公助の限界が訪れる

日本の就業人口はもう20年以上減少し続けている。1940年代には1年間に平均270万人の出生数だったが、2022年は80万人を割ってしまった。実にピーク時の3割程度にまで減少したことになる。

この現実が今、ボディブローのように人手不足という状況を作り出している。実際、コロナ禍以前の2019年には有効求人倍率が1を超えていた。これは、仕事を提供したい人の割合が仕事を探している人の割合を超えている、つまり労働市場で働き手が足りないという状況が起きていることを示しているわけだ。

人口減少と同時に高齢化も進んでいる。介護保険制度の充実で以前よりは介護のインフラは改善しつつあるとは思うが、今後は年金の実質目減り感が強まったり、生活費不足を補うために働く高齢者の環境整備が不十分であったりと、色々な問題も出てくるだろう。

そして、この長寿社会においての最大のリスクは社会福祉制度という公助の限界だ。厳しい財政赤字の下、公助のみに頼って長寿社会を生き延びるのは今後ますます難しくなってくる。

公助から自助へ

公助の限界がくれば、自助でなんとかしなければならなくなる。公的年金や企業年金に頼れないのであれば、自分で自分の資産を運用し、どうにか増やしていかなければならないからだ。

「資産運用」というと、まるで一部の富裕層のみに相応しいことかのように聞こえるかもしれないが、それは違う。退職しても元気な高齢者として、あなたが本当にやりたいことをするには経済的な自由が益々重要となる。そのためには長く働いて稼ぎ続けることも重要だし、長く働くベースとしての健康管理も重要になってくる。

健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間のことを「健康寿命」というが、日本人の男性の場合、健康寿命と平均寿命には9年の差がある。女性の場合は12年だ。つまり、平均寿命と健康寿命の差は日常生活に制限のある「不健康な期間」を意味しているのだが、その差をなるべく0に近づける努力というのは、我々の人生の中で平均寿命自身の延長よりもはるかにコントロールできる人生の要素だと考えるべきではないだろうか。

健康寿命を平均寿命に近づける努力をしていれば、生きることに前向きにもなれるだろう。そうやって意識して生きてはきたけれど、運命から外れてしまったなという時もあるだろうし、その時は受け入れるしかない。我々はいくら努力しても、運命に手伝ってもらわないと大きな飛躍はできない。だが、運命を引き寄せる努力はできると信じなければ、生きることに意味がなくなってしまうかもしれないのだ。