日本の戦略史において重要な課題となる「ミッドウェー海戦」と「ガダルカナル作戦」。太平洋戦争のなかで刻まれたこの二つの戦史からそれぞれ、これを「実行した」「しなかった」から、戦略的に「成功」「失敗」したのではないかというエッセンスを抽出し、出口戦略を含む「戦略目標の統一」また、「全体構想」の重要性を学んでいきます。

(本記事は、折木 良一氏の著書『自衛隊元最高幹部が教える 経営学では学べない戦略の本質』KADOKAWA=2017年12月1日刊=の中から一部を抜粋・編集しています)

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自衛隊元幹部が教える戦略
(画像=Webサイトより、※クリックするとAmazonに飛びます)

「戦略目標の統一」の大切さをミッドウェー海戦に学ぶ

ここでは、戦史研究のミッドウェー海戦と、戦史研究のガダルカナル作戦を取り上げましょう。

まずはミッドウェー海戦です。

日米が開戦した1941年12月の真珠湾攻撃から約半年間のあいだ、日本軍は快進撃を続けました。

マレー半島、オランダ領インドネシア、英領ビルマなどへの侵攻で、日本軍は連戦連勝します。

その結果、石油などの資源地帯を日本は当初の計画よりも早く確保することができました。

日本は海戦においても、マレー沖海戦、ジャワ沖海戦、スラバヤ沖海戦などで、アメリカ、イギリス、オランダの連合海軍に圧勝しました。

当時はアメリカの植民地だったフィリピンの制圧にも成功し、太平洋方面総司令官だったダグラス・マッカーサーを、フィリピンからオーストラリアに退避させるほどでした。

破竹の勢いだった日本軍がつまずくのは1942年5月の珊瑚海海戦です。

被害を受けた艦艇の数では日本軍側の勝利ともいえますが、当初の目的であった現パプアニューギニアの首都であるポートモレスビー攻略を断念せざるをえなかったという意味で、戦略的には失敗したからです。

そして1942年6月、日本軍はミッドウェー海戦において、大きな挫折を経験します。 戦力優勢のはずだった日本軍は、大型空母四隻を撃沈されるという予想外の大敗北を喫し(アメリカ軍の空母損失は一隻)、これが日米両軍の戦いにおけるターニング・ポイントになりました。

この敗北から、私たちは何を学べるのか?戦略目的を統一すること、さらにはそれを徹底して現場に指示することが戦略を実行する要諦である、というのが、その最大のメッセージではないかと思います。

「出口戦略」を含めた全体構想がなかった日本

当時の日本海軍の基本方針は、広大な太平洋を挟んだアメリカ艦隊を少しずつ撃破し、日本近海での艦隊決戦によって、一気に撃滅するという「漸減邀撃(ようげき)作戦」でした。

この「漸減邀撃作戦」は、日露戦争(1904~1905年)における日本海海戦を踏襲したものです。

日露戦争において日本は蔚山(ウルサン)沖海戦で旅順艦隊を叩き、最後は日本海海戦でバルチック艦隊を撃滅し、からくも勝利することができました。

その後、米海軍を仮想敵とする方針のもとで、日本海軍はなんと三十年あまりにもわたって「漸減邀撃作戦」の研究や訓練を重ねてきたのです。

しかし、時の日本海軍の連合艦隊総司令官、山本五十六は異なる考え方を抱いていました。 山本の思想は、一言でいえば「積極的に攻め入るべき」というものでした。

彼は日米の国力の差を踏まえたうえで、長期戦は避けるべき、と考えたのです。

漸減邀撃作戦では、米軍は攻撃の時期や場所を自主的に決められますが、それに対して日本は受け身でしか応じられない。

戦力劣勢の日本が受け身で攻撃に耐えるという方針では勝ち目がなく、多少の危険を冒してでも相手を守勢に追い込まなければならない、というのが山本長官の主張でした。

その主張は軍令部との衝突を生みましたが、山本は南方に戦線を拡大するという積極策の自説を曲げず、それが認められないなら「長官を辞める」と強硬でした。

最終的には軍令部も山本の方針を承認することになり、それが真珠湾攻撃として具体化するのです。

もっとも、その山本長官の積極策にしても、時の総理大臣、近衛文麿が山本に戦争の見込みを聞いたところ、「初め半年や一年の間は随分暴れてご覧に入れる。 然しながら、二年三年となれば全く確信は持てぬ」といったわけですから、天才山本をしても、対米戦争の明確な出口戦略をもっていたとは思えません。

