本記事は、三橋貴明氏の著書『日本経済 失敗の本質』(小学館)の中から一部を抜粋・編集しています。
政府が支出を減らすとGDPは成長しない
国民経済は「誰かの支出が、誰かの所得になる」形で「横」につながっている。少なくとも、生産者と購入者の2名が存在しなければ、経済は成立し得ない。経済とはまさしく「共同体」の産物なのである。
日本には、政府の支出拡大について、
「政府は無駄遣いするな!」
と、批判する人が多いが、そもそも「無駄」の定義が不明な上に、政府が支出を減らすと、確実に誰かの所得が減る。つまりは、GDPが成長しない。
経済成長=GDPが増えるということは、実体経済において国民の所得が拡大していくことをも意味している。もっとも、日本は90年代初めのバブル崩壊と、1997年の橋本龍太郎政権による緊縮財政(消費税増税、公共投資削減など)により経済がデフレGDPまったく成長しない状況に突入した。
デフレーションとは、総需要の不足である。図8でいえば「消費と投資という支出(需要)」が不足しているのである。
バブルが崩壊すると、我々は土地や株式などの資産価格暴落に直面する。もっとも、資産価格が下落したとしても、それを購入するために銀行から借りた「融資(負債)」は消えない。結果、我々は所得を稼いだとしても、その多くを銀行への「返済」に回してしまう。
図8を見れば分かるが、銀行への融資返済は消費でも投資でもない。つまりは、我々の手元から貨幣が消えたとしても、誰の所得にもならないのだ(銀行の所得にもならない)。
バブル崩壊で融資の返済が増え、民間の消費や投資という「需要」が減ったタイミングで、橋本政権が緊縮財政を強行した。消費税増税は、当然ながら民間最終消費支出という需要を減らした(何しろ、消費に対する「罰金」を増やしたのだ)。さらには、公共投資(公的固定資本形成という需要)の削減を開始した。
ただでさえ、バブル崩壊で消費・投資が減少している状況で、政府自ら「民間の消費を減らす消費税の増税」や「政府の投資削減」により需要をさらに減らした。GDP三面等価の原則により、需要(支出)と所得はイコールになる。
需要の激減は、誰かの所得の縮小である。所得が減った生産者が顧客側に回ると、「カネがない」という話になるため、「次の段階」の消費や投資が減る。すると、別の生産者の所得が減る。その生産者が顧客側に回るという形で、総需要(=生産=所得)が循環的に縮小していくのが「デフレーション」なのである。
デフレーションとはしぼむ、縮むという意味である。つまりは、生産、需要、所得のパイであるGDPが小さくなっていく経済現象なのだ。需要がしぼむ=買い手が少なくなるからこそ、普通は物価が下がる。が、「デフレ=物価下落」ではない。「デフレ=需要の縮小」が正しい。
GDP三面等価の原則により、GDPの縮小は所得の下落とイコールだ。そして、所得の下落は「次の需要」を減らすことになる。給与が減った人は、消費をしなくなる。つまりは、次の需要が縮小する。
デフレの国は、図9の右側の状況になる。過去に蓄積された投資の恩恵で、供給能力は十分にある。ところが、総需要が足りない。先述の通り、総需要とは要するにGDPだ(名目GDP)。
企業にたとえれば、
「我が社は1日に100の生産が可能だが、顧客は90しか買ってくれない」
という状況である。
となれば、企業は工場を閉鎖し、設備を破棄。従業員を解雇し、その国の供給能力は縮小していく。さらに、解雇され、失業者となった元・従業員は、当然の話として消費や投資を増やさないため、総需要がさらに小さくなる。デフレギャップが、いつまで経っても埋まらない。
しかも、デフレ期には生産者の所得が縮小していくため、消費全体は伸びず、住宅投資という需要も低迷する。企業は企業で、何しろ市場(需要)が伸び悩むわけだ。設備投資を増やすはずもない。
デフレ期には、民間にとって「おカネを使わない」ことが合理的になってしまう。だからこそ、貨幣発行が可能な「政府」が存在するのだ。政府が国債を発行し、支出(需要)を増やすことで、総需要の不足(図9のデフレギャップ)を埋める。これが、過去に効果が確認された、たった1つのデフレ対策だ。
デフレなのに相次いだ増税
デフレの国はインフレ率が低いため、政府が国債を発行し、国民が生産する財やサービスを購入することで「ギャップ」を埋めても、何の問題も生じない。というよりも、埋めなければならない。
デフレ化した国の政府は、国債発行と政府支出、つまりは「財政赤字」を、ギャップが埋まるまで継続しなければならないのである。
ところが、日本政府は1997年以降、デフレギャップを埋めるための本格的な財政支出の拡大には乗り出さなかった。それどころか、国民の所得を奪い取る「増税」を繰り返してきた。
国民経済は、いわば水を溜めるシンク(水槽)だ。シンクの中では、所得や消費性向(所得に占める消費の割合)、信用創造(銀行が貸し付けによって預金通貨を創造する)、投資、生産性などの変動により、水位が上がったり下がったりしている。
シンクから水があふれるほどに水位が上昇するのがインフレーションで、水がひたすら減っていくのがデフレーションである。
シンクの「大きさ」は、主に投資や生産性により変動する。シンクが大きくなる現象を「経済成長」と呼ぶ。シンクから水があふれるとは、供給能力に対し、需要が大きすぎることを意味する。
つまりは、インフレーション。逆に、シンクの水が不足するとは、供給能力に対して、需要が少ないデフレーション。
政府の役割は、シンクの水位を見ながら、必要があれば政府支出で水(貨幣)を注ぎ込み、あるいは排水管から徴税で水を抜くことである。
調整こそが政府の役割なのだ。
ところが、1997年以降の日本政府は、この「調整機能」を放棄してしまった。理由は大きく2つある。1つ目は「貨幣観の間違い」だ。そもそも、多くの国民が貨幣について正しく理解していない。結果、
「日本は国の借金で破綻する。政府は無駄遣いを減らせ。増税しろ」という緊縮プロパガンダが蔓延し、正しい財政政策ができない。
そして、2つ目の理由が、国債という「国の借金」プロパガンダを主導した「財務省」の存在である。
現代日本における財務省は、まさに大東亜戦争末期の大本営そのものだ。