いまや年商30兆円。アマゾンの巨大倉庫&本社に潜入
新型コロナの蔓延で存在感を増すアマゾン。いまやその年商は30兆円となった。
2012年6月7日の放送で取材した千葉・市川市にあるアマゾンの巨大倉庫。現在、アマゾンが取り扱う商品は、日本だけでも数億種類を超える規模。本やDVDに始まり、あらゆる家電製品から生活用品まで。さらに最近では生鮮品を届けてくれる「アマゾンフレッシュ」まで始めた(一部地域)。怒涛の拡大を続け、全世界での売り上げはついに30兆円を超えた。
創業者のジェフ・ベゾスは、スティーブ・ジョブス亡き後、アメリカで最も注目されている経営者だ。倉庫の中で行われた収録で、ベゾスはアマゾンのポリシーである顧客主義について、次のように説明している。
「アマゾンをシンプルに言い表すなら、『地球上で最もお客様を中心に考える会社』です。私たちはお客様の声に耳を傾けます。しかし、聞くだけでは足りない。心がけるのは『何かを生み出す』ことです。お客様が何を求めているかを予測し、お客様がそれに気づく前に生み出すのです」
そんなアマゾンの顧客主義がさまざまな画期的サービスを生み出してきた。カスタマーレビューもその一つ。商品を買ったお客がその評価を書き込むことで、他の客が参考にできる機能だ。さらに、アマゾンが開発し常識となったレコメンデーション機能。ユーザーの購入履歴を分析し、おすすめ商品を示してくれる。商品の注文と決済がワンクリックで終了する仕組みも、アマゾンが最初だ。
そんなアマゾンの本拠地はアメリカ西海岸のシアトル。全部で11棟ものアマゾンビルが集まる一画はまるでアマゾン・タウンだ(2012年)。社内を訪ねると犬を連れた人が、あちこちに。愛犬と一緒に働くのもOKという自由な会社だ。
エレベーターに乗ると、壁がホワイト・ボードになっている。使い方は自由という。ちゃんとペンも揃っている。「質問を書いておけば、誰かが解決法を書いておいてくれたりする。社員同士のコミュニケーションにも一役買っている」と言う。
社内のデスクはどう見ても手作り。これは「アマゾンでは創業時代から全社員が中古のドアで作ったデスクを使ってきました。そうやって浮かせたお金はお客さまの為に使う。それが会社のポリシーなのよ」
社内では徹底的に倹約して、利益は客を喜ばせるサービスに使う。だから会社中、ドアを再利用した机なのだ。玄関のシャンデリアのような照明も、よく見ると工事用の電球。自由な発想と倹約がアマゾンのポリシーだ。
ジェフ・ベゾスが語る~「赤字でも自信があった」
世界中にインターネットが急拡大し、人々を熱狂させた1990年代半ば。当時30歳のベゾスは、これを2度とないビジネスチャンスと見てとり立ち上がる。副社長にまでなっていた投資会社を辞め、シアトル郊外の小さな家のガレージでアマゾンを創業した。
インターネットでの書籍販売。そんな新しいビジネスモデルでベゾスは注目を集める。
「インターネット通販は時間を節約できるのが一番のメリットです。車の運転も駐車もしなくていい。買い物の面倒が一切なくなるのです」と、この時期のベゾスは語っている。
しかし、創業以来アマゾンは莫大な先行投資の負担から赤字が続く。毎年のように「潰れる」と陰口を叩かれ続けた。当時からベゾスと行動を共にしてきた側近の幹部、ディエゴ・ピアチェンティーニはこう振り返る。
「何も心配はしていなかったよ。今、利益が出ていないのは将来のために投資しているからだと分かっていたからね。ベゾスはとても珍しい能力を持った人間だ。未来を見通す力を持っている。10年、20年先を見ているんだ」
1997年、ベゾスは投資の資金を集めるため業績が赤字のまま上場すると、「あと数年は赤字です。長期的な視野で設備投資をするので、黒字にはなりません」と言い放った。
そしてそれを実践する。本の他にも取り扱う商品を増やし、物流拠点を次々と建設。ITシステムと物流、この両輪に巨額の投資を続け拡大路線を突っ走る。
2000年の日本への上陸時も、実はまだ赤字。会社全体で黒字となったのは、創業後9年も経った2003年のことだった。
このあたりの事情を、ベゾスは収録で次のように語っている。
