小さな店に客が熱狂~絶品を生む驚きの製法
東京・代々木公園に近い渋谷区・富ヶ谷の商店街のパン屋「365日」。ショーケースには60種類のパンがきれいに並んでいる。お客が欲しいパンを注文すると、スタッフがそれをピックアップ。セルフサービスが主流のベーカリーでは珍しいやり方だ。
一番人気は「クロッカンショコラ」(380円+税)。ココアを練り込んだ生地にプチプチとした食感の粒チョコがぎっしり。さらに中にもなめらかなチョコレートクリームが入っており、イートインスペースでは「今まで食べたことない味がします」。
特に常連さんが口をそろえて言うのは小麦の味について。小麦の味と香りを最大限に引き出している。使う小麦はすべて国産にこだわり、味や香りの異なる17種類を、作るパンの特徴に合わせてブレンドしている。小麦の味がよく分かる「365日×食ぱん」(1本290円+税)は、手のひらに載るほど小さい。
使っている小麦は、甘みの強い北海道産「ゆめちから」と香り高い福岡県産「みなみの穂(かおり)」。それぞれの「いいとこどり」を狙ってブレンドした。
さらにおいしさを生み出す理由が独自の作り方にある。まず小麦粉にイースト菌やバター、水を加えてミキサーでこねるのだが、こねている途中でミキサーに氷を入れる。
「氷をゆっくり溶かすと、しっとりとして歯切れがいいパンになります」(スタッフ)
氷を入れてこねることで、モチモチなのに歯切れのいい独特の食感になるという。
続いてこねた生地を型に入れて発酵させる。食パンの発酵には通常約4時間ほどかけるが、ここはその半分の約2時間。発酵時間を短くすることで、小麦に含まれる糖の減少を抑え、小麦本来の甘みを残している。だからこの小さな食パンには小麦の風味がギュッと詰まっている。
他のパンの作り方も普通とは違う。例えば「カレーぱん」(320円+税)は、冷凍した自家製のカレーを生地で包んでパン粉を付けると、オリーブオイルをかける。
「揚げなくてもサクサクに仕上がるので、オリーブオイルをかけて焼きます」(スタッフ)
見た目は揚げたのと変わらない。だが本当の狙いは冷めてから。生地に油が回っていないので、カリカリのままだという。
こだわりは惣菜パンに使う具材にも。野菜や果物は国内の契約農家から直接仕入れ、すべてスタッフが一から仕込んでいる。ハムやベーコンまで手作り。「香り豚」という、希少なブランド豚をわざわざ取り寄せ、塩で漬け込んで3日間寝かせる。最後にオーブンでじっくり熱を加えれば、香り高い自家製ベーコンの出来上がり。
こだわりはあんぱんに使うあんこにも。使うのは最高級と言われる北海道・十勝産の小豆。炊く前の小豆をテーブルに広げて、スタッフがかき分けながら手に取っている。割れたり皮が破れてしまったものを取り除いているのだ。
「汚れているものは、雑味になってしまったり、うま味とは別の部分が入ってしまうことになるので、一番いい状態で出すためにもはじくようにしています」(スタッフ)
焼き上がった「十勝小豆×あんぱん」(200円+税)を割ってみると、あんこはちょっと少な目。パンとのバランスを計算し尽くしているのだ。
パン作りは変革の連続~髙島屋も惚れ込んだこだわり
開店以来、食の専門誌や情報誌が注目。「日本のパンをアップデートさせる」など、こぞって絶賛している。中でもオープン当初から目を付けていたのがマガジンハウスの渡辺泰介さん。女性向けの雑誌でパンを特集。巻頭に当時まだ無名だった「365日」を選んだ。
「誰もやったことがないパン屋さんじゃないかと思いましたし、ある種、新しいカテゴリーを作っているパン屋さんなのかなっていう印象を受けて、ぜひ巻頭でやらせてくださいとお願いをしたのを覚えています」(渡辺さん)
そこに打ったキャッチコピーは「今の要素が詰まった、パン屋の最新形です」。こうしたメディアの情報を元に、今や全国からパン好きがやって来る。
そんな「365日」を運営するウルトラキッチン社長・杉窪章匡(48)のパン作りは変革の連続だという。
「「これが常識」と言われていることをうのみにしないで作る。素材の良さを一番うまく出すにはどうしたらいいかっていう考え方で作る」(杉窪)
さらに杉窪は真顔でこんなことも話し始めた。
「最終的に目指すのは世界平和で、僕がすべてを世界平和にするわけじゃなくて、僕が仕事でできる範囲で世界平和を目指すということが僕の最後のミッションですね」
そんな野望を抱く男に惚れ込んだのが百貨店の髙島屋。2018年オープンの「日本橋髙島屋SC新館」の目玉として、正面入口の一番いい場所に「365日」を招いた。当時、テナントの誘致を任されたのが髙島屋のグループ会社「東神開発」の清瀨和美さんが「365日」のパンに惚れ込んで杉窪と直談判、3年がかりで口説き落とした。
