湯浅醤油有限会社
(画像=湯浅醤油有限会社)
新古 敏朗(しんこ としお)――代表取締役
和歌山県湯浅町出身。専門学校卒業後、1990 年、家業である丸新本家醸造元に入社。醤油造りと歴史を見て体験できる蔵造りのため、2002年醤油部門を独立させ湯浅醤油有限会社を立ち上げる。2015 年 10 月、父から引き継ぎ丸新本家5代目代表就任。『世界一の醤油・味噌づくり』をモットーに、地域の食文化や醤油・味噌の伝統を守りながら、新しい事も積極的に取り入れ、皆があっと驚くようなものを生み出している。
湯浅醤油有限会社の親会社、丸新本家醸造元は、創業 143 年。醤油発祥の地である和歌山県湯浅町で、創業より醤油の起源とされる金山寺味噌、醤油、味噌等の製造・販売を行っている。(醤油部門は 2002 年より湯浅醤油有限会社として独立)弊社の醤油は、伝統的な木樽製法。国産原料にこだわり、自然に任せた発酵熟成を行う天然醸造で、出来上がる醤油はうま味が強いのが特徴。2004 年から観光型の蔵見学をスタートし、2023 年からはフランスでの醸造事業、レストラン事業も進めている。

目次

  1. 創業からこれまでの事業変遷と貴社の強み
  2. 承継の経緯と当時の心意気
  3. ぶつかった壁やその乗り越え方
  4. 今後の新規事業や既存事業の拡大プラン
  5. メディアユーザーへ一言

創業からこれまでの事業変遷と貴社の強み

—— 事業の変遷と貴社の強みについて教えてください。

湯浅醤油有限会社 代表取締役社長・新古 敏朗氏(以下、社名・氏名略) 湯浅醤油は1881年創業の丸新本家の「金山寺味噌」の製造から商売を始めました。湯浅町は醤油の発祥地として知られており、その歴史は鎌倉時代の1254年にまで遡ります。僧侶が中国の金山寺(径山寺)で学んだ味噌の製法を持ち帰り、それが湯浅町で引き継がれ、我が家でも商売を続けてきました。

昭和の時代に入ると、丸新本家は一度醤油の生産をやめました。醤油は仕込みから熟成まで1年以上かかるため、売上の回収が年に2回しかなく、資金繰りが厳しくなったからです。

その後、高度経済成長期に入り、大手醤油企業が台頭し、価格競争が激化しました。その影響で、地方の小規模な醤油業者は次々に廃業していきました。

さらに、バブル崩壊後には高速道路の建設によって観光客が激減し、売上は7割も減少しました。そこで、白浜に新設された観光施設に出店し、新たな集客の機会を模索しました。しかし、それだけでは十分な効果を得ることができず、2002年に湯浅醤油有限会社を立ち上げると同時に、製造蔵を公開する蔵見学という斬新な取り組みを始めました。

当時、醤油蔵を見学できる施設はほとんどなく、湯浅町の歴史や醤油づくりの伝統を体感できる場として増築された醤油蔵は話題を呼びました。この取り組みによって、高速道路で湯浅町を通過するだけだった人々がわざわざ立ち寄るようになり、客足が徐々に回復していきました。

2002年に湯浅醤油有限会社を立ち上げた後、伝統を守りながら現代のニーズに応える日本一の醤油を目指して商品開発を行いました。たとえば、丹波の黒豆を使った生一本黒豆醤油は、JAS規格の特選醤油の1.5倍の旨味成分を含んでおり、日本一、ひいては世界一の醤油を開発しています。そして、ニューヨークやフランスなど海外にも積極的に輸出しています。

承継の経緯と当時の心意気

—— 事業を引き継いだ経緯や、その時の心意気についてお聞かせいただけますか?

