本記事は、大下英治氏の著書『論語と経営 SBI北尾吉孝 下 立志篇』(エムディエヌコーポレーション)の中から一部を抜粋・編集しています。
「セブン‐イレブン」の生みの親・鈴木敏文の独創性
株式会社セブン&アイ・ホールディングス代表取締役会長、経済団体連合会副会長、日本フランチャイズチェーン協会会長、日本チェーンストア協会会長、学校法人中央大学理事長などを歴任した
昭和31年(1956年)に中央大学経済学部卒業後、書籍取次大手の東京出版販売(現・トーハン)に入社した。
鈴木は、トーハンに入社してから半年後に、出版科学研究所へ配属された。出版科学研究所は、トーハンが日本の出版業界の近代化を図るために設立した調査研究機関だった。
まだ統計らしい統計がなかった出版業界において、正確な統計データを揃えて、市場の実情を捉えていくことが仕事であった。
鈴木はここで2つの分野を徹底的に学んだ。
1つは、学術的に統計データをとり、納得性を高めるための統計学。
もう1つは、心理学だった。
正確なデータをとるためには、インタビューやアンケート調査をとる際に、答える側が誘導により心理的な影響を受けないように質問の内容や聞き方に注意する必要があった。そのためには心理学の知識が不可欠だったのである。
鈴木は、昼間は外で調査を行い、夜は大学の先生を招いて講義を受けた。
この時に統計学や心理学を徹底して学んだことがイトーヨーカ堂に転職してからも活きてきたという。
また、鈴木はトーハン時代、『新刊ニュース』という隔週刊の広報誌の発行を担当している。
その時はそれまで新刊目録が中心だった内容を、新刊紹介のほかに、軽い読み物を添えて、読書家に一息ついてもらうような冊子にリニューアルさせた。
リニューアルは成功し、それまで無料だった冊子を有料にしたにもかかわらず、発行部数を5,000部から、13万部へと26倍にも伸ばした。
さらに、このトーハン時代、鈴木は得難い貴重な体験もした。トーハンの取引先である版元の出版社を通じて、多くの作家たちに『新刊ニュース』に登場してもらえたのだ。
そのため鈴木は、
鈴木は、トーハンに7年半ほど在籍したのち、昭和38年(1963年)、イトーヨーカ堂に転職し、商品管理や、販売促進、人事、広報などを担当。
昭和48年(1973年)11月に、セブン‐イレブンを展開する米・サウスランド社と提携し、株式会社ヨークセブン(のちの株式会社セブン‐イレブン・ジャパン)を設立し、専務取締役に就任した。
その後、昭和53年(1978年)にセブン‐イレブン・ジャパンの社長に就任して以来、平成28年(2016年)4月にセブン&アイ・ホールディングスの会長を退任するまで40年近く、経営のトップとして、最前線に立ち続けてきた。
鈴木の経営者人生は、さまざまな反対との戦いだったという。
「ビジネスでは、真似ではなくオリジナルをいかにやるかが、一番大事。独創がなければ絶対に、1番手にはなれないから成功することはない。いろんなことで成功する経営者はたくさんいますが、北尾さんや孫さんが似ているところは、自分で開拓するところです」
鈴木は、セブン‐イレブンを日本で始めた時も、誰かから「やれ」と言われたわけではなかった。
自ら参入を決断したという。
しかし、その時も周囲からは反対一色で、「絶対に成功しない」と否定的だった。
当時、親会社であるイトーヨーカ堂は大型スーパーの「イトーヨーカドー」の出店スピードを上げている時期であった。そのため、アメリカにならったコンビニエンスストア業態の導入は時期尚早との意見が社内には強かった。
また、ダイエー創業者で、ローソンでコンビニ業界に参入することになる
「大型店が成功する時代に小規模のコンビニが成功するわけない」
そう公言しているほどだった。
しかし、鈴木自身はビジネスチャンスは十分にある、と考えていた。
中小小売店の経営を近代化し、生産性を高めて、市場の変化に対応する仕組みを作ることができれば、大型店との共存共栄は可能であると考えていた。
鈴木がコンビニビジネスへの参入を決める際に、イトーヨーカ堂の