そもそも当時の陸海軍の出口戦略は、まったく異なったものでした。

陸軍は当初、主力を中国大陸に置き、中国・インド正面を主要な戦略正面として、アメリカを中心とする連合軍(陸軍)に対抗して日本の不敗態勢を確立する狙いをもっていました。

その一方、海軍は米艦隊をソロモン海付近で撃滅したうえでの戦争終結を考えていたのです。

陸海軍で考え方が異なるうえに、当時の日本には戦争終結のうえでもう一つ決定的に重要になる外交戦略も不明確でした。

出口戦略を決めることは入り口戦略よりもはるかに考えるべき要素が多く、その実行にも困難が伴いますが、その困難を乗り越えていかに戦争を終結させるかを決定・実行できるかどうかが、国家の明暗を分けるのです。

そうした出口戦略も含めて、当時の日本には明確な全般構想がなかった、といわざるをえないでしょう。

会社で譬えるなら、そこで存在していたのは、事業部別のバラバラな事業戦略・戦術だけでした。そこには中長期的な経営の基本方針も、全社戦略も存在しなかったのです。

ミッドウェー海戦までの太平洋戦線の戦力状況は、参戦空母や航空戦力、軍人の技量・練度のいずれを見ても、日本軍が優勢でした。

米海軍の基本シナリオは、主力艦隊を西太平洋に侵出させて艦隊決戦を行なう計画でしたが、ハワイ奇襲の被害が甚大であったほか、欧州戦線と太平洋の二正面に同時対処しなければならなくなったため、当時は太平洋方面での積極策がとれなかったのです。

目的が「二重」だった日本軍、優先順位の明確な米海軍

それにもかかわらず、なぜ日本軍は完膚なきまでに叩きのめされたのでしょうか。

『失敗の本質』でも指摘されているとおり、その敗北の最大の要因は、ミッドウェー海戦の目的の「二重性」です。

そもそもミッドウェー海戦の目的は、ミッドウェー島を攻略することで米空母を誘い出し、これを撃滅することでした。

ミッドウェー攻略自体は陽動作戦にすぎず、真の目的は、真珠湾攻撃で撃ち漏らした米空母を叩くことにあったのです。

しかし、そこで実際の作戦指令はどう表現されたのか。

「ミッドウェー島を攻略し、ハワイ正面よりするわが本土に対する敵の機動作戦を封止するとともに、攻略時出現することあるべき敵艦隊を撃滅するにあり」。これがその作戦指令でした。

そこには「ミッドウェー島攻略」と「米空母の撃滅」という二つの戦略目的が同時に並んでいます。

そのことによってミッドウェー攻略は、目的が曖昧な作戦になってしまったのです。

じつは、この二重性はミッドウェー海戦だけではなく、旧日本軍の作戦の多くに見られる問題でしたが、目的が曖昧な作戦は必ず失敗します。

もちろん主目的が状況的に達成できそうにない場合、従目的を事前に定めておくことはあります。

もしかするとミッドウェー海戦の「二重性」もそうだったのかもしれませんが、残念ながら、そこでは主目的の達成を最優先する(空母を撃滅する)という認識の統一自体が図られていませんでした。

