この記事は2024年4月25日に「第一生命経済研究所」で公開された「トランプ関税の教科書「ミラン論文」を読む」を一部編集し、転載したものです。

日米交渉の先
日本は、米国との間で5月1日に第2回目の関税交渉を行う予定である。その前哨戦ともみられていた4月24日の加藤勝信財務大臣とベッセント財務長官の間での初めての会談では、日本の為替政策が批判されることもなく、無風で終わった。同じベッセント財務長官が、日米関税交渉で赤沢亮正大臣のカウンターパートであるだけに、私たちは為替問題で米国が日本を揺さぶってくる可能性を警戒していた。掟破りのトランプ政権の中で、ベッセント財務長官は穏健派として組みしやすい相手に見える。しかし、安心してはいけないのは、トランプ政権の関税政策がひとつの論文を下敷きにしていて、その論文がドル安誘導を検討しているからだ。そこには、米国自身が通貨安誘導を行うシミュレーションが様々に書かれている。関税率の次にトランプ大統領が懐に忍ばせているのは、その通貨安誘導という奥の手である可能性が高い。この論文は、大統領経済諮問委員会(CEA)の委員長であるスティーブン・ミラン氏が2024年11月に書いた論文「世界貿易システムの再構築に関するユーザーガイド(A User's Guide to Restructuring the Global Trade System)」である。ミラン氏は博士号は持っているが、筆者と同じビジネス・エコノミストで歴代CEA委員長の中では異色である。この論文は、今読んでみると、トランプ大統領の言っている理屈をそのまま写した内容に見える。もちろん、この論文の方が前なので、実際はトランプ大統領がこの論文を下書きにして、持論を展開していることはほぼ明白である。そうした意味では、トランプ大統領の狙いを読み取るには、ミラン論文に書いてあって、まだ実行されていない計画は何かという内容を探ればよい。つまり、「これから起こることの年表=未来シナリオ」が、この論文には書かれているともいえる。
問題意識
ミラン論文の意図するところは、以下のように描かれている。
▼アメリカは不公正な立場に置かれている。それを取り戻す手段として、関税は使える。貿易相手国と、防衛の傘によって利益を得ている国々に関税率を引き上げることで、適正な対価を求める方法である。米国の輸入関税率は約3%(トランプ政権前)であり、EUは約5%、中国は約10%を課している。米国の低い関税率は、戦後復興への協力や冷戦時に同盟関係を結ぶための優遇措置だった。異なる時代に設計されたシステムである。
▼米国は貿易の被害者である。中国との貿易は、2000~2011年に米国製造業から▲200万人の雇用を奪ってきた。年間では▲20万人に過ぎないが、製造業の雇用減は、製造業のほかに代わりの雇用がない州、特定の町に集中し、地域経済には大きな打撃だった。
▼米国が貿易の不利益を被るメカニズムは、「トリフィンのジレンマ」で説明できる(経済学者ロバート・トリフィン<1911-1993年>はエール大教授、ベルギー生まれ)。まず、米国は基軸通貨ドルを世界に幅広く提供している。ドルは、国際決済通貨として米国以外の国々に使われるから、そこで超過需要が生まれる(準備通貨の需要)。その超過需要が過大な通貨高=ドル高を生み出す。ドル高は米国の輸入価格を割安にして輸入数量を増やす。一方で、輸出価格は割高になって、輸出数量は減る。よって、貿易収支は赤字になってしまう。世界経済が成長するほどにドル需要が生み出されるから、構造的にドル高が生じる。そして、米国はますます貿易赤字化するというジレンマが起こる。
関税政策
トランプ大統領は、貿易赤字の解消を狙って、相互関税、自動車・鉄鋼アルミの追加関税を実施している。こうした関税発動には、米国のインフレ加速につながるという批判もある。その点について、ミラン論文では次のようにしている。
- ▼トランプ関税は、2018・2019年に中国に対して実行されて、成功した経験がある。関税政策は、インフレを発生させず、目立ったマクロ経済的な悪影響をもたらさなかった。中国への関税を例にとると、2018・2019年は米国が17.9%の関税を課した。それに対して人民元は▲13.7%減価し、ドル建ての輸入価格は4.1%しか上昇しなかった(図表)。関税率引き上げの効果は、人民元切り下げでオフセット(▲76%)されるかたちになった。貿易戦争によるインフレはごく限定的だったという教訓である。もう一方で、米国政府は関税政策で歳入を増やすことができた。

▼関税率の引き上げを、自国通貨の切り下げでオフセットした貿易相手国(輸出国)は、通貨安で輸入価格が値上がりするため、その国民が貧しくなる(交易条件悪化)。だから間接的に、米国に税金を支払っていることになる。
