あらゆる東京の建造物のデザインを手がけた辰野金吾。最も有名な仕事は東京駅デザインであろう。明治期には計画が始まっていた東京駅のデザインという仕事は、日本の技術力を世界に見せつけるための一大プロジェクトでもあったのだ。
(本記事は、小川裕夫氏の著書『東京王』=ぶんか社、2017/10/28=の中から一部を抜粋・編集しています)
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東京の玄関・東京駅
日本を代表する東京駅は、大正3(1914)年に開業した。その歴史は100年以上を数える。
しかし、威風堂々とした赤レンガ駅舎の存在感が大きいために、上野駅や新宿駅は東京駅の影に隠れがちだ。実は、上野駅や新宿駅の方が歴史は古い。それどころか、平成27(2015)年に北陸新幹線が延伸開業して玄関駅として注目された金沢駅は明治31(1898)年、同じく翌年に一部が開業して一躍観光地として注目された函館の玄関口となる函館駅は明治35(1902)年に開業しているので、歴史という面から見れば東京駅はこれらよりも後輩ということになる。
なぜ、鉄道の要にもなっている東京駅はそんなに遅くつくられたのか? それを解き明かすには、明治時代の鉄道の状況をひも解かなければならない。
東京駅の裏に軍部の思惑
日本の鉄道は新橋駅 横浜駅(現・桜木町駅)間から運行が始まった。当時の新橋駅は汐留にあり、東京駅の開業と同時に新橋駅は現在の地に移設されている。新橋駅‐横浜駅間が完成した後、政府は財政が逼迫し新たな鉄道を建設することができなかった。そこで、私鉄が勃興する。民間資本によって、東京から各地方へと路線が延びていった。現在の中央線の前身・甲武鉄道は新宿駅八王子駅間を開業させた後、都心にも線路を敷設。当時の繁華街だった日本橋や神田に近い万世橋駅をターミナルに定めた。
総武鉄道(現・総武線)は、両国駅をターミナルに千葉方面へと線路を延ばした。日本鉄道は上野駅をターミナル駅として、北へと線路を敷設。現在の高崎線・宇都宮線・常磐線などになった。
甲武鉄道、総武鉄道、日本鉄道は私鉄だったため、各自がそれぞれターミナル駅を造った。そうした事情から、東京駅のような全ての鉄道を一カ所に集める駅は必要なかった。しかし、明治39 (1906)年に鉄道国有法が公布されると状況は一変する。これらの私鉄は、国に買収されて官営鉄道に組み込まれた。政府が私鉄を買収した理由は、鉄道が軍事輸送や物資輸送に効果を発揮したからだ。特に、大日本帝国は日露戦争に勝利し世界の一等国の称号を得た。日露戦争の勝因は、鉄道をフル活用して軍隊や軍事物資をスムーズに輸送することができたからだとされている。そのため、軍部は私鉄を国有化するように政府に働きかけた。鉄道が国の管轄下にあれば、緊急事態の際にいくらでも自由にコントロールできるからだ。
甲武鉄道・総武鉄道・日本鉄道が国有化されると「、同じ官営鉄道なのにターミナル駅がバラバラなのは利用者にとって不便だ」との指摘が出てくる。そうしたことから、中央停車場の必要性が浮上し、急ピッチで計画が進められた。それから7年後、東京駅は完成した。
日本最高峰の建築家
その流れだけを見ると、東京駅は構想が浮上してから順調に計画されて、着工・竣工とつつがなく進んだかのように思えるだろう。しかし、現実はかなりの難産だった。
東京駅の設計を担当したのは、当代随一の建築家・辰野金吾だ。辰野は工部大学校(現・東京大学工学部)を首席で卒業し、当時から将来を嘱望されていた。工部大学校は、お雇い外国人のジョサイア・コンドルが教鞭をとっていた。コンドル自身も優れた建築家だったが、その教え子には旧東宮御所(現・迎賓館)など皇室建築を多数デザインした片山東熊、東京府庁をはじめ官庁建築を多数手がけた妻木頼黄など、そうそうたる建築界のビッグスターが並ぶ。コンドルチルドレンの最右翼とも言える存在だった辰野は、卒業後はイギリスに官費留学。帰国時にはフランスやイタリアにも寄り道して、ヨーロッパの最新建築を視察させてもらえるほど政府の期待を背負っていた。