二つの戦略目的を同時に並べる失敗は、経営の世界でも同じではないでしょうか。

営業戦略としてシェアをとりにいくことと、収益力の向上は、ときに矛盾します。

得てして、シェア拡大を狙って顧客や受注数の増加を追求すると利幅の少ない契約も増えていき、全体の収益力は低下します。

その一方で、収益力の向上を図ろうとすると、顧客や案件を精査する必要があるので、シェア拡大戦略は破綻します。

その結果、営業部門全体では戦略を一つに徹底することができず、部署単位、あるいはそれぞれの営業マンが得意とする営業スタイルが実行されることになってしまいます。

そうした事態を避けるためには、やはりまずは主目的を定めるしかありません。

シェアを犠牲にして収益をとるのか、あるいは収益を犠牲にしてシェアをとるのか。そこで決定された方向性に沿って万全の支援体制をとることが、作戦の成功を生むのです。

日本軍の「二重性」に対し、米軍はどうだったのでしょうか。米海軍の目的は非常にシンプルで、優先順位が明確でした。

「自軍空母を保全しつつ、敵空母艦隊に打撃を与える。ミッドウェー基地の一時的喪失は構わない」。

日本との違いがおわかりでしょう。

チェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官は「空母以外には手を出すな」と厳命していました。

米海軍は、日本の空母機動部隊の撃滅に集中していたのです。この目的意識の違いが、戦況を大きく左右することになります。

日本軍はミッドウェー基地の一次攻撃を終えたあと、二次攻撃のため、航空攻撃隊の兵装について、対艦船用魚雷から対陸上用爆弾に転換する作業を始めます。そのとき日本軍は、近くに米空母はいないと考えていました。

しかしそこで日本側の索敵機が米空母機動部隊を発見し、空母が出撃していることを知った日本軍は、慌てて攻撃隊の兵装を対陸上用から対艦船用のものに再転換する作業に取り掛かりました。

そのあいだにも、ミッドウェー島から飛び立った米軍機の攻撃を断続的に受けてしまいますが、これをなんとか撃退しつづけます。

ちょうどそのタイミングで、ミッドウェー基地への第一次攻撃隊が日本軍空母に戻ってきました。 当時の空母は、発艦と着艦を同時に行なうことができませんでした。そこで日本軍は大きな決断を迫られます。その選択肢は、大きく分ければ二つありました。

①航空攻撃隊は対艦船用魚雷への転換を終えてから出撃する。
ただし、出撃が遅れてしまい、敵空母攻撃の機会を逸するかもしれないし、反対に敵空母の航空攻撃隊に攻撃される可能性もある。

②敵空母が近くにいるのだから、対艦船用魚雷への転換を待たず、一刻も早く第一次空母攻撃隊を発進させる。
ただし、零戦はミッドウェー島から出撃した米機を迎撃していて数が不足しているため、護衛戦闘機なしの状態で、第一次攻撃隊を発進させることになる。
しかも出撃を優先するため、ミッドウェー島から帰還してきた第一次基地攻撃隊は空母に着艦・収容せずに不時着水させるしかない。

そこで部隊を指揮する南雲忠一第一航空艦隊長官が選択に迷い、対艦船用魚雷への転換作業が完了しないうちに米空母の航空攻撃隊が到着し、急降下爆撃機による攻撃を受けます。 日本軍は大混乱に陥り、空母三隻が沈没、二次攻撃でも、さらに一隻が沈没します。

大型空母が全滅するミッドウェー海戦の大敗北によって、ミッドウェー諸島攻略作戦そのものが中止を余儀なくされてしまうのです。

戦略目的が明確で、かつ達成するための作戦目的が現場で徹底されていれば、そこで躊躇なく②の選択肢が選ばれたでしょう。

そうすれば最悪の場合、第一次基地攻撃隊の帰還部隊を不時着水で失うというリスクの決断も可能だったのではないでしょうか。 事実、現場で指揮をとっていた山口多聞第二航空戦隊司令官は、即時の第一次空母攻撃隊の発進を主張しました。

戦略目的の不明確さや不徹底は、戦況が苦しくなればなるほどに、現場の作戦に致命的な影響を及ぼすということを、この戦例は教えてくれるのです。

「米空母出撃」の情報は無視され、現場に届かなかった

戦力劣勢を認識していた米海軍は、ミッドウェー海戦の1カ月前の珊瑚海海戦において被弾し、傷ついた空母ヨークタウンを、三日間の応急修理でミッドウェー海戦に出撃させています。

