明治政府の発足直後、維新の三傑の一人として有名になった大久保利通。人気は西郷隆盛の足元にも及ばなかったが、大久保の政策立案能力は明治政府内でも群を抜いていた。その手腕を振るって日本に与えた影響を解説していく(文中敬称略)。

(本記事は、小川裕夫氏の著書『東京王』=ぶんか社、2017/10/28=の中から一部を抜粋・編集しています)

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五代友厚と大久保

平成27(2015)年に放送されたNHK連続テレビ小説『あさが来た』は、朝ドラ初の幕末・明治初期を舞台とする異色作として話題になった。同作は高い視聴率を叩き出し、朝ドラに新境地を開いたと言われる。同作の人気ぶりは視聴率以外にも表れている。舞台になった大阪取引所やユニチカ記念館などは見学者が押しかけるようになり、放映時間帯に飛行訓練を実施していた航空自衛隊小松基地は、視聴者に配慮して訓練時間を10分早めるという異例の対応をしている。同作で俳優・ディーン・フジオカが演じた五代友厚は人気が沸騰。作中で五代が病死すると五代ロスという社会現象まで引き起こした。

五代は薩摩藩出身の商人で、薩摩藩の志士のときは会計掛として武器の納入から食料の調達までこなした。そうした商才から、戊辰戦争以降は大阪で実業家として歩み出す。五代が実業家として大成した裏には、五代の上役だった大久保利通の支援が大きく影響した。

政治家の王道を歩む大久保と実業界をひたすら走る五代とは意気投合する部分が多くあった。いくら薩摩藩出身者の同志で、上司と部下の関係にあるとはいえ、両者に思想的な共通点がなければ、激動期に助け合う余裕は生まれなかっただろう。大久保と五代の思想的な共通点とは何なのか? それは、「産業育成・振興」—当時の言葉を借りれば「、殖産興業・勧業」という理念だった。

徳川政権が崩壊した後、維新政府の首脳であった大久保は日本の首都を大坂に定めようとした。大坂は太閤秀吉以来、天下の台所として栄 えた。大坂の繁栄は江戸時代も長らく続く。当時、江戸や大坂は取水の関係で街のいたるところに川が縦横無尽に走っていた。そんな街では、人の移動や物の運搬は不便で経済は発展しない。そこで、大坂の町人たちは自分たちで金を出し合って、街のいたるところに橋を建設した。大坂が「八百八橋」と呼ばれる所以はそこにある。

架橋工事は人の往来を自由にする。人が自由に移動できると、武器の売買も容易になり、それは政権の崩壊にもつながる。そのため、架橋工事は幕府の専任事項であり、いくら便利になるからといって勝手に橋をつくることは許されなかった。他方で、幕府の専任事項であるがゆえに、架橋工事は公費で賄われるのが当たり前だった。

大坂はそうした常識を根底から覆す手法で発展を遂げた。明治を迎えるころ、江戸を凌ぐ経済都市に発展していた。

そうした背景から、大坂は明治政府が首都とするのに相応しい都市だった。しかし、前島密の建議で大久保は考えを改め、江戸を東京と改称。新しい首都建設に取り掛かった。

卓越した政策立案能力

明治政府の発足直後、政権の中枢では三条実美や岩倉具視といった公家出身者と倒幕の功績から薩摩藩の島津、長洲藩の毛利といった大名たちがメーンプレイヤーだった。実質的に明治新政府の立役者だった志士たちは、その下に列した。維新の三傑と呼ばれる木戸孝允・西郷隆盛・大久保利通は、薩長出身ということもあって大きく取り立てられることになったが、特に木戸と大久保への期待は大きかった。大久保は西郷と同じ薩摩藩出身の志士であり、どちらも維新の三傑として並び称されるが、人気の面では大久保は西郷に遠く及ばない。しかし、政策手腕では西郷は大久保の足元にも及ばない。それどころか、明治政府内でも大久保の政策立案能力に敵う者はいなかった。

新政府は国家建設の手本を学ばせるため、明治4(1871)年に多くの政府高官を岩倉使節団としてアメリカ・ヨーロッパに派遣した。そこには高い期待を寄せられていた木戸と大久保も参加している。帰国後、大久保は外遊中に得た知見を活かして内務省創設に動き出した。内務省創設にあたって、大久保がもっとも力を入れたのが勧業行政だった。

大久保は岩倉使節団でアメリカからイギリスに渡ったが、そこで幕末から駐日公使として日本に滞在していたハリー・パークスに各地を案内してもらうことができた。パークスに案内された視察

では、都市のいたるところに「製作場」と呼ばれる工場があった。大久保はリバプールの造船所、マンチェスターの木綿工場、エジンバラの製紙工場、ニューカッスルとジェフィールドの製鉄工場、ブラッドフォードの絹織物・毛織物工場、グレノックの製糖工場、バーミンガムのビール工場とガラス工場、チェスターの製塩工場とあらゆる工場を見て回り、感銘を受けた。そして、イギリスの富強の源泉が工業化にあることを痛感する。その経験から、内務省の発足と同時に工部省が所管していた勧業行政を内務省に移管させた。

