本記事は、三橋貴明氏の著書『日本経済 失敗の本質』(小学館)の中から一部を抜粋・編集しています。
なぜ国内の経済政策が市場に従わなければならないのか
イギリスが世界の覇権国であった時代、なぜか「貨幣」についてはリベラリズム的な「金本位制」が採用されていた。金本位制は、当時の覇権国イギリスが主導したグローバルな「固定為替相場制」となる。
金本位制の仕組みは、以下の通りとなる。
各国が金1オンスの価格について事前に定めておく。分かりやすいので、日本は「1オンス=100万円」、アメリカが「1オンス=1万ドル」と設定しておいたとしよう。
日本企業がアメリカに100万円の自動車を輸出した。受け取る代金は、日本円ではなく「1万ドル」だ。日本企業がアメリカで稼いだ1万ドルを円に両替しようとすると、為替レートが変動してしまう。
そこで、日本企業はアメリカにおいて、1万ドルで1オンスの金を購入する。1オンスの金を日本に持ち帰り、売却すると、100万円が手に入る。日本とアメリカ間の為替レートは変動しない。
もっとも、金本位制を採用している国が貿易赤字を拡大させてしまうと、その分、自国から金が流出してしまう。すると、右記の例でいえばアメリカは「1オンス=1万ドル」を維持できなくなる可能性が生じる。アメリカでドルを稼いだ企業などが、自国に持ち帰る金を購入する際に「買えない」といった事態を起こしてはならないのだ。
そこで、貿易赤字国は金の流出を食い止めるために、
といった政策を強いられることになる。輸入が減れば、貿易赤字が縮小し、金流出を止めることができるわけだ。
逆にいえば、各国が金本位制を維持するためには、財政政策や金融政策を「金の市場」に依存しかねない。本来は国家の主権に含まれるはずの経済政策が、市場にコントロールされる事態になってしまうのだ(なお、同様の問題は現代においても「固定為替相場制」「共通通貨制」を採用している国でも起きている)。
そもそも、なぜ国内の経済政策が市場に従わなければならないのか。金が不足している国は、国家が貨幣を発行することすら自由にならないためだ。
要するに、金本位制とは、
「貨幣は金に代表される貴金属を担保に、発行されるべき」
というリベラリズムなのである。貨幣論については、当時の世界の人々(日本人を含む)にとって、金本位制は「当たり前」のシステムであり、常識だった。
1914年に第一次世界大戦が始まると、途端に各国は金本位制の放棄に追い込まれた。
大戦争を戦っている国が、
「国家の貨幣発行量は、自国が持つ金の量に依存する」
などとやっていられるわけがない。金が不足していることを言い訳に、貨幣を発行せず、政府が支出しない場合、普通に戦争に負けるだけの話だ。そこで、各国はリアリズムの発想に基づき、金本位制を捨て去った。
第一次世界大戦により、金本位制が
リベラリズムという「理想主義」のパワーは、我々が想像している以上に強大だ。
金解禁で日本経済は大混乱に陥った
さて、戦前の日本、すなわち大日本帝国である。
日本は明治政府の下で近代的通貨制度を整備し、日清戦争に勝利し、多額の賠償金を獲得。金の保有量が増えたこと受け、1897年に金本位制を採用した。その後、第一次世界大戦勃発を受け、諸外国と同様に金本位制から離脱した。
戦争が終結した後も、1923年に関東大震災が発生したこともあり、日本は金本位制への復帰を果たせずにいた。大震災から復興するためには、政府が貨幣を支出しなければならない。その状況で国内の金保有量に貨幣発行を左右されてしまうと、復興を成し遂げられない。ちなみに、大震災からの復興を理由に「増税」という愚策を強行した国は、筆者は2011年の日本以外に知らない。
関東大震災発生時の日本国政府は、現在よりもはるかに真っ当だったため、当然ながら金本位制への復帰を遅らせたのだ。
その後、1929年に世界大恐慌が発生。世界は「超デフレ経済」に突入するわけだが、何と日本政府はそのタイミングで金本位制に復帰した。1929年に発足した
『濱口君と話し合ってみると、現在の財界を
別に、難しい話ではない。単に、当時の世界において金本位制が「グローバルスタンダード」だったというだけの話だ。リアリズムの
「他の国が金本位制を採用している。日本も金本位制に復帰するべきだ」
というリベラリズムにより、日本は恐慌下の金本位制復帰を決定。しかも、よりにもよって日本円の適正レートよりも「円高水準」で金本位制に復帰した。当然の結果として、恐慌が深刻化し、銀行や企業の休業や倒産が続出。農村は荒廃し、失業が急激に増大した。
濱口内閣は「日本経済を回復させる」ことを目指し、金解禁に踏み切ったのである。ところが、政府の意図に反し、国内経済は大混乱に陥った。世界の物価下落に日本の下落が追いつかず、相対的に値段の高い日本製品は外国でまったく売れなくなってしまった。国内では労働争議が多発し、一家心中や身売り、浮浪者があふれ、世相は不穏になっていく。
1930年11月14日、濱口総理は東京駅で銃撃され、そのとき受けた傷が原因で翌年亡くなった。強引な金解禁を強行した井上蔵相も、濱口総理が亡くなった翌年に暗殺される。
当時の日本の農村は本当に悲惨だった。日本の農村の景気は第一次大戦後の1920年の恐慌以来、概していえば不振で、慢性不況の様相を呈していたが、昭和恐慌の中でどん底に落ち込むことになる。
恐慌の深刻化に伴い、物価の下落が激しく進む中で、特に農産物価格が急激に暴落。当時の農産物価格の暴落には、以下の事情があったと考えられる。
都市部においても、人々は失業率急騰に苦しめられた。昭和恐慌期、日本は失業統計が不完全で、当局の推定方法も任意によるものであり、確定的な統計はない。1930年の内務省社会局の失業統計は5.3%となっていたが、推定値な上に、失業者は大家族制を通じて農業や零細小売業に吸い込まれ、不完全就業者と化していた。日本政府は都市部の失業者の帰農を推進したが、昭和恐慌の最も深刻な局面は農業恐慌であり、〝娘の身売り〟が大量に行われるほど貧困化した農村には、帰農した失業者を扶養する力はなかった。
そして1931年に満州事変が勃発。さらには、イギリスの金本位制停止を受け、日本の金輸出再禁止(金本位制離脱)も近いという憶測のなか、円売りドル買いが加速。政府の買い支えもむなしく、濱口内閣を引き継いだ
当時、ドルを買い占めた財閥の横暴に対し、国民の不満は増大した。反感に乗じて右翼勢力や軍部のパワーが高まり、以後、満州国建国、五・一五事件、二・二六事件、支那事変(日中戦争、以下同)へと、歴史は突き進んでいく。