新古 1990年頃から父の下で働き始め、毎日怒られながら製造から店の管理までこなしました。2015年に正式に代表として事業を引き継ぎましたが、実際には2005年ごろからほとんどの業務を1人でこなしていたので、名前が変わっただけで、実務面ではすでに自分が主導していた感覚でした。父のもとで働き始めた当時は何もかも任され忙しく、製造効率を上げることばかり考えていました。

ぶつかった壁やその乗り越え方

——ぶつかった壁や、それをどう乗り越えてきたのかお聞かせください。

新古 大きな壁はやはりコロナです。2020年2月13日、バレンタインの前日に湯浅町でもコロナが発生したんです。湯浅町が全国でも最初にコロナが広がった地域になってしまいました。

観光事業も含め、年間10万人近く訪れていた観光客が一気にゼロとなり、キャンセルが相次ぎました。売上は7割減少し、「これはもう潰れるかもしれない」と思いました。

もう1つ大きな壁は、業界大手の企業様からの受注です。札幌で有数の企業様から醤油の注文を受けたのは当時の私たちにとって驚きでしたが、出荷前のサンプルで「この醤油はダメだ」と指摘を受けました。理由は、醤油に含まれる菌数が多かったことです。

実は、醤油に関して菌の規制は歴史的に存在せず、私たちもその点を考慮していませんでした。しかし、大手企業は非常に厳格な基準を持っており、菌数が問題となりました。

—— どのように対処されたのでしょうか?

新古 厳しい要求でしたが、解決策を探し続けました。最終的に、岡山にある設備で菌をろ過する技術を見つけ、湯浅から岡山まで醤油を運んでろ過してもらいました。その後、空港まで運び、飛行機で東京に届け、なんとか発売に間に合わせることができました。 結果的に信頼関係が築けましたし、その経験は私たちの成長にもつながりました。

今後の新規事業や既存事業の拡大プラン

—— 今後の新規事業や既存事業の拡大について、どのようにお考えでしょうか?

新古 2018年、コロナ前からフランス・ボルドーで醤油作りを始めました。当初は「騙される」と反対されましたが、現地の人たちを信頼し、順調に進めることができました。フランスのレストラン事業も展開しており、今ではボルドー市内で食に特化した格付けで2500店中16位にランクインするほど成長しています。これは大きな成果です。

また、醤油事業をサント・テールで進行しており、東京ドーム4つ分の畑を購入し、ワインと一緒に醤油を生産しています。今年の4月に完成した醤油は3ヶ月で完売しました。日本向けには少しだけ在庫を確保していますが、全体として非常に好調です。

現在フランスにはレストランがありますが、和歌山の地元にも、醤油や金山寺味噌を楽しめるレストランを作りたいと考えています。実は和歌山には、地元の伝統的な食文化を楽しめる場所が少ないのです。

和歌山の食文化は宝物です。例えば「茶粥」は、徳川時代に米を節約するために考案されたもので、各家庭で受け継がれてきました。しかし、近年ではその文化も少しずつ失われつつあります。私はこうした文化を守り、地元の食材や伝統料理をもっと広めていきたいと考えています。

メディアユーザーへ一言

—— 読者の皆様に向けてメッセージをいただけますでしょうか?

新古 日本は経済的に大きく発展しましたが、その一方で、文化を壊してしまった部分も多いと感じています。私たちは、もう一度日本の文化を再構築していきたいと思っています。もちろん、新しい挑戦にも取り組みながら、伝統を大切に守っていくことが重要だと考えています。

たとえば、私たちが作っている醤油は一本1,000円と少し高めですが、それには十分な理由があります。国産原料を使用し、木樽で天然醸造。職人が丁寧に管理し、製品になるまで1年~1年半という工数をかけているからなのです。

普段使う200円の醤油とは違い、この一本を作るためにどれだけの手間や努力がかかったのか、その価値を理解していただけると嬉しいです。「高い」と言われることもありますが、私は「これだけの品質を提供しているからこそ、むしろ安い」と考えています。このような商品の価値をしっかり伝えていくことが、私たちの使命だと思っています。

氏名
新古 敏朗(しんこ としお)
社名
湯浅醤油有限会社
役職
代表取締役

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