鈴木が語る。
「僕が『アメリカのサウスランド社と提携して、セブン‐イレブンを始めたい』と言った時も、最初伊藤さんは大反対でした。ですが、僕が『契約金は〇〇で、これ以上はびた一文も出しません』と提案したら、最後はオーケーしてくれました。伊藤さんは熱意を訴えると、最後はやらせてくれる人なんです。それと僕自身も、会社にマイナスになるようなことは絶対してはいけないと思っていたから、最初からその点には注意していました」
反対されることもあったが、鈴木本人は、否定的な意見はあまり、気にならなかったという。
「振り返って考えると、そういう反対は気になりませんでした。結局、自分で振り返ってみて、新しいことじゃないと挑戦する気にならないんです。人の真似は嫌なんです」
セブン‐イレブンでは、経営コンサルタントを重視することはなかった。それには鈴木のある思いがあったからだという。
「コンサルタントが提案するアイデアは二番煎じが多く、独創をやるわけじゃない。だから、セブン‐イレブンでは重視しませんでした」
セブン‐イレブンを経営するにあたって、鈴木は何よりも独創性を重視した。
今では当たり前であるコンビニでのおにぎりやお弁当の販売、おでんの取り扱いもセブン‐イレブンが最初だった。
また、牛乳の共同配送の実現や、セブン‐イレブンオリジナルのパンの販売、流通業界初の自前の決済専門銀行である「セブン銀行」の設立も行っている。
こうした新たな試みを実現する際も、否定的な意見が多かった。だが、反対を押しのけ、やってみるとヒットし、他のコンビニチェーンも参入するようになった。
鈴木は、オリジナリティの重要性を説く。
「コンビニで考えられるサービスの8割は、セブン‐イレブンが最初に取り組んでいる。真似をしないことがなぜ重要か。結局、先行した1番手と、それを真似した2番手の差が縮むことはない。だからこそ、独創的なサービスや商品を実施し、他社に先行することが大事になる。先行ということは常にその先を考えること。2番手は常に1番手の真似をするだけで1番手に届かないままで終わってしまう」
現在、セブン‐イレブンは、約2万1,000店ほどあるが、そのうちの1,000店ほどは24時間営業をしていないという。しかし、24時間営業することには大きなメリットもあるという。夜営業をしていると、昼間の時間帯の売上も伸びるからだ。
人間の心理とは不思議なもので、いつでも営業しているということが集客につながるという。
明暗を分けたセブン‐イレブンとダイエー
イトーヨーカ堂とともに、戦後の流通業界を牽引したダイエーを率いた中内㓛は、バブルの崩壊後、経営難に苦しんだ。
地価上昇を前提として店舗展開をしていた中内にとって、バブルの崩壊は想定外とも言えることだったからだ。
だが、中内はバブルが崩壊した後も、不動産の価格は必ず値上がりするという「土地神話」に最後まで固執していた。
当時、中内は常々口にしていた。
「日本は国土が狭いから、絶対に土地は不足する。また値段が上がる。もう1回バブルは来る」
中内がダイエーで採っていた経営方針は、地価の上昇を前提にしたものであった。
中内は、ダイエーを出店する場合、店舗用の土地だけでなく、その周辺の土地も、地価が上がることを想定して、積極的に購入するようにしていた。出店後に地価が上がった段階で周辺の土地を売却すれば、大きな利益が出るからだ。
しかし、その経営方針は、莫大な利益をもたらす可能性がある一方で、債務を負う可能性もあるためにリスクが高かった。
一方、イトーヨーカ堂は、土地を買収することはせずに、土地を借りて出店する方法を採用した。
この場合、土地を買う場合と比較して、出店時のコストが大幅に抑えられる。
鈴木が語る。
「中内さんとは、経済に対する考え方の違いがあった。それと、伊藤(雅俊)さんは、大きな借金をすること自体を嫌っていたので、いつもコストを考えていました」
セブン‐イレブンが成功した背景にも、こうした経営方針があったという。