明治16(1883)年に帰国した辰野は、コンドルの後任として工部大学校教授に就任した。しかし、ほぼ同時期に日本の政治体制が内閣制度に移行したこともあり、工部省は廃止されてしまう。工部省下にあった工部大学校は東京帝国大学の一学部になる。
大学で教鞭をとるかたわら、辰野は建築事務所を設立。辰野は財界の重鎮だった渋沢栄一や三井財閥の重鎮・益田孝、大倉財閥の総帥・大倉喜八郎とも知己の間柄にあった。特に渋沢とは工部大学校の教授時代に銀行集会所の設計を担当して懇意になり、そうした縁から事務所の開業直後にも海上保険会社や深川帝国肥料会社といった渋沢がらみの大物案件を発注してもらっていた。
このとき、辰野はすでに国内最高峰の建築家だった。渋沢や益田、大倉といった財界とのパイプが太くなったことで、さらに日本銀行本店の設計も依頼される。日本銀行は明治15(1882)年に松方正義の提唱で創設されたが、発足当初は使われなくなった北海道開拓使東京出張所を社屋にしていた。
北海道開拓使東京出張所は手狭なうえに、官庁街から離れていて利便性が悪かった。そこで、江戸時代に金座としてにぎわっていた日本橋本石町に移転した。しかし、日本橋本石町の建物は江戸時代からの古臭いものだった。明治20年ごろ、近代化を推進する明治政府は庁舎をどんどん新しくしており、日本銀行も新時代に相応しい建物へと建て替えられることになる。辰野は、その設計を任された。日本銀行の設計者に辰野が指名されたのは建築界の実力者だったこともさることながら、辰野自身が技師として外務省臨時建築局に勤務していたことが大きな理由だった。
日本銀行本店を設計
外務省臨時建築局とは、井上馨が外務卿でありながら自身の念願でもあった官庁集中計画を実現するために立ち上げた部署だ。官庁集中計画は井上が不平等条約の改正に失敗したことで幻の計画と化したが、臨時建築局は死に体となりながらも組織として辛うじて生き残っていた。
また、辰野は高橋是清の教え子でもあった。高橋は農商務省の重鎮として君臨していたが、なによりも日銀を創設した松方と並び、政府内では金融政策に精通している人物として評価されていた。
それだけに高橋は日銀にも大きな影響力を及ぼすことができた。経済通官僚の高橋が教え子である辰野を日銀に推挙していたとしても不思議ではない。
さらに、高橋門下生として学んだ同窓生には建築家の曾根達蔵もいた。曾根は平成27 (2015)年に世界遺産の構成資産となった長崎造船所をはじめ三菱三号館、慶應義塾大学図書館、講談社ビル、小笠原伯爵邸といった名建築を手掛けた逸材だった。曾根も政財界に大きな影響力を発揮できる人物だった。辰野が日本銀行や東京駅の設計という国家の一大プロジェクトを任された裏には、高橋や曾根の陰ながらのアシストがあったことは想像に難くない。
日銀本店の設計をするにあたり、辰野はまず視察のためにアメリカに渡った。しかし、アメリカの建築物を見ても閃くことがなかったようで、そこからさらにヨーロッパへと渡る。ヨーロッパ視察で、辰野は石造り建築が美しいベルギー銀行に大きな感銘を受け、日銀本店のモデルとして採用する。
帰国後、辰野は石造りで日銀の設計を開始。ところが、明治24(1891)年に濃尾地震が発生すると、辰野は石造り建築に疑問を抱くようになる。日本銀行という日本経済の中枢となる建物が簡単に倒壊してしまったら日本経済は壊滅し、それは日本の滅亡につながる。日本経済を順調に発展させるために、そして日本を守るためにも、日本銀行は頑丈な構造にしなければならない。辰野は考えを転換させ、内部構造は石造りよりも耐震性に優れているレンガ造に切り替えた。
赤レンガ駅舎の完成
