創業100年を超える老舗飲料メーカー、株式会社友桝飲料。ラムネ製造から始まった同社は、四代目社長・友田氏のリーダーシップのもと、ニッチなニーズに応えるODM(Original Design Manufacturing)事業を確立し、売上高を飛躍的に伸ばしてきました。本インタビューでは、その独自の事業戦略、若き日の事業承継の舞台裏、そして地域創生を見据えた未来への展望に迫る。

友田 諭(ともだ・さとし)──代表取締役社長
1975年、佐賀県生まれ。1998年、九州大学卒業後、老舗総合商社へ入社。2000年、家業である友桝飲料へ入社し、翌年、4代目社長に就任(当時25歳)。2018年に稲盛経営者賞を受賞。2019年SBI大学院大学にてMBA取得。炭酸水の製造販売やODMを中心とした炭酸飲料開発を主軸としながら、2014年には株式会社炭酸生活総合研究所を設立し、研究にも力を注ぐ。2025年、新製品開発並びに新市場、新事業創造など、長年の経営革新を通じた業界振興および地域経済への貢献に対し、藍綬褒章を受章。

株式会社友桝飲料

1902(明治35)年、友桝飲料は佐賀県小城市にある、小さな町の小さなラムネ屋が始まり。創業当初からの「他の人より、一歩先んじる」という精神を創業120年を超えた今も大切にしている。飲み物業界に多様性を提供することをミッションとして様々な飲み物づくりに取り組み、これまで開発した商品は1,000種類以上。看板商品は「スワンサイダー」や「こどもびいる」。どこかの誰かの記憶の片隅に残る飲み物をこれからもつくり続けるという。

目次

  1. ■ミッションは「飲み物業界に多様性を提供する」こと
  2. ■25歳で社長就任、売上2.4億円から187億円への飛躍を支えた「任せる経営」
  3. ■ラムネが主力の時代、冬は機械が遊んでいた 中経はたてずに1年ごとに計画して進む
  4. ■新しい市場開拓をどこよりも早く 強みを生かして一つひとつ取り組めば事業はうまくいく

■ミッションは「飲み物業界に多様性を提供する」こと

── 御社は1902年創業で、今年で123年目になりますね。社名は創業者の名前から取られたのでしょうか。

友田 はい。創業者の曽祖父である友田桝吉の名前から「友桝」を取り、「友桝飲料」と名付けられました。創業は1902年、長崎街道の宿場町である牛津の宿で、当時最先端の飲み物だったビー玉で栓をするラムネの製造からスタートしました。

明治時代に清涼飲料、特に炭酸飲料が日本に普及し始めた頃、曽祖父がラムネを作り、その後、王冠で栓をする瓶入りサイダーへと事業を拡大しました。昭和初期には瓶入りサイダーまで手掛けるようになりましたが、曽祖父が亡くなり、二代目が事業を継ぎました。戦時中は休業状態でしたが、戦後に設備を刷新し、瓶入りサイダーの宅配事業を九州一円で展開しました。

しかし、外資系企業や大手メーカーの参入により、瓶入りサイダーの市場は縮小していきました。昭和60年代頃からペットボトルが解禁されると、三代目である父の代でペットボトル入り炭酸飲料の製造に進出しました。

── 社長が入社されたのは2000年、24歳のときとのことですが、当時はどういう状況だったのでしょうか?

友田 当時の売上は約2.4億円でした。大手メーカーが寡占する市場で収益性は低く、将来の展望が見えない状況でした。

そこで、100年続いた会社が持つ「人」「設備」「飲み物を作る技術」という強みを活かし、オーダーメイドの商品開発、つまりニッチな市場に特化したODM事業を始めました。これが現在の「飲み物業界に多様性を提供する」という弊社のミッションにつながっています。大量生産品ではなく、「一本でも欲しい」と言われるようなお客様の声を形にしていくことが、弊社の強みであり、現在の成長の原動力となっています。

── 御社のODM事業は、売上比率でいうとどれくらいですか?また、そのODM事業が、大手流通企業のプライベートブランドのような大規模なOEM案件につながった経緯についてもお聞かせください。

