昨年の今ごろ、米国はピケティ・ブーム一色でした。書店には、フランスの経済学者トマ・ピケティ教授が著した格差論である『21世紀の資本』の英訳が平積みにされ、飛ぶように売れていました。米国のテレビや新聞・雑誌は、高額所得者がますます富むことが必定だとする同教授の「r(資本収益率)> g(経済成長率)」という考え方について、連日のように取り上げ、専門家の批評などを紹介していました。そして、アメリカで火が付いたブームが日本にも飛び火したのは、みなさんご存じのとおりです。

あれから一年。米国ではすっかりブームは去り、今年1月にピケティ氏の訪日に沸き上がった我が国でも、もう話題にする人は少なくなりました。世界的名声を博したピケティ氏は勤務先のパリ経済学校から、自身が博士号を取得した古巣のロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに招聘されることが決まり、新しい理論の研究に打ち込むことになりました。再び世界を沸かせることが期待されています。

ここで、ピケティ・ブームとは何だったのか、振り返って功罪を総括してみましょう。ピケティ氏の格差論の貢献は何といっても、(1)これまで裏付けが不十分だった富の格差拡大のメカニズムを、過去100年以上の各国税務データを駆使し、系統立てて示したこと。(2)従来、格差論に否定的だった人たちが、その正当性を(部分的にであれ)認めるようになったこと。(3)それによって、議論の裾野を大幅に、そしてグローバルに拡げたこと。

事実、ピケティ氏が非難する「富む者がますます富み、貧しい者がますます貧しくなる」事象を体現している世界一の富豪である米マイクロソフトの創業者ビル・ゲイツ氏でさえ、彼の本を熟読したうえで、「非常に重要な貢献だ」と賛辞を送っています。

世界中で、正しい富の分配方法とは何かをめぐり、人々が思案をめぐらせ続けています。それが社会の安定や持続性と切り離せないことを人々は知っており、ピケティ教授の理論が正しい方向性を見付けるカギになるかも知れないと考えるからです。


具体性を欠く処方箋

しかし、ピケティ教授が盛り上げた格差論議は、処方箋が大胆なわりには具体性に乏しく、方向性があいまいにしか示されませんでした。そのため、「どうすればよいのか」という議論がかえって説得力を持てなかった側面があります。

まず、ピケティ氏が提言した富裕層に対する累進的な所得税課税については、どれくらいの税率が適切なのか、意見が分かれるところです。ちなみに、彼の本国フランスでは現社会党政権が高額所得者の最大所得税率を75%まで引き上げたため、同国の世界的俳優ジェラール・ドパルデュー氏(65)が低税率のロシアに「税逃れ亡命」をした象徴的な出来事が起こりました。ピケティ教授はこの税制改革を「税率の行き過ぎと、方法論の誤りから大災害をもたらした」と批判しており、あまりの不評にこの制度は今年2月1日付で廃止されました。

また、税逃れ亡命を防ぐには各国政府の国際的協力が欠かせないのですが、どのような国際機関が執行役になるのか、まだ議論は始まったばかりです。ピケティ教授は、TPP(環太平洋経済連携協定)の欧州版TTIP(環大西洋貿易投資パートナーシップ、略称の読み方はティー・ティップ)が国際課税協力の執行機関になれると主張しているのですが、貿易協定に果たして課税と富の再分配という役割を与えることができるのか、議論があります。さらに現状では、富の再分配の方法を決めないまま各国政府の税収を増やすことになってしまいます。

こうした「欠陥」があるにせよ、ピケティ教授が敢えて「挑発者」の役を引き受け、格差を縮小することが必要だと訴えたことは、世界中の多くの人に共感を持って受け止められました。ブームは去りましたが、議論は拡がりながら続いています。はっきりとした解決の道筋が見えたわけではありませんが、ピケティ氏の提言が経済のあり方そのものに関する議論を深めたことで、ブームは大いに価値があったといえるでしょう。