渋沢は資本主義の父と呼ばれた男である。設立にかかわった企業は、第一銀行、王子製紙、日本郵船、日本鉄道など、現在でも一流企業として経済に大きな影響を及ぼし続けている企業群だ。そんな渋沢の人生を読んでみよう(文中敬称略)。
(本記事は、小川裕夫氏の著書『東京王』=ぶんか社、2017/10/28=の中から一部を抜粋・編集しています)
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一流企業を産んだ男
平成12(2000)年前後まで、株取引といえば銀行や信託銀行、保険会社などの機関投資家、もしくは金銭的に余裕がある個人投資家ばかりだった。それがインターネット取引が当たり前になり、小額投資も可能になるなど投資環境は大きく変わりつつある。
そんな投資家たちの聖地ともいえる場所が、東京証券取引所だ。東京証券取引所が立地する兜町はロンドン・シティ、ニューヨーク・ウォール街と並び、世界屈指の金融街でもある。
この兜町を一からつくりあげたのが「、資本主義の父」とも称される渋沢栄一だった。幕末、渋沢は徳川政権を支える幕臣だったことから、鎖国体制を支持していた。その主張を大きく変えたのはパリ万博への視察だった。
幕臣・渋沢は幕末から昭和初期までの激動の時代を生き、その間に日本に資本主義を根付かせるべく、さまざまな経済の基盤を整備した。
渋沢は資本主義の父と呼ばれるだけあり、設立に関わった企業は膨大な数に上る。主な企業だけを列挙しても、第一銀行(現・みずほ銀行)、王子製紙、日本郵船、日本鉄道(現・JR東日本)、東京石川島造船所(現・IHI)、汽車製造合資会社(現・川崎重工業)、浅野セメント(現・太平洋セメント)、大日本麦酒(現・アサヒビール、サッポロビール)、清水満之助商店(現・清水建設)と、現代日本でも指折りの一流企業ばかりだ。
また、東京を活動の本拠地にしていたが、関西の大阪紡績(現・東洋紡)や京阪電鉄、三重県の三重紡績(後に大阪紡績と合併)、福岡県の若松築港(現・若築建設)、青森県の三本木開墾(現在は農水省が事業を継承)といったように設立や経営に関与した会社は全国に点在している。
「資本主義の父」の原点
明治政府は西洋列強に伍するため、近代化を急いでいた。徳川幕府時代は農業が主産業であり、資本主義などという概念はなかった。明治になって忽然と現れた「資本主義」に人々は戸惑った。
明治政府の役人たちも、資本主義とは何なのかを理解できている人間は少なかった。それでも資本主義を取り入れなければ、日本は西洋列強に支配されてしまうことが危惧された。実際、隣国の清は西洋諸国との戦争で完膚なきまでに叩き潰された。大国・清でさえ西洋に蹂躙された。危機感から、明治政府は資本主義の導入を急務とした。
明治政府は日本に資本主義を急進的に根付かせなければならず、そのために官が主導するといった手法を取った。いわば、日本の資本主義は官製資本主義だった「。資本主義は、あくまで民間が主導しなければならない」との意見を持つ渋沢は、明治政府の官製資本主義にやんわりと反発した。
しかし、資本主義を民間に任せようとしても、資本主義を体現できる民間企業はなかった。そこで、渋沢はいったん官製資本主義を受け入れて、民間が育ってきたところで民間に任せるという方策を政府に提言する。これは、現代なら民営化ということになる。
なぜ、渋沢はそこまで「民」にこだわったのか? それは、渋沢の生まれ育った環境と幕臣時代に学んだ見聞にある。渋沢の出生地である武蔵国榛沢郡血洗島(現・埼玉県深谷市)は、水田が少ない農業地帯だった。当時の経済は米を中心に回っていたが、血洗島を領地とする岡部藩は米納制度を採用していなかった。江戸時代から、すでに金納制度を導入していた。そうした事情から、貨幣経済が早くから浸透し、幼少期の渋沢も知らず知らずのうちに貨幣経済が身に付いていた。