友田 ODM事業単体での売上比率は、厳密には1〜2割、最大でも2割程度です。しかし、このODM事業がきっかけとなってマーケットが広がり、現在の友桝グループ全体の売上187億円のほとんどがそこから始まったと見ることもできます。

弊社は「飲み物業界に多様性を提供する」というミッションのもと、一定の規模に満たないと作ってもらえないような商品でも、個人のお客様の「一本から作りたい」というニーズに応えるスキームと仕組みを持っています。これにより、常に新しいものが生み出されており、それが結果として拡大するものもあれば、限定的にとどまるものもあります。しかし、拡大しなくても、それをサービスとして世の中に提供したいと考えています。

たとえば、ご当地サイダーや強炭酸の無糖天然炭酸水は、弊社が業界でいち早く市場を開拓しました。大手流通企業のプライベートブランドの案件も、彼らが「売れるものを作る」という方針のもと、市場で既に売れている商品、つまり弊社ブランドの商品を見つけた結果それを作っている会社に声をかけたという経緯もあります。

大手メーカーは自社ブランドとの競合を避けるためPB製造を断ることがありますが、弊社はメーカーでもあり、OEM供給も行う柔軟なポジションを取れるため、お客様に応じた最適なご提案ができます。常に他社に先駆けてチャレンジングな商品を開発し、多様なポジションでビジネスを柔軟に展開できることが、弊社の大きな強みだと考えています。

■25歳で社長就任、売上2.4億円から187億円への飛躍を支えた「任せる経営」

── 2000年に24歳で入社されて、翌年には25歳で社長に就任されたと伺っております。その経緯と、当時の会社の状況、そしてそこから現在までどのように事業を拡大されてきたのでしょうか?

友田 事業承継の経緯は、よくある家業のパターンです。曽祖父が創業し、祖父が二代目として長く会社を経営し、父が三代目として仕事をしていました。私が会社に戻った2000年当時、売上は約2.4億円で、社員は親族4人と外部からの社員1人、パートさんが10〜15人という、親族とパートの年配女性を中心に回している会社でした。

幼い頃から祖父や父の働く姿を見て、「悪くないな」と感じていたので、将来この事業をやっていきたいという意識は自然とありました。祖父も父も、私が継ぐことを期待していたと思います。

若くして社長になったのは、祖父と父があまり仲が良くなかったことも一因です。一方で孫は可愛いものとみえて祖父からはすぐに社長になるよう背中を押されました。父も職人気質で、対外的な経営者としての振る舞いよりも現場を重視するタイプでしたので、「お前がやりたいならやりなさい」という話になりました。

会社に戻って1年間、現場で様々な業務を経験し、2年目には社長に就任しました。当時の父は50代、祖父も健在でしたから、若輩の私が社長になることに周囲は驚いたかもしれません。

しかし、弊社の事業承継が成功した最大の要因は、祖父も父も私に全てを任せてくれたことです。今この年齢になって振り返ると、これは簡単なことではありません。私が代表になって以降、彼らが陰で心配していたことは後から耳にしましたが、私の決定に口出ししたり、力ずくで止めさせたりすることは一切ありませんでした。自由にやらせてもらえたことが、非常に大きかったと感じています。

■ラムネが主力の時代、冬は機械が遊んでいた 中経はたてずに1年ごとに計画して進む

── 社長就任時2.4億円だった売上が、現在ではグループ全体で187億円と、約80倍もの事業成長を遂げられました。その中で、特に苦心されたことや、壁にぶつかった経験はございますか。

友田 壁にぶつかったという感覚はあまりないのですが、一番時間を要し、大変だったのは、工場移転までの土台作りだったかもしれません。創業の地である住宅街の中の工場で、売上2.4億円から8億円にまで成長させました。その後、2012年に小城工場へ移転するのですが、この移転が売上8.4億円の時に6.6億円という大きな投資でした。この大規模投資に踏み切るまでの準備に時間がかかったという印象です。