→当時、テナントの誘致を任されたのが髙島屋のグループ会社「東神開発」の清瀨和美さん。「365日」のパンに惚れ込んで杉窪と直談判、3年がかりで口説き落とした。
「周囲から『ブランドの店を入れたら』など、いろいろ言われたんですけど、一番確かなことは、自分が一番好きな店に出店してもらうことだなと思いました」(清瀨さん)
清瀨さんの読みは当たり。オープンと同時に客が殺到。大人気の店となった。
一方、この店のために杉窪は日本橋限定のパンを開発した。北海道の前田さんという農家の小麦を使った「前田さんのキタノカオリ」(200円+税)はほんのり甘みのある優しい味わいが特徴。また、「ディンケル小麦」という希少な古代小麦を使った「廣瀬さんのディンケル小麦」(240円+税)はナッツのような独特の風味が人気だ。
オープンした後も、清瀨さんは杉窪のパンへのこだわりに驚かされたという。
「オープン当初、昼2時頃には売り切れてしまって、お客様に叱られて大変でした。でも、やはりいいコンディションで作れないんであればそれ以上は作らないっていう潔さという点も他のベーカリーとひと味もふた味も違うと思いました。そこが魅力でした」
「365日」は現在都内に3店舗。さらには異なるコンセプトの店も次々に展開している。
売り上げは、昨年度、コロナの影響で創業以来、初めてダウン。だが順調に持ち直しており、杉窪は前を向いている。
「今は世界中で空前の寿司ブームじゃないですか。僕は日本のパンもそういう風に世界を席巻できると思っているんです」(杉窪)
原点は「常識を疑う」~絶品パン誕生秘話
「365日」のパンは、よそと比べるとちょっと変わった形のものが多い。奇をてらったのではなく、杉窪独自の哲学によって生み出されているからだ。例えば普通あんぱんのあんこは真ん中にあるが、「365日」では下の方にある。
「あんぱんは餡が下にあったほうが早く舌にあたる。餡までなかなか辿り着かない経験がありますよね。最初の一口目から餡に当たったほうがおいしいとなるんです」(杉窪)
クロワッサンの形は、定番の三日月形を半分に割ったようになっている。その理由は、一番サクサクしている真ん中の部分を最初に食べてほしいからだ。
「層になっているところがサクサクするので、できるだけ層の面積を増やすことを考えて作ったクロワッサンです。ちゃんと機能性を持たせるのがデザインだと思っているので、全て理由があって作っています」(杉窪)
1972年、石川県で輪島塗職人の家系に生まれた杉窪。その半生は常識を疑うことから始まった。
「小学校1年生で、学校の授業を聞かないという選択をしたので。ノート取らない、教科書開かないということをずっとやってきた。だから人から教わらなかったんです。そうすると自分で考えるようになるんですよ」(杉窪)
高校に入ったが、一年足らずで中退。自分に何ができるかを考えたすえ、調理師を目指し専門学校に入学した。卒業後、大阪市内のケーキ店で働き始めた杉窪は、そこで新たな目標を見つける。
「フランスのパティスリーみたいなものを作りたいと思っていました。お菓子もあってパンもあってお惣菜もある。だから全部できないといけないと思っていた」(杉窪)
「30歳までにパティスリーで独立する」という目標に必要な技術を身につけるため、5つの店を渡り歩き、27歳の時に念願のフランスへ。2つ星レストランやパティスリーで修業を重ねた。
2年後に帰国するが、独立する資金がない。そんな杉窪に大きなオファーが舞い込む。東京のあるベーカリーが新しいメニューの開発を依頼してきた。その店での経験が、杉窪のその後を大きく変えることになる。
パン業界では生地を作る際、その日の気温や湿度に合わせて、水分量を調節するのが常識とされていた。だが、杉窪はその常識を疑った。業界の根本的な常識を疑い、ひとり研究に没頭。ある結論にたどり着く。
「湿度に影響されているのではなくて、小麦粉の個体差なんです。小麦も農作物なので個体差があって、それぞれどれくらい水分を含んでいるかということですね」(杉窪) 同じ品種の小麦でも、作る地方や農家によって水分量は違うはず。毎回水分量を変えることでそれは確信に変わった。
常識から解放された杉窪は自由な発想でパンを考案していく。例えば円柱形のパンはクロワッサン。フランスの伝統的なパン、ブリオッシュもサイコロ型に。こうしたかつてないパンを次々と生み出し、評判を勝ち取っていったのだ。
目標から10年遅れの40歳で念願の自分の店「365日」をオープンした。
完全週休2日制を実現~働き方もホワイト化
