本記事は、森永康平氏の著書『大値上がり時代のスゴイお金戦略』(扶桑社)の中から一部を抜粋・編集しています
炎上した黒田日銀総裁発言の真意
長らくデフレ経済を続けてきた日本にとって、足元の値上がりは家計への直接的なダメージだけでなく、精神的にもそれなりのダメージを与えているように思えます。それを表す象徴的な出来事に日本銀行の黒田総裁の発言が炎上したことが挙げられます。
黒田総裁が2022年4月講演で「家計の値上げ許容度は高まっている」と発言したところ、この発言がメディアで広く報じられ炎上し、ツイッター上では「#値上げ受け入れてません」がトレンド入りするまでの事態に発展し、最終的に黒田総裁が「誤解を招いた」と謝罪することとなりました。筆者はあるテレビ番組でこの炎上案件についてのコメントを求められましたが、謝罪するような話でもないし、国民はもっと冷静になるべきだとしました。しかし、冷静になれないほどにインフレが家計への精神的負担にもなっているのでしょう。
それでは、まず黒田総裁の発言が炎上した経緯を確認してみましょう。黒田総裁が引用したものは東京大学大学院の渡辺努教授らによる調査結果です。この調査では日米欧5か国の人たちに対して、「馴染みの店で馴染みの商品の値段が10%上がったとき、あなたはどうしますか」という質問をするというものでした。答えは2つ用意されており、「値上げを受け入れ、その店でそのまま買う」か「他店に移る」の2択です。
前回(2021年8月)の調査では日本だけが過半数以上が「他店に移る」と回答したのに対して、最新調査(2022年4月22日~5月9日)では日本でも「値上げを受け入れ、その店でそのまま買う」が過半数を超えました。黒田総裁はこの結果を紹介するかたちで、家計の値上げ許容度は高まっていると発言したのです。
実は黒田総裁のこの講演の議事録が日本銀行のホームページに公表されており、この発言の前後で何を話したかはどなたでも確認することが可能です。しかしメディアが、黒田総裁が「家計が値上げを受け入れている」と発言したかのように切り抜き報道をしたことで、物価高に不満が募る国民が怒った結果がこの炎上騒動の背景なのです。
しかし、この調査結果は決して特殊なものではなく、それ以外の経済指標でも同様の結果が発表されています。内閣府が発表している消費動向調査(2022年5月分)を見てみると、総世帯における物価の見通しは93.7%の世帯が今後物価が上昇すると回答しています。これだけ連日のようにメディアが値上げラッシュを報じていれば、今後も物価は上昇すると思うのは当然のことでしょう。しかも、足元の物価上昇の原因はコロナ禍におけるコンテナ不足や人手不足、ロシアのウクライナ侵攻によるエネルギー・資源価格の高騰であることも同時に報じていますから、企業の値上げに対してもある程度は「仕方ない」と考える向きも増えるのです。
このように冷静に考えれば、黒田総裁の発言がここまで炎上する理由が分からなくなると思います。私たちはもっと冷静でいなければいけないのです。
さて、それでは黒田総裁がこのような発言をした真意はなんだったのでしょうか? これまで日本では長らくモノの値段は上がらないと考える国民が大半を占めていました。このような環境下だと、企業はエネルギーや資源価格の高騰を素直に価格転嫁できません。そうなると、価格を据え置きながらも利益を維持しようとするのであれば、人件費や投資にかかる費用を下げなければいけません。その結果、非正規雇用や外国人労働者が積極的に活用されていったのです。そうなれば、経済はどんどん収縮していきます。
しかし、足元ではようやく日本国民がモノの値段が上がっていくかもしれないというマインドセットの転換が起こっているため、企業が従来よりは価格転嫁しやすい環境が整っているのです。そこで、企業が値上げをしても家計が買い控えないように政府がしっかりと支援をすれば、長らく苦しんできたデフレ経済から脱却できるかもしれない、ということを言いたかったのです。
コロナ後は倒産が増加し、労働市場が悪化する
円安やインフレがいつまで続くか。正確に予測することは誰にもできません。しかし、米国でインフレが高止まりする限り、利上げに経済が耐え得ると判断する間は米国は金利を引き上げ続け、一方で日本銀行が金融緩和を継続するのであれば、傾向としては円安が継続するでしょう。
