本記事は、渡邉貴義氏の著書『自己流は武器だ。 私は、なぜ世界レベルの寿司屋になれたのか』(ポプラ社)の中から一部を抜粋・編集しています。
照寿司が北九州の戸畑という土地にあったこと
戸畑という土地
照寿司は福岡県の北東部、北九州市の戸畑区というところにあります。
戸畑は万葉集にも、「飛幡(とばた)の浦」というワードが出てくるような由緒ある土地です。今でこそ北九州市の一つの区になっていますが1963年に北九州市に合併される前は、戸畑市という市でした。
明治時代にはコークス工場、戦前からは八幡製鉄所(現・日本製鉄)の主力工場である戸畑製造所など、工業の町として栄えてきました。そして今でも、さまざまな工場があり、北九州市の工業地帯の一端を担っています。人口は戸畑区だけでみると約5万7000人の小さな区です。かつても今も、八幡製鉄所をはじめとする工業地帯で働いている人たちがメインで住んでいる町です。
また、福岡市と近いこともあり、近年は福岡へ通勤する人たちのベッドタウンの役割も果たしています。
昔から住んでいる人と、最近越してきた若いファミリーが共存しているような町、それが戸畑です。
とはいえ、僕が子どもの頃は、もうちょっと今より街に活気があった記憶があります。現在はベッドタウン化が進んでいるとはいえ、昔からの住人たちの高齢化が進んでおり、全体的にさびれている印象はぬぐえません。僕が小学生の頃は、寿司屋も戸畑に5〜6件はあった記憶があるのですが、今はチェーン店ではない地元の寿司屋は数えるほどしかありません。
僕は東京の街の特徴についてはちょっとピンとこないのですが、ホリエモンさん曰く、「月島みたいな町」だと。
ここ戸畑で照寿司が創業して、2021年で58年になります。創業者は僕の祖母です。そこから父が継いで僕で三代目になります。
戦後の高度経済成長期、日本の成長とともに栄えたこの町に、満州帰りの祖母が寿司屋を出したのです。
今はビルになっていますが、僕の子どもの頃は、店舗の奥に住居があり、店舗は2階建てで、1階はカウンター、2階には大きなお座敷がありました。
僕が2016年に店舗を改装してカウンターだけのお店にする前までは、本当に照寿司は、完全に戸畑の人、それから戸畑近郊の人のライフスタイルに寄り添う寿司屋だったんです。
結納を照寿司で行って、中には照寿司で結婚式をする人もいました。
子どもが生まれたら、お食い初めを照寿司で行い、七五三、入学祝、成人式と、人生の節目に関するイベントを全部照寿司でしてくれる家もたくさんありました。
で、またその子どもが結婚をして、途中にお葬式とか法事をはさみつつ、ライフイベントはすべて照寿司でというサイクルです。
ビルの2階には60名が入る広いお座敷があったので、店舗と出前だけやっているという、地元の小さい寿司屋とはちょっと違う営業スタイルだったと思います。
冠婚葬祭を全部、一店舗でやるような。本当にその土地に住んでいる人の人生に寄り添う寿司屋だったんです。
そうやって地元の人たちに支えられた照寿司があったからこそ、今こうして僕が「世界一有名な寿司屋」にすることができたわけで、地元のお客様たちへの感謝の気持ちでいっぱいです。
まだこの形になってから地元にはなかなか恩返しができていません。このことについては、後の章でも詳しくお話ししますが、今後は地元の方々と、より接点が持てるようなお店にしたいとも考えています。
戸畑というコンプレックス
一方で、自分の中では、戸畑という九州の片隅に照寿司があったからこそのコンプレックスはとても大きいんです。
それは、自分は「何者でもない」というコンプレックスです。
田舎の寿司屋の3代目として生まれただけの「何者でもない」自分。その自分が、この店をどうしたらいいんだ?ずっとそのことを考えていたように思います。
そして振り返ってみるとその「何者でもない」という自分の中のコンプレックスが、照寿司をここまでにする原動力だったのではないかと思います。
寿司といえば江戸前です。それは正論ですが、では東京の寿司屋以外は寿司屋ではないのか?本物ではないのか?自分が握っているものは何なんだ?自分自身は何なんだ?
若い頃の僕は、父親によく言ってたんです。「なんでうちは戸畑にあるんだよ!」「なんでカウンターにお客さんが来ないんだよ!」って。
しかしそれって単純なことで、自分が戸畑にお客様を呼べなかっただけのことなんですよね。
自分の実力不足でした。
自分の哲学があれば、場所なんか関係ない。自分が作り出した空間で、自分にしか握れないオリジナリティのある寿司を体験してもらえばいい。そう思えるようになって、このコンプレックスも吹き飛びました。逆説的ですが、そう思えるようになるためにはこのコンプレックスが必要だったのです。
煮えたぎる思い
第2章でお話ししていますが、それまでの自分の人生って、割とレールに乗ってきた人生だったんです。流されるままというか、特にそこから逃げ出すこともしなければ、疑問を感じることもなかった。
そしてこれもまたあまり疑問を感じずに、家業の寿司屋を継ごうとしたわけです。
そうしているうちに戸畑に店があることがきっかけで、何かが自分の中で煮えたぎってきたんです。
多分今までためていたものが一気に爆発したのです。戸畑のいち寿司屋の三代目でいいのか、単に祖母や両親が築いた家業の上に甘んじるだけでいいのか、って。
それからは試行錯誤の連続です。もちろん自分の店だったのでいろいろと工夫できる自由度が高い環境というのもありました。ただ、その自由度が高い分、自分は「まだまだ」っていう、そのギャップも大きくて。第3章以降でお話ししますが、いろいろやってはいるけど結果が出ない。
例えば、売れないのに、値の張る食材をたくさん仕入れてしまい、またそれが経営を圧迫して親子げんかになる、とか。
しばらくは苦しい時期が続きました。
でも2014年に世界的に有名な飲食店ガイド本に少しだけ紹介されて。そこからです、創意工夫と結果が結びついて全体がいい方向に動き出したのは。
載った時は本当に本当に嬉しくて、泣きました。その時は何者でもない自分が100%だったので、その反動が大きかったのだと思います。