自分の店を持ったことで、杉窪はもう一つの常識をぶち壊していく。それはパン屋の働き方そのものだ。「365日」は、その名の通り年中無休で営業しているが、社員は全員、完全週休2日制。これは飲食業界では珍しいという。
製造責任者の金森正剛は以前、別のベーカリーで働いていた。そこでは休みは週1日、1日16時間労働もザラだった。3年前「365日」に移って驚いたという。
「ホワイト化されていて、給料も高くて多数の人が働いている。当時の僕からしたらありえなかったんです。どうやったらそんなことが可能になるんだというのが疑問で、システム的なものを学びたいなと思ったので、「365日」を選びました」(金森)
入社2年目の小暮有沙が出勤して最初にチェックするのが工程表。これが杉窪の工夫だ。
小暮の場合、朝8時のあんぱんに始まって、その日の作業内容が1時間刻みで決められている。昼の休憩はちゃんと1時間とり、6時にはきっちり終了する。次に何をするかが分かるから、指示を待って手をとめる時間がなくなった。
「こうやって工程を振っていることによって、無駄がないようにできているので、すごくいいと思いました」(小倉)
さらに作業を短時間で確実にできるような工夫も。例えばあんぱん作りで、丸めた生地の上に乗せているのは、冷凍したあんこ。普通は薄く伸ばした生地に柔らかいあんこを乗せて包む。しかし、この技術をものにするには長年の経験が必要で、若いスタッフには難しい。だが、事前にあんこを凍らせておけば、それが芯になって生地を閉じやすい。これなら経験が浅くても失敗なく短時間で包めるのだ。
出汁、梅干し、納豆…知られざる逸品を発掘
代々木公園のそばの「365日」の目と鼻の先に「15°C」という店がある。杉窪が5年前に作った朝8時オープンのカフェだ。もちろん「365日」のパンでしゃれたモーニングも楽しめるのだが、厨房で作っていたのは焼き魚に納豆、味噌汁といった和食。「15°C」特製の和の朝食「さかな」(1200円+税)だ。魚は鹿児島・屋久島沖で捕れたトビウオ。卵はわざわざ大分からとこだわりの食材ばかりだ。
「パンの片棒を担ぐつもりはないっていう感じですかね。パンだけをひいきしたいわけじゃないんですね。僕は食全体が好きなので、食全体の応援をしたい」(杉窪) 実は「365日」もパンだけを売っているわけではない。ショーケースの後ろの棚に並ぶのは杉窪が全国を回り選びぬいたこだわりの食品だ。
京都で100年続く老舗の「だし屋のしろだし」(1200円+税)。カツオより繊細なマグロ節と羅臼昆布で引いた上品で深い味わいが特徴だ。和歌山産の梅干し「龍神梅」(650円+税)は、無農薬で育てた梅を天然の塩で漬け込んだすっぱさの中にも甘みのある一粒。そして杉窪のイチオシは宮城のメーカーが作る国産大豆の「納豆」(各186円+税)。味と香りがいい「秘伝豆」という青大豆を発酵させた食べごたえのある一品だ。
「大豆の味がはっきりしている。食べて一目惚れしました。ここに置いてある食材は、ちゃんと素材の味がするっていうのがひとつの選ぶ基準ですね」(杉窪)
こうした名品を探して杉窪はしばしば地方に足を運ぶ。この日訪ねたのは、神奈川県小田原市のみかん農家。相模湾に面した温暖な気候。なかでも片浦地区は江戸時代からみかんの産地として知られていた。その特徴は甘さにある。
「糖度は13度近くある」(「廣井園芸」の廣井弘義さん)
だが、今や作る人が減り、周辺の地域にしか流通していない。杉窪はこうした名産を掘り起こして広め、残そうとしているのだ。
「誰が作っているかというのはすごく重要ですし、どういうふうに作っているかも重要です。自分たちが知らないと紹介できないので、それは当たり前かなと思っています」(杉窪)
~村上龍の編集後記~
小学校から学校教育を放棄した人だが、毎食おかずを10品以上作る料理上手のお母さんに育てられた。高校にいちおう進学したが、ケンカが元で放校になる。16歳で調理師専門学校で学び、パティシエとして修業をつんだ後、24歳でシェフに。27歳で渡仏、2年後に帰国。その後40歳でやっと独立し、ウルトラキッチンを興す。2013年に「365日」を開業。悠々としたスタートだ。10年のブランクではなく、10年間、自身の哲学を鍛えていた。将来的に、日本のモチモチパンが世界を席巻すると予言する。当たりそうだ。
<出演者略歴>
杉窪章匡(すぎくぼ・あきまさ)1972年、石川県生まれ。1996年、ホテルアナガでシェフパティシェに就任。2000年、渡仏、2年間パティスリーで修業。2013年、「365日」オープン。2016年、「15°C」オープン。
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