伊藤博文は明治政府が発足して間もないころから、教育を重要視する政策を打ち出していた。そして、工業に資する人材育成を行うべく、工部大学校の設置に尽力。その後、工部大学校は紆余曲折を経て、東京大学工学部に至っている。帝国大学を作り出した伊藤の情熱を垣間見てみよう(文中敬称略)。

(本記事は、小川裕夫氏の著書『東京王』=ぶんか社、2017/10/28=の中から一部を抜粋・編集しています)

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東京の父・伊藤博文

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国会開設が決まってから、それまで太政官制を採用していた明治政府は明治18(1885)年に内閣制に移行し、伊藤博文を初代の総理大臣に選出した。初代総理大臣は明治政府首脳の合議で決められた、ここでも伊藤の教育が物を言った。

内閣総理大臣を決める会議では、公家の最高峰・摂家に次ぐ清華家出身の三条実美と伊藤とが初代総理大臣の最終候補に挙がっていた。家柄から考えれば、下級武士出身の伊藤に勝ち目はなかった。誰もが実力的には伊藤と思いながらも、三条を慮って口に出せずにいた。そうした雰囲気の中で井上馨が「今後、日本のリーダーは英語ができなければダメだ」と口火を切ったことで、初代総理大臣に伊藤が就任する。こうして伊藤は内閣総理大臣に就任したが、内閣制が発足したときに日本には議会が存在しなかった。

大日本帝国憲法下では総理大臣は国会議員である必要はなかった。現在でも民間人が大臣に起用されることはあるが、総理大臣は憲法で国会議員から指名することが定められている。一方、明治期は元老会議が首相候補を天皇陛下に推奏し、天皇のお眼鏡に叶う人物に大命が下されていた。後年、元老会議は重心会議と名を変えたが、日本国憲法が施行されるまでは同じ形式だった。そのため、国会議員ではなかった東條英機も総理大臣に就任している。

内閣制には移行したものの、政治を議論する場となる国会議事堂はまだなかった。そのため、明治23年(1890)に開会した帝国議会は仮議事堂で行われた。仮議事堂は火災や関東大震災などで何度も倒壊。仮にも関わらず、議事堂は2度も建て替えられ、広島の臨時も含めると計4つの仮議事堂がつくられた。

そして、ようやく現在の位置に正式な国会議事堂が竣工した。国会議事堂を設計した人物は諸説あってはっきりしない。現在の通説では、複数人が手分けをしてデザインしたと言われ、矢橋賢吉・大熊喜邦・吉武東里の3人が主要人物とされている。そのうち、矢橋と大熊は工部大学校の後身となる東京帝国大学工科大学の出身だった。伊藤が日本の工業化のために推進した工部大学校が、国会議事堂の建設でも貢献したことになる。

国家の建設に尽力した伊藤は江戸から東京に変貌した都市を教育の都にしようと奔走した。

現在、東京には多くの大学が集まっている。伊藤が描いた東京は実現したと言っていいかもしれない。

小川裕夫(おがわ ひろお)
フリーランスライター・カメラマン。1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者などを経てフリーランスに。2009年には、これまで内閣記者会にしか門戸が開かれていなかった総理大臣官邸で開催される内閣総理大臣会見に、史上初のフリーランスカメラマンとして出席。主に総務省・東京都・旧内務省・旧鉄道省が所管する分野を取材・執筆。