伊藤博文は明治政府が発足して間もないころから、教育を重要視する政策を打ち出していた。そして、工業に資する人材育成を行うべく、工部大学校の設置に尽力。その後、工部大学校は紆余曲折を経て、東京大学工学部に至っている。帝国大学を作り出した伊藤の情熱を垣間見てみよう(文中敬称略)。

(本記事は、小川裕夫氏の著書『東京王』=ぶんか社、2017/10/28=の中から一部を抜粋・編集しています)

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東京の父・伊藤博文

平成27(2015)年に世界遺産に認定された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」は、北は岩手県から西は鹿児島県まで、8県にまたがる。その前年に世界遺産に認定されていた群馬県の富岡製糸場も明治日本の産業革命を担ったという点では共通している。これらが世界遺産に認定された影には、明治政府が明治3(1870)年に設立した工部省が果たした役割が大きい。

まだ維新の混乱が続いていたから無理もないが、明治政府は発足当初、大蔵省や民部省といった役所しかなかった。日本は西洋列強と肩を並べるべく、基幹産業を農業から工業へとシフトさせるべきだとの意見が相次ぐ。

工部省の設立は、そうした声に政府が応えようとしたものだが、工部省の役割は鉄道・造船・鉱山・製鉄・電信といったインフラの整備が主眼にあった。今から見ると、工部省が所管する分野の中には、明らかに民間が担うような産業も含まれているが、まだ工業化という萌芽がなかった明治期の日本において、官という力が推進して先鞭をつけなければならなかったという事情もあった。設立された工部省には現在で言えば大臣にあたる工部卿が存在しなかったが、発足から3年後には初代工部卿に伊藤博文が任命される。

今般、伊藤博文は大日本帝国憲法を起草し、初代の内閣総理大臣として記憶されている。そのため、明治日本における国家の骨格をつくった人物というイメージが強く、東京王というイメージで語られることはない。しかし、伊藤の足跡を仔細に見ていくと、伊藤は明治日本の骨格をつくると同時に、一等国へと邁進する日本の首都・東京をつくることにも尽力していた。

最下層からの飛躍

その第一歩が工部卿への就任だった。工部省は明治政府が掲げる富国強兵と殖産興業のうち、片翼である殖産興業の先導役でもあった。そんな重要官庁でもある工部省のトップに伊藤が抜擢されたのには理由があった。

伊藤は工部卿に就任する前、兵庫県知事を務めていた。今般、兵庫県知事は一地方都市の首長としか見られないが、当時は指折りの重要ポストでもあった。当時の兵庫県は開港地・神戸を抱える要衝地であり、横浜と並んで外国人が多く押し寄せる都市だった。それまで鎖国体制を敷いていた日本は、外国人との接し方に困惑していた。それゆえに、これまでの旧習にとらわれない若い力をふんだんに起用した。伊藤は兵庫県知事として外国人相手に直に接し、世界の新しい知識をどんどん吸収した。

伊藤が学ぶ姿勢は、年を重ねても衰えなかった。明治維新前、伊藤は長洲藩の仲間たちとイギリスに留学しているが、明治政府の役人になった後もナショナルバンクの視察でアメリカへ、憲法調査のためにドイツに渡って見聞を広めている。

伊藤が学ぶことを重要視したのは、彼の来歴にあった。明治期に伊藤が政治の第一線に立ち続けられたのは、新しいものを諸外国から学び続けることができたからだ。

伊藤は周防国(現在の山口県)の百姓出身だったが、父親が足軽の養子になったことで士族に滑り込んだ。いわば、武士の中でも最下層の部類に属していた。長洲藩内には身分を問わず、士族でも町民でも学ぶ意欲があれば通うことができる松下村塾があり、伊藤もそこに通うことができたのは幸運だった。松下村塾に入塾したものの、伊藤は身分が低いために教室には入ることができず、立ち聞きで学ぶしかなかった。そんな境遇にありながら伊藤はメキメキと頭角を現し、イギリス留学の切符を手にする。留学先のイギリスでは、近代化したヨーロッパの知見に触れた。伊藤は誰よりも英語を素早く習得。知見と語学力は、兵庫県知事時代に活かされた。いわば、学ぶという行為は、伊藤の政治的原動力でもあった。

帝国大学の誕生

それだけに伊藤は明治政府が発足して間もないころから、教育を重視する政策を打ち出している。

先に触れた工部省の発足に伴って日本の工業化路線を打ち出した際には、国が工業化政策を主導するだけでは工業が振興するとは考えず、伊藤は工業に資する人材育成を行うべく、工部大学校の設置に尽力した。工部大学校は紆余曲折を経て、東京大学工学部に至っている。工部大学校は、日本に多くの西洋建築を建て近代化を牽引したジョサイア・コンドルを筆頭に外国人も教鞭をとっていた。工部大学校は東京駅のデザイナーとして知られる辰野金吾、旧東宮御所(現・迎賓館)のデザイナー・片山東熊、理化学研究所の設立人を務めた高峰譲吉、京都の近代化を牽引した日本初の水力発電所・琵琶湖疏水を手掛けた田辺朔郎などを輩出。こうした優れた人材が、日本を一等国に押し上げることになった。

伊藤は工部大学校を設立し、建築や土木といった分野で一流の技術者を育て上げるだけでは飽き足らなかった。教育の力を絶対的に信じ、教育体制を構築して日本の教育水準を押し上げるために明治12(1879)年に教育議を上奏。それが引き金になり、明治政府は教育令を発令した。さらに、東京開成学校と東京医学校が統合して明治10(1877)年に誕生した東京大学に、さらに工部大学校を統合させて東京大学の総合大学化を図った。工部大学校を統合した東京大学は、同時に日本初の帝国大学になった。いわば、伊藤は帝国大学の生みの親とも言える。