若いころから貨幣経済に馴染んでいた渋沢が、さらに貨幣経済の重要性を感じたのが慶応3 (1867)年にパリ万博に参加したことだった。鎖国を解いた江戸幕府は徳川慶喜の弟・昭武を名代にして幕府使節団をパリに派遣した。渋沢はその一員として横浜から上海・香港・ホーチミン・シンガポール・セイロンを経由し、スエズ運河を通ってフランス・マルセイユに上陸。使節団一行はそこから陸路でパリに向かった。パリまでは約2カ月。その行程でも渋沢にとって学ぶことは多かった。さらに目的地のパリは、ヨーロッパ諸国の先進技術のみならず社会や経済の制度、文化、生活様式にいたるまで何もかも日本とは違っていた。
渋沢は日本の古いしきたりにとらわれず、何でも果敢にチャレンジした。船中でも果敢に洋食を試し、パリに到着すると武士の象徴だったちょんまげをカットした。特に渋沢を刺激したのが、株式証券取引所だった。渋沢はパリ滞在時にグランドホテルを根城にしたが、グランドホテルと株式取引所は目と鼻の先にあった。好奇心旺盛な渋沢は毎日のように株式取引所に足を運んだ。約1年半におよぶヨーロッパ体験は資本主義の父の土台になった。
兜町の裏に東京湾構想あり
日本に帰国した渋沢を待ち受けていたのは徳川幕府の崩壊だった。徳川慶喜とともに静岡に左遷された渋沢は静岡で不遇の時代を送る。幕臣であるがゆえ、渋沢がこのまま埋没する可能性も否定できなかった。ところが新政府の重鎮・大隈重信と井上馨が、才能を惜しんで東京へと呼び戻す。渋沢は大蔵省に出仕することになり、経済関連の地盤づくりに追われることになった。
大蔵省役人時代の渋沢が手がけた政策は多数ある。例えば、郵便制度の確立や暦法の改正、鉄道建設の調査などに従事している。そのなかで特筆すべき政策が、兜町というビジネスセンターをつくったことと国立銀行条例という法律をまとめたことだった。
渋沢は日本橋の下流、東京湾口のあたりにビジネスセンター・兜町をつくろうと計画した。現在、東京のビジネスの中心地と言えるのは、東側だったら銀座や丸の内エリア、西側だったら新宿や渋谷エリアになるだろう。日本橋、しかもその東端の兜町はビジネスの中心街とは言えないようなエリアに位置している。これは、当時の交通が舟運に依拠していたからだ。明治初年に商業地として繁栄していた都市が横浜と神戸ということを考えても、明治期は港に近い場所がビジネス上で有利だった。
渋沢は東京港という、横浜港よりも巨大な港を兜町につくることを夢想した。実際、渋沢は民間に転じた後も民間有識者として東京港をつくることを東京府に働きかけている。横浜にも匹敵するような港をつくることで、渋沢は東京を商都にしようと考えていた。
官から民への転身
大蔵省時代に兜町ビジネスセンター計画は日の目を見ることはなかったが、明治11(1878)年に東京株式取引所と東京商法会議所がスタートした。まさに、兜町は渋沢が描いた通りの街へと変貌していく。渋沢が設立した東京株式取引所は、戦後に東京証券取引所へと名称を変えたが、名称は変わっても活動趣旨は変わっていない。後身の東京証券取引所は、現在も兜町のシンボルとなっている。
これら2つの財界を支える組織が立ち上がった兜町 は、現在でも財界を意味する符牒として用いられている。そして、大蔵省時代のもう一つの大きな仕事である国立銀行条例の制定でも、兜町は重要なエリアだった。
国立銀行と聞くと、現代では日本銀行のような銀行をイメージするだろう。しかし、国立銀行は国が設置したわけでも国営というわけでもない。当時は銀行が存在しなかったので、政府が銀行設立のための条例を制定。その枠内で設立された銀行を国立銀行と呼んだ。つまり、国の法律にのっとって設立された銀行が、国立銀行となる。原則的に明治期に設立された全銀行が国立銀行だった。
資本主義を実現できるのは「民」である、が持論だった渋沢は、大蔵省という役人の世界が自分に馴染まないことを悟っていた。だから国立銀行条例を制定して日本に銀行設立の道筋をつけると、ほどなくして大蔵省を退官。明治6(1873)年に、民間へと飛び出す。以降、渋沢は生涯民間の道を歩んでいく。
社会事業家・渋沢栄一
資本主義の父と称される渋沢の前半生が日本に資本主義を根付かせることにあったとすれば、後半生は社会事業を興すことにあったといえる。
大正5(1916)年、渋沢栄一は第一銀行の頭取を退任。これで、渋沢は自身が立ち上げた企業の役職から身を引き、以降は社会事業・公益活動へと没入する。