「『アマゾンはダメだ』と言っていた記者が、取材の直後、『実は私もアマゾンの常連だ』と言ったりしていました(笑)。データを見ると、お客様は増えているし、満足度をチェックしても問題ない。リピーターも多かった。だから、赤字の期間でも自信を持っていました。インターネットバブルで多くの会社が消えましたが、彼らはお客さま中心の会社を作ろうとせず、ウォール街を向いていたんです。赤字と言っても、効率が悪いからか、未来に投資しているからかで全く違う。外から見ている投資家には、どちらの状態か見分けるのは困難です。しかし、内側から見れば、明らかに未来への投資から出ている赤字であり、決して無駄遣いをしていたわけではないんです」
ダイソン掃除機、執念の開発物語
家電量販店の売り場にずらりと並ぶ掃除機。以前はそのほとんどが紙パック式だったが、いまや売り場の6割以上がサイクロン式で埋め尽くされていた。そんな中、圧倒的強さを誇るのが元祖サイクロンのダイソンだ。8万円するものも珍しくないが、独自の商品で成長を続け、年商は5000億円を超えた。
昔の紙パック式は、ゴミを吸い込めば吸い込むほど紙パックの内側がホコリで目詰まりし、吸引力が落ちてしまっていた。一方、サイクロン式は、掃除機に入ってきたゴミを空気の回転で下にはじき出し、分離してしまうため、吸引力の低下が起きにくいというのだ。
ダイソンの圧倒的な強さを生み出す場所がマレーシアにある研究開発センター。建物内の、囲いの中で何百台もの掃除機が動き続けていた。商品の寿命を調べているのだ。
「7462回これを繰り返すと、10年使った時と同じ状態になります。我々は全ての商品の寿命を10年に設定しています。10年の間に商品がどんな経験をするのか、このテストで再現しているのです」(研究開発センターのトレバー・ブリンクマン)
あらゆる可動部分にさまざまな負荷をかけ、10年間壊れない圧倒的な丈夫さを作り上げる。コンクリートの床への衝撃テストは1万回も行われる。
今や世界82カ国に商品を販売するダイソンの本社はイギリスの田舎町マルムズベリーにある(2014年)。創業は1993年。全世界の従業員は1万2000人を超えている。
サイクロン掃除機を発明したジェームズ・ダイソンの肩書きは社長ではなく、チーフエンジニア。創業以来、現場の商品作りを自ら技術者としてリードし続けてきた。
ダイソンは1947年、イギリス生まれ。世界的にも有名な王立美術大学でデザインを学び、さまざまな商品作りに関わってきた。社員たちにダイソンの印象を聞くと、誰もが口を揃えるのは「辛抱強さ」。華やかに登場したかに見えたサイクロン式だが、そこには執念の開発物語があった。
それは1978年の些細な出来事が始まりだった。その日、家で掃除をしていたダイソンは、吸い込みの悪い掃除機にいら立っていた。だが、家には替えの紙パックはなかった。
そこでダイソンは、応急処置として、ゴミでいっぱいになった紙パックを切り開き、中のゴミを取り出すことを思いつく。また穴をテープで塞げば、吸い込むようになるだろうと考えたのだ。ところがまったく吸い込まない。一度ゴミを吸うと目詰まりしてしまうのが当時の紙パックの欠点だった。
「かなり怒りを覚えました。掃除機の仕組み自体に問題があったわけですから。製品を作ったメーカーに腹が立ち本当に不快でした」(ダイソン)
倉庫の片隅で、たった1人の掃除機作りが始まった。ダイソンがその日から作った試作品の数が壁に書かれていた。
「彼が1436個目の試作品を作った頃、奥さんは絵画教室をやり始めて家計を支えたそうです。3146個目の頃、エジソンの『失敗者とはどれだけ成功に近づいたか気づかず諦めた人だ』という言葉で頑張れたそうです」(本社スタッフのジョー・ミッチェル)
結局、完成したのは5年後、5127個目の試作品だった。しかし、若きダイソンには問題が。掃除機を製品として量産して売るだけの資金がなかったのだ。
ダイソンはサイクロン技術を買ってくれるところはないか、ヨーロッパ、アメリカと飛び回り、20社近いメーカーに売り込んだ。しかし、その全てが失敗。逆に、契約をめぐって訴訟にまで巻き込まれるありさまだった。
それでも諦めなかったダイソン。自分で会社を作り、ようやく掃除機を発売したのは、最初の試作品から実に15年後。46歳の時だった。
ジェームズ・ダイソンが語る~「ホンダやソニーがヒーローだった」
ダイソンの圧倒的な魅力は、その個性的なデザインにもある。実はそこにはダイソン独自の思想がある。
イギリスの本社の中には至るところに、ダイソンが理想的だと考えるデザインの商品が掲げられている。歴史的名車と言われる「モールトン自転車」、古いベビーカー「マクラーレンバギー」……中でも特に重要だというデザインが、ダイソンの仕事部屋の机に置かれていた。