伊藤の教育への情熱はそれだけではなかった。伊藤が明治4(1871)年に岩倉使節団の一員として渡米した際、一行の中には津田梅子もいた。津田塾大学の創始者として知られる津田は、そこで伊藤との知遇を得た。女性の社会進出など夢のまた夢の時代に、伊藤は津田の才能を見抜き、そして津田を世に送り出そうとした。帰国後に鹿鳴館で津田と再会した伊藤は、英語指導と通訳として津田を伊藤家で雇った。伊藤家で働くことは津田を経済的にバックアップする意味もあったが、なにより津田は伊藤の後押しにより社会的信用を得た。明治33(1900)年に津田は女子英学塾を開学するが、その裏には伊藤のただならぬ力があったことは言うまでもない。

伊藤自身も女子教育には熱心だった。明治19(1886)年に女子教育奨励会創立委員会を設立し、女子の教育機関を立ち上げる準備を進めていた。女子教育奨励会創立委員会には、伊藤をはじめ渋沢栄一や岩崎弥之助などの財界人も名を連ねていた。それが社会的信用力にもつながり、女子教育の充実は政財界の重要な課題となっていく。こうした社会的意義が評価されて、女子教育奨励会創立委員会は明治21(1888)年に学校の名称を東京女学館として開校。キャンパスは東京・千代田区にあった閑院宮邸が充てられた。

維新三傑の後続

伊藤が東京に残したもう一つの遺産が国会という政治の中枢を構想したことだろう。明治10(1877)年に木戸孝允が病没し、同年9月に西南戦争に敗北した西郷隆盛が自刃、明治11(1878)年には大久保利通が暗殺された。

維新の三傑が相次いでいなくなり、明治日本を牽引するリーダーたちは一気に世代交代した。三傑亡き後の明治政府を牽引したのは、伊藤のほか山県有朋、そして佐賀藩の大隈重信だった。大隈は国会を早急に開いて、選挙による政治家の選出をすべきと主張した。しかし、議院内閣制を導入すれば公家出身の三条実美や岩倉具視は特権的な立場を失う。

薩摩・長洲出身下級武士から成り上がった志士たちもこれまでの苦労が水の泡になってしまう。それらを危惧していた明治政府の首脳たちは、できるだけ国会の開設を遅らせようとしていた。ところが、日に日に国会開設を求める世論が強まり、それらの声を受けて明治14(1881)年に明治天皇が開設を表明。準備期間を必要とするため、10年後に国会が開設されることが決まった。

初代総理への道

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(画像=Thinkstock/GettyImages)

国会開設が決まってから、それまで太政官制を採用していた明治政府は明治18(1885)年に内閣制に移行し、伊藤博文を初代の総理大臣に選出した。初代総理大臣は明治政府首脳の合議で決められた、ここでも伊藤の教育が物を言った。

内閣総理大臣を決める会議では、公家の最高峰・摂家に次ぐ清華家出身の三条実美と伊藤とが初代総理大臣の最終候補に挙がっていた。家柄から考えれば、下級武士出身の伊藤に勝ち目はなかった。誰もが実力的には伊藤と思いながらも、三条を慮って口に出せずにいた。そうした雰囲気の中で井上馨が「今後、日本のリーダーは英語ができなければダメだ」と口火を切ったことで、初代総理大臣に伊藤が就任する。こうして伊藤は内閣総理大臣に就任したが、内閣制が発足したときに日本には議会が存在しなかった。

大日本帝国憲法下では総理大臣は国会議員である必要はなかった。現在でも民間人が大臣に起用されることはあるが、総理大臣は憲法で国会議員から指名することが定められている。一方、明治期は元老会議が首相候補を天皇陛下に推奏し、天皇のお眼鏡に叶う人物に大命が下されていた。後年、元老会議は重心会議と名を変えたが、日本国憲法が施行されるまでは同じ形式だった。そのため、国会議員ではなかった東條英機も総理大臣に就任している。

内閣制には移行したものの、政治を議論する場となる国会議事堂はまだなかった。そのため、明治23年(1890)に開会した帝国議会は仮議事堂で行われた。仮議事堂は火災や関東大震災などで何度も倒壊。仮にも関わらず、議事堂は2度も建て替えられ、広島の臨時も含めると計4つの仮議事堂がつくられた。

そして、ようやく現在の位置に正式な国会議事堂が竣工した。国会議事堂を設計した人物は諸説あってはっきりしない。現在の通説では、複数人が手分けをしてデザインしたと言われ、矢橋賢吉・大熊喜邦・吉武東里の3人が主要人物とされている。そのうち、矢橋と大熊は工部大学校の後身となる東京帝国大学工科大学の出身だった。伊藤が日本の工業化のために推進した工部大学校が、国会議事堂の建設でも貢献したことになる。

国家の建設に尽力した伊藤は江戸から東京に変貌した都市を教育の都にしようと奔走した。

現在、東京には多くの大学が集まっている。伊藤が描いた東京は実現したと言っていいかもしれない。

小川裕夫(おがわ ひろお)
フリーランスライター・カメラマン。1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者などを経てフリーランスに。2009年には、これまで内閣記者会にしか門戸が開かれていなかった総理大臣官邸で開催される内閣総理大臣会見に、史上初のフリーランスカメラマンとして出席。主に総務省・東京都・旧内務省・旧鉄道省が所管する分野を取材・執筆。

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