渋沢が社会事業や公益活動に関心を示したのは、単純に金持ちの道楽ではなかった。明治時代は江戸時代までの身分制を否定し、建前では四民平等の精神から出発した。しかし、旧大名家や旧公家からなる華族は、庶民とはかけ離れた生活を送っていた。特に旧大名家は金に物を言わせたぜいたくな生活を送っていた。しかし、明治も半ばを過ぎると、西洋との交流も盛んになり、西洋貴族の規範とされた「ノブレス・オブリージュ」の精神も広まる。それらを実践した華族たちもいたが、渋沢は旧大名家でも旧公家の出身でもない。旧幕臣という身分であり、保有する資産などなかった。
渋沢は企業の役職を投げ捨てる以前から、社会事業や公益活動に積極的に進出していた。そして、第一銀行の頭取を退任して身軽になった渋沢は、誰にも迷惑をかけないように純粋に自分が得た資産と人脈で社会事業や公益活動を始める。渋沢の社会事業・公益活動を分析すると、それらは都市計画と医療福祉との2つに大別することができる。
「東京づくり」スタート
まず、前者の都市計画に渋沢が興味を示すようになったのは、慶応3(1867)年にパリに滞在したことがきっかけだった。万博に参加するために滞在したパリは、街が整然としており、江戸とは大きく違っていた。街には、博物館・劇場・遊園地などが点在し、さらに病院・裁判所・浄水場も整備されていた。これらの都市インフラに感銘を受けた渋沢は、この見聞と経験を活かした。明治3(1870)年に建設が始まった兜町を皮切りに、渋沢は次々と新しい東京づくりを開始していく。
兜町の次に渋沢は、銀座煉瓦街計画を構想する。銀座の煉瓦街計画を構想したのは明治5 (1972)年に起きた銀座大火がきっかけだった。銀座大火は銀座のみならず丸の内や築地までをも焼き払った。その結果、銀座一帯は焼け野原となり、明治政府は発足当初から銀座という中心市街地の活気を失うことになり出鼻をくじかれた。
明治政府の首脳だった井上馨と渋沢は、焼け野原になった銀座の街並みを目にしても意気消沈しなかった。むしろ、禍転じて福となすとばかりに焼け野原になった銀座の街を大改造するチャンスだと受け止めた。
それまでの銀座は、江戸の古い家屋が残っていた。これが大幅な都市改造を阻む要因でもあり、大火を糸口にして、レンガ建築が並ぶ西洋風の街をつくる計画を発表。井上は都市計画を語らせたら明治政府の中でも右に出る者はいないと言われるほどだった。そのため、井上は政府の代表者として銀座煉瓦街計画を主導する。
銀座煉瓦街計画では、井上が「どういう街をつくるのか?」にこだわったのに対し、渋沢は「どうやってつくるのか?」という仕組みにこだわりを見せた。渋沢は銀座煉瓦街計画の際、東京借家会社といった奇妙な会社の設立を提案している。現在、地方自治体は住民のために住居を格安で提供するための住宅供給公社などを設立しているが、渋沢が提案した東京借家会社は、その先駆けとも言える存在だった。
渋沢の目論見では、民間企業が銀座煉瓦街をつくるのは資金的にも難しいし、民間事業者が思い思いに家屋を建設してしまうと、統一した街並みにならない。不均等な街並みは、猥雑な印象を与えてしまうから、東京借家会社が一括して銀座煉瓦街計画を実行し、その計画でつくられた店舗や事務所、家屋を民間に貸し与える。そして、減価償却期間が過ぎたあたりで民間に払い下げる。
渋沢の構想した東京借家会社は東京の都市計画を無理なく進めるためのスキーム作りだったが、残念ながら明治政府首脳たちの理解を得ることができず、日の目を見ることはなかった。
小川裕夫(おがわ ひろお)
フリーランスライター・カメラマン。1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者などを経てフリーランスに。2009年には、これまで内閣記者会にしか門戸が開かれていなかった総理大臣官邸で開催される内閣総理大臣会見に、史上初のフリーランスカメラマンとして出席。主に総務省・東京都・旧内務省・旧鉄道省が所管する分野を取材・執筆。
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