「ソニーの防水仕様のウォークマンです。私はこの商品に感動しました。これを持っていろいろと旅しました。特にビーチで使うには最適です。周りにゴムが付いていますから。盛田(昭夫)さんの素晴らしい発明です。音楽との付き合いが一変しました」(ダイソン)
これらの製品には共通点があるという。「全てそれまでの常識を覆した画期的な機能を持っています」と言うのだ。ダイソンの考える「優れたデザイン」とは、見た目の美しさのことではない。素晴らしい機能を持つ製品こそが、真の意味での優れたデザインなのだ。 「一番大切なことは、機能が素晴らしいかどうかです。理由は単純です。見た目が良くても機能が悪ければすぐに嫌いになってしまいます。見た目が悪くても機能が良ければ愛用するでしょう」(ダイソン)
ダイソンは、存在感あるユニークな形の製品を生み出しながら、社内には1人のデザイナーもいないという。全ては新たな価値を生み出す優れた技術者、「デザインエンジニア」というプロたちが商品作りを担っている。
ジェームズ・ダイソンは盛田昭夫や本田宗一郎に特別な思いを抱いてきた。
「若い頃、ホンダやソニーは私にとってヒーロー。盛田昭夫さんは革命的な製品を世に送り出しました。会ったことはありませんが私にとっては師匠同然です」(ダイソン)
それだけではなく、驚くべき縁がダイソンと日本の間にはあった
ロンドン科学博物館にある生活を変えたさまざまな製品の進化をたどるコーナー。その中に掃除道具の歴史ついての展示がある。
ハタキから始まるその物語の最後に登場するのが、ジェームズ・ダイソンが作った世界最初のサイクロン方式だ。そこには「日本のライセンス下で製造されました」とある。実は世界初のサイクロン掃除機の誕生に、日本の企業「エイペックス」が一役買っていた。
2014年5月5日の放送時、スタジオでダイソンが当時をこう振り返っている。
「私がびっくりしたのは、1985年、日本の会社に試作品を持っていった時、彼らは新しい技術に興味を持ち、興奮してくれました。そんな反応は初めてでした。細部に気を配り、新しい技術に熱意を燃やす日本人に、とても励まされました」
新型コロナにも攻めまくるダイソン&アマゾン
世界中が新型コロナに苦しむ中、ダイソンが急ピッチで進めていたのが人工呼吸器の開発だ。持てる技術で人々の悩みを解決する。創業以来の精神でこの難局に挑んでいた。
そしてアマゾンのベゾスは、需要が急増する現場を激励に回っていた。行政とも連携し、学生や病院向けに通信端末を寄贈するなど、積極的に動いている。
最後に、30歳で会社を辞めアマゾンを立ち上げたベゾスに、「その決断に迷いがなかったのか」と聞いた時の答えを紹介する。
「もし挑戦して失敗しても、私は決して後悔しない。でも、もし挑戦していなかったら、『80歳になっても後悔しているだろう』と思ったのです。80歳のあなたを想像してみてください。その時、後悔は最小限にしたいでしょう? ほとんどの後悔は自分が怠慢でやらなかったこと。後悔するのは『やらないこと』です」
~村上龍の編集後記~
ジェフ・ベゾスが倉庫を歩いてきたとき、アマゾンの時価総額はまだ1000億ドルだった。今や1兆ドル近い。それだけの努力をしてきた。徹底して物流とITを結びつけたところにすごさを感じる。新型コロナウイルスによって売り上げはさらに伸びるだろう。だが、本人が言うとおり、売り上げには興味がない。どうやって顧客を満足させるか、その1点だけだ。
ダイソンも、ニコニコと気さくだったが、アングロサクソンの執念を感じた。決してあきらめないし、製品に妥協はない。二人の共通点はそこにある。妥協はゼロなのだ。
ジェフ・ベゾス
1964年アメリカ生まれ。86年にプリンストン大学卒業。ウォルストリートの金融機関などを経て、94年にアマゾンの前身となるカダブラを設立。95年7月よりインターネットで書籍販売を開始。97年にナスダック上場。
ジェームズ・ダイソン
1947年イギリス生まれ。美術専門学校を経て英王立芸術大学院卒業。70年代に紙パック不要のサイクロン掃除機を発明。87年日本で初のサイクロン搭載掃除機「Gフォース」を発売。93年英国でダイソン社設立。09年エアマルチプライアー発売。
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