「(前述したように)セブン‐イレブンは現在、約2万1,000店ほどありますが、元々、酒販店などの小売りの事業者と提携するかたちで出店したから、これだけのネットワークを築き上げることができたわけです。ヨーカ堂自体に資本がない中で、どうやってビジネスを展開し、利益を出すのか、それを追及したからこそ、できたのではないでしょうか」
鈴木は、セブン‐イレブンを経営するうえで、こだわったことについて語る。
「絶対に良い商品をつくる。絶対良いシステムをつくる、それだけに専念しました。質を追うか、量を追うかを考えた時に、まず追うべきは、やはり質です。質を練り上げて、素晴らしい商品を作ることができれば、量は後からついてきますから」
人生は儚い
鈴木敏文は、平成28年(2016年)5月26日に、セブン&アイ・ホールディングスの代表取締役会長兼CEO(最高経営責任者)の職を辞し、経営者として引退することを決断した。
鈴木が、その時の決断について語る。
「これ以上、自分が頑張るということをしなくても、誰かがやるだろうと思えたんです。それと、やはり自分に余力があるうちに辞めた方がいいだろうと思いました。
学生時代の友人たちが亡くなったこともあって、『人間なんていつどうなるかわからない』と考える機会も増えて、いつまでも永遠なんて思っちゃいけないな、と思うようになりましたから。いつまでも自分で掌握しようという考えではいけません」
鈴木がさらに語る。
「例えば、仲の良かった友達が亡くなったりするでしょう。70代の頃はそんなに思わなかったけれど、儚いものだなと思うようになってきたんです。人によっていろいろあるけれど、例えば、ちょっとした運動をしても、体力が落ちていることを実感したりする。やはり、最後まで頑張り続けるということは良いことではありません。特に、大企業のトップがそれをやると、みんなに迷惑がかかりま すから」
カリスマ・鈴木敏文が語る「経営の極意」
セブン&アイ・ホールディングス名誉顧問の鈴木敏文は、孫と北尾の関係性について語る。
「僕は、2人と付き合いがあるけれど、それぞれ個性がとても強いです。でも、『お互いに衝突はしないように』と約束をしたことがあるみたいですね」
鈴木は、北尾だけでなく、ソフトバンクの孫正義とも以前から付き合いがあった。孫との付き合いは、北尾との付き合いよりも古いくらいだという。
「孫さんは、若い頃から、僕が話す講演会などにたびたび来てくれて、熱心に話を聞いてくれたんです。その時は、孫さんが今のような大きな会社の経営者になるとは思いもしませんでした」
鈴木は、セブン‐イレブンを成功させるなど、日本の流通業に大きな変革をもたらした。
経営者にとって重要な資質とは何なのか。
鈴木が語る。
「まず、自分を持っていて、挑戦すること。人の真似ではダメで、それでは1番にならない。それと、自分で先頭に立って、責任を自分で全部とること。孫さんも若い時からの付き合いで、最初は『この人は何をするんだろう』と思っていたけれど、こっちに行ったと思えば、あっちに行き、あっちに行ったと思えば、こっちに行きと、いろんなことに常にチャレンジし続けて、どんどん幅を広げていく。北尾さんも孫さんとはタイプは違うけれど、誰かの真似をするのではなく、今も自分のチャレンジをし続けています」
伊藤雅俊がイトーヨーカ堂の社長だった時代の話である。
役員会で伊藤が
蕩々 と自説を語り続けた。すると、当時副社長だった鈴木敏文が、厳しいダメ出しをした。
「今、伊藤社長の言われたことはすべて間違いです」
伊藤は、自分の意見を完全否定した鈴木を怒るかと思いきや、立ち上がって素直に認めた。
「いや、確かに鈴木君の言うとおりだ」
伊藤は従来から、鈴木が自分より優秀だと認めていたという。
この話を聞いた北尾は、伊藤雅俊の度量の大きさに感心した。
〈考えてみれば伊藤さんは創業経営者だから、2番手の鈴木さんと戦う必要はないということか〉
大実業家として名高い帝人の
大屋晋三 は〝2番手切り〟で有名だった。北尾は思う。〈2番切りをやるような人は、ずっとサラリーマンで来た人だ。自分が一から会社を創り上げた創業者は、そんなことは滅多にやらない〉