日銀本店を完成させた辰野が、次に手掛けた大プロジェクトが東京駅のデザインだった。もともと東京駅は明治期には計画が始まっていた。当初の設計はお雇い外国人に委ねられていた。お雇い外国人のフランツ・バルツァーは来日後、和風建築に魅せられた。そのため、東京駅を和洋折衷で建設する方針に固めていた。政府は、あくまでも西洋建築にこだわり、バルツァー案を却下した。お雇い外国人のフランツ・バルツァー案に政府が難色を示したのには確固たる理由があった。日清・日露戦争に勝利した日本は、欧米にも肩を並べる一等国だと内外に威光を示し始めていた。アジアで唯一の一等国という肩書に、政府関係者たちは一様に酔いしれた。そして、東京駅は我が国の中央駅であり、一等国・日本のシンボルになる。であるならば、一等国に相応しいデザインでなければならない。そうした考えで東京駅は古臭い和洋折衷のデザインではなく、最新技術が盛り込まれた西洋デザインでなければならなかった。さらに、政府は日本の技術力を世界に見せつけるために外国人の力に頼るのではなく、日本人建築家によるデザインで東京駅をつくるべきとの考えを示した。こうして、当代随一の辰野に白羽の矢が立った。辰野は日銀本店の設計以来、デザイン以上に耐震性を重要視するようになっていた。そのため、東京駅の設計でも耐震性を考慮している。他方で、政治家たちの「一等国・日本の威光を世界に見せつける」といった要求も両立させなければならず、東京駅の設計は何度も練り直しをさせられた。
東京駅は大正3(1914)年にようやく完成する。東京駅の地下には、大地震が起きても倒壊しないように基礎杭が1万本以上も使われた。強度を高めた東京駅は、関東大震災でもビクともしなかった。まさに、辰野が耐震性を考慮した結果であった。また、東京駅は美しい赤レンガの外観のため、赤レンガ駅舎とも呼ばれるが、辰野が赤レンガを用いて駅舎をデザインするのは東京駅が初めてではなかった。東京駅の先輩格にあたる万世橋駅も明治45(1912)年に赤レンガで建築されている。言うなれば東京駅は万世橋駅のコピペでもあった。
ちなみに、東京駅の赤レンガ駅舎のデザインはオランダ・アムステルダム駅をモチーフにしたと長年にわたって信じられてきた。実際、東京駅はそうしたいわれから平成18(2006)年にアムステルダム駅と姉妹駅の提携を結んだ。しかし、近年には建築史家によって東京駅とアムステルダム駅は建築様式が明らかに異なることが指摘されている。、東京駅はアムステルダム駅をモチーフにしたのではなく、まったくの他人の空似なのだが、それでも東京駅がアムステルダム駅を真似たという説はいまだ根強い。
辰野人生最後の野望
日本銀行・東京駅と東京を象徴する二大プロジェクトに主役として関わった辰野が、最後に夢見たのが国会議事堂のデザインだった。東京駅同様に、国会議事堂も明治から建設が計画されていた。それにも関わらず、国会議事堂は仮議事堂のままで未着工だった。
国会議事堂がなければ国家は成り立たない。正式な国会議事堂を建設するべし。そんな世論が高まるにつれ、辰野は国会議事堂のデザイン案をコンペで選出することを政府に提案した。すでに建築界では第一人者になっていた辰野の提案には、国会議事堂を設計するのは自分だといった執念と矜持が垣間見られる。日銀・東京駅を実現させた辰野にとって、国会議事堂を自分の手でデザインすることは人生の総決算だったのだろう。
辰野の働きかけが実り、国会議事堂のデザインコンペが開催されることになった。ところが、ここで想定外の出来事が起こる。辰野はコンペの審査を担当する議院建築調査会のメンバーに選ばれてしまったのだ。調査会メンバーに就任してしまえば、自分のデザイン案をコンペに出すことができない。これでは国会議事堂の設計者として名を残すことができない。
小川裕夫(おがわ ひろお)
フリーランスライター・カメラマン。1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者などを経てフリーランスに。2009年には、これまで内閣記者会にしか門戸が開かれていなかった総理大臣官邸で開催される内閣総理大臣会見に、史上初のフリーランスカメラマンとして出席。主に総務省・東京都・旧内務省・旧鉄道省が所管する分野を取材・執筆。
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