も知らない「新たな需要」を生み出す商品作りにある。
茂木がまだ30歳になったばかりの頃、醤油需要の先行きに危機感を抱き、攻め込んだのはアメリカ市場だった。まだ醤油の味を知らないアメリカ人に、和食ではなく、肉料理に合う調味料として醤油を売り込んだ。
「2年近く毎月アメリカと日本を往復しました。ありとあらゆることが大変でした」(茂木)
そして1973年、アメリカに海外初の醤油工場を建設。辛抱強い格闘の末、醤油をアメリカでも当たり前に使われる調味料として定着させた。これがキッコーマンの海外事業の躍進のきっかけとなり、今や年商2700億円を稼ぎ出すまでになった。
茂木はもう一つ、キッコーマンの巨大事業を作り上げている。それが1995年に参入を決断した「たれ・つゆ」事業だ。
しかし、その決断に社内は大反対だったという。堀切功章社長は「それまでのキッコーマンはつゆ・たれメーカーさんに醤油を原料として供給する立場でした。それまで取引していたメーカーさんと競合するわけですから、営業担当部署からは批判的な声をありました」と、当時を振り返る。
醤油の取引先を怒らせてまで参入したたれ・つゆ事業。今、開発現場で取り組んでいるのは、具を極端に混ぜ込んだ「超おろしのたれ」。「野菜と果実が半分以上、具材がふんだんに入っています」(つゆ・肉用調味料グループ・戸上純一)と言う。流れ落ちないほど濃厚にし、食べやすさにこだわった。従来のおろしだれと比べると、その差は歴然だ。
「新しい食べ方、新しい形状。常に新しい視点で需要を創造していかなければならないという考え方で、商品開発をしています」(戸上)
キッコーマンの街・野田~醤油蔵から世界へ
江戸川の対岸にあるキッコーマンの本拠地・野田市。大にぎわいの地元の店「鳥善」の客のお目当ては、この店が30年前から出す名物「極辛大根煮」(400円)。醤油と唐辛子などで20日間も煮込むという。その醤油はもちろんキッコーマンだ。
野田はまさにキッコーマンの街だ。長年、市民に親しまれてきた「キッコーマン総合病院」。看護師や医者はみんなキッコーマンの社員だという。
一方、巨大な門構えのキッコーマン創業家・茂木家の邸宅は1956年、市に寄贈されて「野田市市民会館」に。館内にいくつもある部屋は、市民が自由に使えるように解放されている。
アスレチックで有名な「清水公園」も、創業家一族が市民のために作ったものだ。
キッコーマンが野田で産声をあげ、すでに100年が過ぎた。江戸時代から野田近隣で醤油を作っていた醸造蔵。6つの茂木家と髙梨家、さらに流山の堀切家。この8つの家が、生き残りをかけ決断をしたのが一つの会社になること。1917年に野田醤油を設立。そこで選ばれた最もおいしい銘柄の醤油がキッコーマンだった。
今、北欧フィンランドを訪ねると、スーパーの売り場にはずらりとキッコーマンの商品が並んでいる。そこにはポン酢まで。家庭で作る北欧料理には、当たり前のように醤油で味付けが行われていた。
「キッコーマンの醤油は欠かせません。お肉の味を味わい深くしてくれるんです」と、愛用者は言う。和食で醤油を普及させるのではなく、現地の食文化に浸透させていく。これが茂木のアメリカ攻略以来の戦い方だ。
ヨーロッパの醤油市場を開拓するために走り回るキッコーマン・トレーディング・ヨーロッパの澤野順一。やって来たのは、オーストリアの首都ウィーンだ。すでに攻略済みだというが、この日は影響力のある料理雑誌の記者などを集め、あるイベントを開こうとしていた。準備していたのは銘柄を伏せた3種類の醤油。その一つがキッコーマンだという。
「オーストリアは醤油が知れ渡っていますが、新しい醤油が入ってくると、それはキッコーマンより安い。中国、タイ、ベトナム。値段は半額ですから、品質がどれだけ違うかしっかり分かってもらわないと、消費者は流れてしまうんです」(澤野)
これは、醤油市場を切り開いた後に参入してくる低価格のアジアの醤油への対抗策。キッコーマンの香りやうまみが圧倒的に違うことを発信し続けなければ、勝ち残ることはできない。
参加者からは「びっくりしました。キッコーマンのものが唯一香りを感じました」「ひとつだけ素晴らしい香りがしました」といった声が聞かれた。
異国の食コラボ~有楽町の異色レストラン
食文化の壁を壊し、融合させる。そんなテーマを、キッコーマンはレストランに発展させていた。
東京・有楽町に去年オープンした「キッコーマン ライブキッチン東京」。客の前で腕を振るうのは、京都の料亭「木乃婦」三代目・髙橋拓児さんに、白金の人気フレンチ店「レストラン アルシミスト」の山本健一シェフ。ここは、月替わりで違うジャンルの料理人がコラボした異なる食文化の融合を楽しむ店だ。