また、インフレについても少なくとも2022年いっぱいは続くと考えます。たとえば、日本の場合は小麦の多くを輸入に頼っていますが、輸入小麦の売うりわたし渡価格は政府が4月と10月の年2回改定をしています。2022年4月には売渡価格が17.3%も引き上げられました。この結果、麵類や菓子類、パン類の価格上昇が起きたわけですが、この引き上げにはロシアによるウクライナ侵攻や、原油高、円安の影響は含まれていません。ということは、10月の売渡価格の改定では大幅な価格改定が予想され、その影響は数か月の時差をもってあらゆる小麦製品に波及していきます。それゆえに、少なくとも2022年いっぱいはインフレが継続すると予想するのです。
仮に政府が物価高対策として輸入小麦の売渡価格を改訂せずに据え置いたとしても、それだけではインフレを抑制できるとは思えません。たとえば、パンには小麦が使われていますが、それ以外にも砂糖やマーガリンなどの油が使われています。小麦価格が上昇しなかったとしても、砂糖や油の値段が上昇するのであれば、パンの価格も上昇してしまうのです。
さて、しばらくは円安やインフレが続くなかで、私たちの労働環境はどうなっていくのでしょうか。
いきなり労働環境の話が出てきて驚いた方もいるかもしれませんが、家計を考えるうえでは非常に重要な観点です。仮に1年で物価が5%上昇したとしても、賃金が10%上昇しているのであればそれほどインフレが問題にならないように、賃金上昇率は私たちの消費を考える上では非常に重要ですが、そもそも賃金をもらえる状況ではなくなってしまうと、文字通り死活問題になってしまいます。
それでは、コロナ禍における労働環境について見てみましょう。「失業率」と「有効求人倍率」の推移を重ねたグラフ(上図)になります。失業率の意味はお分かりかと思いますが、有効求人倍率の意味が分からない方もいると思いますので説明します。
上図は、厚生労働省が全国のハローワークの求職者数、求人数をもとに算出したものです。有効求人数を有効求職者数で割って算出し、倍率が1を上回れば求職者の数よりも人を探している企業数が多く、下回れば求職者の数のほうが多いことを示します。毎月「一般職業紹介状況(職業安定業務統計)」という経済指標のなかで発表されます。
グラフを見ると、新型コロナウイルスの感染拡大が始まり、緊急事態宣言が発出され、その後もまん延防止等重点措置が発出されるなどした2020年は失業率が急上昇し、有効求人倍率も1倍を下回る直前まで悪化しましたが、その後は労働環境が回復傾向にあることが分かります。労働環境が改善しつつあるならインフレにも対応できると思うかもしれませんが、筆者はこれから労働環境も悪化していく可能性が高いと考えています。その理由は企業の倒産件数の推移(上図)を見れば分かります。
企業の倒産件数の推移を見てみると、コロナ禍では企業の倒産件数がコロナ前よりも少し抑えられていることが分かるかと思います。不思議ですよね。コロナ禍は不況みたいなもので、飲食店や宿泊観光業は大きなダメージを受けましたから、倒産件数は増えてもおかしくありません。それにもかかわらず、実際は倒産件数は抑えられています。なぜなのでしょうか。
コロナ禍では企業の資金繰り悪化を防ぐべく、無担保・無利子、いわゆる「ゼロゼロ融資」が積極的に行われました。たまに勘違いをしている人がいるのですが、企業は赤字になっても倒産しません。倒産するときというのは資金繰りがつかなくなったときなのです。
執筆時点ではコロナの第7波真っ只中でしたが、これまでの経験則でいえば1~2か月のうちに第7波は収束し、経済は正常化していくでしょう。そして、徐々にコロナも生活の一部に溶け込んでいくと考えられます。そうなると経済にはプラスですが、コロナ禍という非常事態の終わりを意味しますから、融資を受けていた企業は返済を求められます。コロナ禍が終わったからといっても、必ずしもコロナ前の業績が戻るわけではありません。この2年以上にもおよぶコロナ禍で私たちの消費行動は大きく変容してしまいました。
こうなると、今後は労働環境が再び悪化するシナリオが濃厚となりますので、そこにインフレが重なると私たちの生活はさらに苦しくなる可能性があるといえるのです。
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