本記事は、江口克彦氏の著書『こんな時代だからこそ学びたい 松下幸之助の神言葉50』(アスコム)の中から一部を抜粋・編集しています
叱り叱られのコツを知る
えっ? わしが叱るときか? 叱り方がうまい? そんなことないで。わしが部下を叱るときには、いろいろ考えて叱るということはないな。とにかく叱らんといかんから叱るわけで、あとのことを考えたり、このときはこういう叱り方をしようとか、そんなこと考えて叱るということはないな。
そんな不純な、叱り方はせんよ。私心なく一所懸命叱る。これが部下のためにも組織全体のためにもなると思うから、命懸けで叱る。
うん? きみも叱られたときがある? そうか? それは結構や。
けどな、叱るということは、正直、あんまり気分のええもんではないわな。叱られるほうはなおさらのことかもしれんけどな。
叱るということはその部下に期待しとるからやというところもあるが、叱ったあと、言葉が過ぎたかなと思うときもあるし、ああいう言い方でよかったのかなと思うときもあるし、本当に分かってくれたんやろうかと案じたりするな。
いろいろな思いが心の中を駆け巡るわけや。叱ったわしのほうが夜寝れんこともたびたびある。4、5日ずっと心に残ることもある。
叱るほうはいいですねとか、言いたいことを言えていいですねとか思う人もおるだろうけど、叱ったあとは、いつでも辛く悲しいもんやで。
えっ? そういうわしの気持ちが、部下からすればきつく叱られながらそのあと、何かしら柔らかさを感じるのかってか? それはわしには分からんわ。きみ、わしに叱られた人のところへ行って聞いてみてくれや。ようけおるやろ。きみの経験ではどうかな。
叱るときには、本気で叱らんと部下はかわいそうやで。策でもって叱ってはあかんよ。けど、いつでも人間は誰でも偉大な存在であるという考えを根底に持っておらんとね。
けど、叱られる部下を見ておると、叱られるのがうまいのと、下手なのとがおるなあ。叱って、分かりましたと。いろいろ言い訳する者は論外としても、分かりました、ということでその場は終わるとして、そのあとが大事であるわけや。
叱られた者は叱られたことで精いっぱいかもしれんが、いまも言ったけどな、叱ったほうもそれ以上に思い悩んでおる場合もあるわけや。いわば、抜いた刀をどうやって納めようかと。
そんなときに、その部下がすぐにまたやってきて、さきほどのことはよく分かりました。これから十分に気をつけますので、どうぞお許しください、と言うと、こっちのほうも思い悩んでいるところであるから、ああ、あの叱り方でよかったな、あの叱り方で分かってくれたんだな、ということになる。
内心、ほっとして、やあ、分かればそれでいい、これからもがんばるように、というようなことになる。刀がそこで鞘に納められる。
叱ったほうも一区切りついたという気分になると同時に、なかなかいい部下だなと思う。また、かえってそういう部下が可愛くなる。人情やな、それが。
分からんのに分かりましたと言ってくる者はあかんけど、分かったら、そういう態度をとるとええわけや。
ところが、それをなかなかやらんね。叱られたから行きにくい、行けないということもあるかもしれんが、もう行かない。そうすると、その上司とだんだんと距離ができて、ついにはあまりいい関係にならんようになる。
叱られっぱなしにしておくと、心がお互いに遠のいてしまうわけや。叱り叱られたことを早く終結させることやな。分かったら分かったと、そして詫びると。これが叱られながらも結局は評価されるひとつの方法やな。
まあ、叱られ上手は叱られたことに、いやな余韻を残さん工夫をする人やな。
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