▼一方で、仮に、貿易相手国が通貨切り下げを行わない場合は、輸入業者が利益を圧縮される。米国の消費者が高い価格を支払うことになる。それでも、時間とともに輸入業者は、割高な輸入品を別の製品に代替するから、貿易赤字は解消に向かっていく。
▼関税政策は、国家安全保障と貿易を一体化して考えることができる。米国からの視点でみると、防衛の傘の下に入りたい国々は、関税率を支払ってでも、現在の貿易システムの傘の下に入った方がよいと言える。同盟国は、より高い関税率を支払ったとしても、それはそれほどひどいことではない。
▼国々は、同盟国、敵国、中立貿易相手国に区分する。同盟国は、安全保障と経済の傘の下にあるため、負担の分担(関税率)は大きくなる。その代わりに、取引や為替などに関する有利な貿易条件を享受できるようにする。
マール・ア・ラーゴ合意
前述のように、米国の貿易赤字の背後には、構造的なドル高(トリフィンのジレンマ)があるので、それを是正することを検討している。実は、ミラン氏自身は、ドル安調整に必ずしも積極的な訳ではなく、「政策提唱ではなく、利用可能なツールをカタログ化して、それらがどれほど役立つかを分析する」とやや中立的な姿勢を示している。
▼過去、1985年のプラザ合意、1987年のルーブル合意があった。今後、一連の懲罰的な関税の後、欧州や中国のような貿易相手国が、関税削減と引き換えに何らかの通貨協定を受け入れるということは想像できる。それをトランプ大統領の別荘にちなんだ「マール・ア・ラーゴ合意」と表現することができる。21世紀の多国間通貨協定という思考実験だとしている。
▼手段は、海外の通貨当局の保有する外貨準備(ドル)の売却。これは協調介入と同じことになる。外貨準備が売られるとき、海外通貨当局が保有する米国債も減少する。それによって、米国は国債発行での資金調達に困ることになる。かつて、プラザ合意の時は、米国債務はGDP比で40%だったが、それが120%まで膨れ上がっていて、米政府は資金調達ニーズが大きくなっている。
▼もしも、通貨調整=ドル切り下げを行った場合、海外投資家がドル保有を敬遠するリスクが生じる。米長期金利は上昇する。ほかにも、例えば、▲20%のドル切り下げで、消費者物価は+0.6~1.0%ポイントの上昇が見込まれる。FRBは、政策金利を1.0~1.5%ポイント引き上げる可能性がある。
▼ドル安を誘導するには、海外の通貨当局にドル売りをさせる必要があるが、そこでの副作用は米政府の資金調達が困難になる点である。長期国債の代わりに、別の方法で米政府が海外通貨当局などから資金調達する手段を講じなくてはいけない。
▼ポーザー氏の提言として「100年国債」(割引債)を発行して、既存の利付国債と入れ替えることを考えた。購入の相手は、海外の通貨当局で、この100年国債を買ってもらい、米国は安全保障の資金調達の手段とする。安全保障の恩恵を受ける国々が、もしもそれを断ればより高い関税をかける。この100年国債=割引国債は、米政府にとって利払い負担を大きく軽減できる。
▼海外通貨当局は、いざというときに備えて米国債を保有し、それを担保にドルの流動性を確保したいと考えている。だから、米国債の代わりに、緊急時にドル貸付をFRBから受けられる通貨スワップ協定を結ぶ。そうすると、売却できない100年国債を保有していても、いざという時に資金調達ができる。
▼また、多国間協定ではなく、米国が単独でドル安のための調整をすることも考えられる。それは、非常手段として「一国での通貨調整」のアイデアである。このアイデアは、独立した中央銀行FRBにドル安誘導のために利下げを強制するというものとは別の手段である。①海外の国債保有者に対して、手数料を課す方法。これは、支払利息に料金をかけて、実質的に利息を減らすことになる。海外の通貨当局が、外貨準備として米国債(ドル)を持つことを阻止する狙い。②財務省の為替介入(ドル売り)をして、FRBがそれをバックアップする。FRBはツイストオペで長期国債を購入し、財務省の資金調達に協力する。
▼ウォール街のコンセンサスは、通貨調整を多国間・一国で行うための手段がないとしている。しかし、それは間違いで、上記のようにいくつかの手段は存在する。
まとめ
ミラン論文には、ドル安誘導についての様々な論理的弱点や副作用が隠れている。この点は、別稿で論じることにする。
とはいえ、トランプ大統領が奥の手としてドル安を検討していることは、このミラン論文からわかってくる。ただ、それは副作用も大きいので、すぐに実行できるシナリオではない。だから、実行に移すとしても。このミラン論文で検討されているよりも、さらに用意周到に考えられるだろう。トランプ大統領がパウエル議長の辞任を呼びかけたことも、ドル安誘導に向けた布石という理解もできる。先を読む上でこうした論文が参考になると思う。