例えばこの日は、京都の伝統野菜・賀茂茄子に、福島牛をダイナミックに乗せた京料理とフレンチの共演。髙橋さんは「普通は賀茂茄子の『しぎ焼き』と言って、だいたいエビとウニを乗せます。あまりこんなことはしない。したことがないです」と言う。
客の反応も「初めて食べました」「来たかいがありました」と上々だ。
茂木友三郎の経営指南1~赤字こんにゃくメーカー
大阪・堺市の90年続くこんにゃくメーカー「中尾食品工業」。会社を切り盛りする4代目の中尾友彦社長(31)は、最近のこんにゃく離れに大きな危機感を抱いていた。
「今まで通りこんにゃくを売っていくだけだとジリ貧になる。何か新しい活路を見いださないといけないのは確かです」(中尾さん)
有機栽培で育てたこんにゃく芋を原料に使い、受け継いだこだわりの製法を守っているのだが、売り上げはピークの半分以下に激減。赤字に陥ってしまった。
中尾さんは様々な手を打ってきたが、どれも結果を出せなかったという。
例えば、こんにゃくを丸ごとミキサーに入れ、盛りだくさんの野菜やフルーツと混ぜ合わせて作る、ダイエットに最適なこんにゃくスムージー。ヒットを確信した中尾さんは去年、新宿駅前におしゃれな店をオープン。若い女性をターゲットにしてみたが、「あまり売れなかった」(中尾さん)と、わずか2カ月で閉店という最悪の事態に。中尾さんの元からは多くの職人が去っていった。
今度こそはと取り組んでいる大逆転の秘策は、こんにゃくを特注のマシンでタピオカ風に。ブームに乗ってヒットさせたいという。
そんな中尾さんに対して、茂木は次のように語る。
「アイデア先行というか詰めが足りないというか、アイデアだけで作ってしまって『売れませんでした、閉店しました』という話では、何回やってもうまくいかない。まずは試作をして、テスト販売をする。それで消費者の反応を見ながら修正していく。ある程度の反応があるところまで作り込み、『いけそうだ』という商品を作ったうえで本格的な販売をしたほうがいい。夢だけ大きくて、ステップを飛ばしている感じがします。若くて意気込みがあるところは買いたいと思いますが」
茂木友三郎の経営指南2~海外で苦戦、かつお節メーカー
鹿児島・枕崎市の「大石商店」は、伝統的な製法にこだわったかつお節づくりをしてきた。しかし今、大石克彦社長(61)には大きな悩みがある。
「120社あったのが今は47社。かなり厳しい状況が続いています」(大石さん)
かつお節の生産量日本一を誇る枕崎だが、需要が減る中、生産者の廃業が後を絶たないという。そこで2014年、地元企業10社で「枕崎フランス鰹節」という会社を設立。挑んだのがヨーロッパ市場の開拓だ。
EUの厳しい基準によって、日本のかつお節はそのまま輸出できないため、思い切って2016年、フランスに工場を建設した。現地で雇ったフランス人にかつお節作りを叩き込み、ようやく販売へとこぎつけた。ところが、壁にぶち当たる。
「最低でも5000万円の売上げを見込んでいたが、そこまでいってない状況です。まだマイナスが出ている。いいものを作れば売れる自信があったのですが、どうしても価格差が出る」(大石さん)
実はフランスには、韓国産などの安いかつお節がすでに出回っている。価格競争で苦戦を強いられているのだ。そこで現在は、かつお節を使ったフランス料理のレシピを提案しようと奔走中だという。
そんな大石さんへの茂木のアドバイスはこうだ。
「アドバイスがあるとすれば、料理学校を見つけて、そこの先生に相談してみればいいのではないでしょうか。『かつお節をフランス料理に使えないか』と。うまく的に当てるためには、専門家の意見を聞くことだと思います」
~村上龍の編集後記~
身近な商品が多く、親しみやすいイメージがあるので、気付きにくいが、キッコーマン、茂木さんは数少ない「レジェンド」だと思う。「潜在需要を有効需要に」というドラッカーの考えを、ぶれることなく、しかも淡々と実践してきた。
将来的に醤油の国内需要は伸びないという危機感がベースにあり、多角化と海外進出に狙いを定め、一つずつ、少しずつ、実現した。その過程で得た知見を、反発をものともせず、国内部門の改革に生かした。
だが笑顔は温厚で、人を安心させる。実は、それこそが正真正銘の「レジェンド」の証である。
<出演者略歴>
茂木友三郎(もぎ・ゆうざぶろう)1935年、千葉県生まれ。1958年、慶應義塾大学法学部卒業後、野田醤油入社。1995年、キッコーマン代表取締役社長就任。2004年、会長就任。2011年、名誉会長就任。
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