私が会社に戻った当時、ラムネやサイダーが主力だったため、夏は忙しいものの冬は機械が遊んでいる状態でした。そこで、ODM事業や自社商品を含め、年間を通して一定の生産稼働率を維持できるような受注を獲得することに注力しました。この土台ができたことで、工場移転という大きな投資が可能になりました。

移転後は、5年で売上が3倍になるなど、需要が急速に拡大しました。そうなると、今度は「人」の問題が浮上します。企業の成長を支えるための人材採用、育成、そして個々の実力アップは、どの会社にとっても共通の課題であり、現在進行形で力を入れている部分です。

弊社の成長は、計画的というよりも、目の前の課題に一つひとつ着実に取り組んできた結果です。中期経営計画のような3年、5年といった計画は基本的に立てません。過去に計画を立てて、投資計画は予定通り進むものの、売上計画が外れるという苦い経験があったからです。

そのため、基本的には1年ごとに、状況が整わなければ計画を中止するというスタンスで事業を進めています。この「地に足のついた」やり方が、結果としてリスクヘッジにもなり、着実な拡大につながっているのだと思います。

■新しい市場開拓をどこよりも早く 強みを生かして一つひとつ取り組めば事業はうまくいく

── 今後の事業展開や既存事業の拡大プランについてお聞かせください。

友田 今後の事業展開も、これまでの延長線上にあると考えています。「飲み物業界に多様性を提供する」というミッションのもと、常に新しいことに挑戦し続けることです。2012年に新しい小城工場を建設して以来、基本的には同じことを繰り返し、その中でご当地サイダーや無糖炭酸水シリーズ「天然炭酸水」「強炭酸水」のようなヒット商品が生まれれば、それに合わせて事業規模が拡大するという形です。弊社の強みを強化し続けていれば、自然と成長していくと考えています。

清涼飲料のジャンルから、アルコール業界やアイス業界へと領域を広げることもあります。たとえば、今年1月にはトッパングループからパウチ容器の充填工場を引き継ぎました。これは、トッパンさんが事業売却を検討していた際に、たまたま弊社に声がかかったものです。これにより、清涼飲料だけでなく、「パウチゼリー飲料」や昨年発売を開始した「パウチ容器入り氷菓」のような常温で流通させるアイスのマーケットにも参入できるようになりました。

このように、どこよりも早く新しい市場を開拓し、マーケットが広がれば、先行者として弊社も成長していくということを今後も続けていきたいと考えています。

── なるほど。地域創生や事業承継といった分野へも貢献されていらっしゃいますが、社長としてどのようなお考えをお持ちでしょうか?

友田 地域創生や事業承継への貢献については、たまたまご縁があったからという側面が強いんです。

たとえば、宮津の日本酒の酒蔵を承継した件は、金融機関から後継者不在で困っているという話があり、ブランドを残し成長させてくれそうな会社として弊社に声がかかりました。清涼飲料で傾きかけた会社を成長させてきたノウハウや事業スキームは、業種を横にずらしても応用できると考えています。

事業承継で困っている企業は少なくありません。特に、地域にとって重要なブランドや、なくなるとその地域への影響が大きい酒蔵などは、何としても残したいという思いがあります。そうしたブランドを承継し、さらに「日本酒でもこんなことができるんだ」という新しい価値を創造していくことに取り組んでいます。

── 読者の中に少なからずいる、事業承継に悩んでいる経営者にとっても参考になるお話がうかがえました。

友田 弊社のこれまでの話が、どこかの誰かの参考になれば幸いです。私自身は、ものすごく大きな高い目標を掲げて事業を行ってきたわけではありません。ただ単純に、引き継いだ会社が持つ強み、あるいは今持っている強みやできることを最大限に活用し、目の前の打ち手を一つひとつ着実に打っていった結果が、今の成長につながっています。

あまり仰々しく考えなくても、自社の強み、つまり相対的優位性を持つ部分を間違えずに伸ばしていけば、事業は自然とうまくいくのではないかと考えています。

氏名
友田 諭(ともだ さとし)
社名
株式会社友桝飲料
役職
代表取締役社長