都庁
(写真=PIXTA)

東京都の小池百合子知事が所信表明で引き合いに出した旧東京市長の後藤新平(1857-1929)。医師であり、台湾総督府民政長官や満鉄初代総裁も務めた後藤は、鉄道院総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣、そして東京市第7代市長を歴任。

さらにはボーイスカウト日本連盟初代総長、東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁、拓殖大学第3代学長なども務めている。

東京の基礎をつくった後藤の業績を振り返る(文中、敬称略)。

100年先の未来を見据え「見果てぬ夢」を追いかけた男

1857年(安政4年)現岩手県欧州市である水沢藩士の家に生まれた後藤。医師となり、33歳でドイツに留学。帰国後は衛生局長となって東京の下水道整備や公衆衛生行政の礎を築いた。日清戦争の帰還兵のコレラ上陸阻止でも実績をあげている。

台湾総督府民政局長時代には、台湾銀行を設立。資金を確保する為に政府・議会を動かし公債発行法案を発効したという。また台湾では、鉄道、道路、水道、病院、教育施設など社会インフラへの大型投資や農業政策を抜本的に見直し、近代的製糖業の育成策も講じたという。

台湾での実績を買われた後藤は、南満州鉄道の初代総裁に。そして1923年9月1日に発生した関東大震災後、山本権兵衛内閣のもとで帝都復興院総裁として震災復興にあたり、帝都建設に尽力した。昭和通り、日比谷通り、晴海通りなどの主要幹線道路は復興案に従って建設されたものであり、環状線計画は東京市長時代からの構想と言われている。

国が病にかかったら治す手立てを講じ、地震が何度でもやってくるなら大きな被害を出さないため公園と道路をつくる。医師の発想から後藤は人体を都市に例え、道路網や鉄道網は“血管”であり、関東大震災で学んだ100年先の日本を見据えた後藤の変わらぬ哲学が生かされるべきとしているのである。

人のお世話にならぬよう 人のお世話をするよう そしてむくいを求めぬよう

「都民ファースト」を掲げた小池知事は、なれ合いや根回しで丸く収めるのでなく、議論をぶつけ合い、都民全体の利益を最大化する新しい都議会の姿として「東京大改革」を推進すると掲げた。その改革の決意と姿勢を示すべく引用したのが、「帝都復興構想」を掲げ100年先の未来を見すえた政治家、後藤新平だった。

医学会出席のための岡山行きの夜行列車の中で心臓発作を起こし、その後1929(昭和4)年4月13日、午前5時ごろ、京都府立病院で手当の甲斐もなく71才で亡くなった後藤。そのモットーは、「人のお世話にならぬよう 人のお世話をするよう そしてむくいを求めぬよう」だったという。

後藤新平が苦労してつくった東京の骨格に、「ぜい肉」が付き、「巨大な肥満都市・東京」になってしまっている。今の都民だけではなく、100年後の都民のために働かなくてはいけない。都知事に限らず、職員、議員にもあらためて後藤の言葉の重みを受け止めてもらいたいものだ。(ZUU online編集部)

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