名門中の名門・内務省

明治政府の発足とともにまず大蔵省が創設されている。大蔵省は権限が強大すぎたために「まるで平清盛のようだ」と世間から批判を浴びた。大蔵省が激しい批判にさらされていた当時の大蔵卿が大久保だった。このときの教訓もあって、大久保は内務省の設立構想にあたっては所管する分野を慎重に選んだ。当初、大久保が内務省に担わせようとしたのは、地方行政と警察行政だったが、イギリスでの経験からどうしても勧業行政を所管したいと考えていた。政府内で内務省構想の議論を重ねるうちに、内務省の所管する分野はどんどん増えていった。また、このときに大久保は大阪まで足を運び、すでに大阪実業界の重鎮になっていた五代と会合。殖産興業について意見交換する。大久保は五代に対して、工部省の手法では殖産興業は進まないと批判的に意見を開陳している。

最終的に、内務省は地方行政・警察・勧業・土木・通信・交通・福祉・戸籍などをカバーする巨大省庁として出発。大久保が熱望していた勧業行政の権限も手に入れた。そして初代内務卿には、当然のことながら生みの親である大久保が就任した。

競争意識で品質向上

いくら大工場を建設して、大量生産が可能になっても、そこで生み出されるものの品質が悪ければ人は見向きしない。人が見向きもしないようなものをつくっても意味がない。鎖国をしていた江戸時代なら、国内で生産・製造されたものを買うしか選択肢はないが、外国からも多く輸入品が届く時代には、そうはいかない。なにより、日本国内の農産品・工業製品を外国に買わせなければならない。大久保は工業振興のために高品質なものづくりを推奨したが、それには生産者・製造者に競争意識を芽生えさせる必要があった。

そこで大久保は農産品・工業製品の品質を競わせる場をセッティングする。それが、明治10(1877)年に東京・上野公園で開催された内国勧業博覧会(内国博)だった。内国博は来場者が農産品・工業製品を品評する場でもある。自分のつくった農産品や工業製品が、公開の場で比べられるのだから生産者・製造者は緊張しただろう。だが、そうした緊張感は他者よりもいいものをつくろうという競争心につながる。競争が起きれば、品質は向上し、日本のものづくりは活性化する。大久保は内国博にたくさんの出品者を集めようとした。そのため、府県に出品者の旅費などを一部負担させる法律まで制定させた。こうして開催された内国博は、約3カ月にわたるロングランイベントになり、会期中には45万人以上の来場者を記録した。

大成功に終わった内国博だが、大久保は開催翌年に紀尾井坂で暗殺されて生涯を閉じた。まだ、勧業行政は道半ばであり、ようやくスタートを切ったに過ぎない状態だった。しかし、大久保が撒いた勧業行政の種は、その後も東京を躍進させる原動力になり、それが日本全体を活性化に導いていく。

根付いたモノづくりの種

書籍,歴史,東京
(画像=KPG Payless2 / shutterstock.com)

まず、産業振興のために始めた内国博は、明治14(1881)年に第2回が開催された。会場は第1回と同じく、東京・上野公園。会期も約3カ月だったが、来場者は一気に増加して82万人に達した。出品数にいたっては、前回から4倍にも増えている。明治23(1890)年に開催された第 3回も東京・上野公園で開催され、来場者は100万人を突破。しかも、外国からも来場者が訪れている。

大久保の死後も勧業行政の旗振り役となった内国博は、第4回には東京を飛び出し、京都で開催される。明治28(1895)年の第4回内国博は開催前年に日清戦争が開戦。戦時中ということもあって開催が危ぶまれたものの、政府は殖産興業の振興は重要であるとして中止せずに催行した。明治36(1903)年、第5回の内国博は大阪で開催された。

大久保の死後、勧業の芽は東京でも育っていた。長らく、明治政府は毛織物を海外から大量に輸入していた。それは、近代化された軍隊に必要な軍服や鉄道などの官営事業の従事者の制服の原材料だった。大量に輸入される毛織物は、明治政府の財政を逼迫させるほどになり、国産化は焦眉の急とされていた。大久保が房総半島に牧場を開設したのも羊毛を国産化する狙いがあったからだが、問題は羊毛を加工する工場がなかったことだった。しかし、明治12(1879)年に東京・千住製絨所が開所したことで軍服・制服の国産化体制は整った。千住製絨所は昭和20(1945)年の敗戦まで陸軍の工場として操業を続け、国内繊維・被服産業の発展に貢献した。

大久保が育ててきた殖産興業の芽は、死後に少しずつ転換が図られていく。明治14(1881)年には農商務省が設立。農商務省は内務省が所管してきた勧業行政を引き継いだものの、それまでの勧業行政のようなスタンスではなくなった。勧業行政は少しずつ官の手を離れていったということなのだろう。それは、大久保が夢見たように「勧業行政」がきちんと育ったことを意味していたのかもしれない。

小川裕夫(おがわ ひろお)
フリーランスライター・カメラマン。1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者などを経てフリーランスに。2009年には、これまで内閣記者会にしか門戸が開かれていなかった総理大臣官邸で開催される内閣総理大臣会見に、史上初のフリーランスカメラマンとして出席。主に総務省・東京都・旧内務省・旧鉄道省が所管する分野を取材・執筆。

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