事前に修理責任者が飛行機でヨークタウンに飛んで状況を確認し、三日で作戦参加能力の回復が可能であると見積もっていました。

真珠湾の海軍工廠では、多数の作業員が昼夜交代体制で修理する体制も整えられていました。

ニミッツ長官が三日で修理を終えるように命じたのは、決して無理難題ではなかったのです。

もちろん、当時のアメリカには破損した空母を三日で修理する能力や、さらにその背景として強力な工業力があったことは指摘するまでもありません。

そして、攻撃力は高いけれども防御力の脆弱な航空母艦に対しては、十分な防空戦闘能力や対空見張り能力を搭載しました。

空母ヨークタウンはミッドウェー海戦中に再度被弾し、損傷出火したにもかかわらず、海戦中に消火し、甲板の修理まで終えて再度、戦いに参戦しました。

日本軍が空母ヨークタウンを再発見したときには、「まだ攻撃していない新規の空母」と誤認したほど、高いダメージコントロール能力を身につけていたのです。

その一方で日本軍は、ミッドウェー海戦と同時に、米軍の北方路からの進行を阻止するために米ソ間の連絡を妨害し、シベリアへの米航空部隊の進出妨害を狙うアリューシャン攻略作戦も併せて遂行していたため、空母二隻を分散させることになりました。

しかも珊瑚海海戦で中破した空母・翔鶴を、呉の海軍工廠の受け入れ態勢の問題などで投入できませんでした。

戦力の出し惜しみ、ダメージコントロールを重視しない攻撃偏重も日本軍という組織の問題であり、ミッドウェー海戦敗北の要因であったといえるでしょう。

さらに勝敗を決定づけたものとして、情報に対する日米の姿勢の違いにも触れておかなくてはなりません。

米軍は暗号解読を対日戦争の重要テーマと捉えていて、暗号解読の専門部隊をハワイに組織していました。

1942年5月26日までには、日本海軍で使用頻度の高い「海軍暗号書D」をほぼ解読していたのです。

この暗号解読によって、日本海軍の狙いや戦力を把握できたほか、ミッドウェー島に増援を送り、損傷した空母ヨークタウンの修理を三日で終わらせて戦線復帰させ、投入可能な最大限の迎撃準備を整えることができました。

対する日本海軍も、ミッドウェー海戦前の無線探知によって、米空母出撃の確証を?んでいましたし、海戦前夜には、旗艦大和の傍受班が米空母らしき電波を傍受しています。ところが、この貴重な情報は軽視されていたか、あるいは黙殺され、現場で共有されることがなかったのです。

その結果、現場の空母機動部隊は、ミッドウェー海戦当日朝の「本日敵出撃の算なし」という誤った情報を鵜呑みにして、敵空母はミッドウェー付近に存在しないという先入観から油断していました。

戦場における情報収集に関しても、日本軍は情報を軽視していました。

探索性能が不十分な旧来の偵察機を使用し、レーダーの運用についても米軍に遅れをとっていました。

米軍は、自軍の強みと弱みを理解したうえで、事前の情報入手が重要だと考え、組織的にその課題に取り組みました。そして目的を一つに集中して現場レベルの緊急事態に対応し、そのときに集中しうる全戦力を投入したことで、ミッドウェー海戦に勝利できたのです。

そこで日本軍の大型空母四隻を沈めたことが制空権を奪い返すきっかけとなり、その後の戦いを優位に進めることにつながりました。

先に、二つの戦略目的を同時に並べる失敗は、経営の世界でも同じように起こると述べました。

営業戦略としてシェアをとりにいくことと、収益力の向上は、ときに矛盾しますが、そこで仮に収益力の向上という目的を徹底して実行することになれば、同時に取り組むべき課題はおのずと明確になります。

たとえば、営業部門以外とも連携して組織的に対応しなければなりませんし、開発部門では付加価値が高く、現場の営業が値引きを要求されない商品開発が求められ、そのための開発・技術投資も必要です。

営業マンの人事制度も売り上げを評価する仕組みから、利益率の高い人材を評価・育成するシステムに変更する必要があります。

チャンドラーがいみじくも指摘したように、まさに「組織は戦略に従う」のです。

「ガダルカナルとは、帝国陸軍の墓地の名である」

太平洋戦争における海戦のターニング・ポイントがミッドウェー海戦ならば、陸戦のターニング・ポイントとなったのが、ガダルカナル作戦です。

ガダルカナル島はオーストラリアの北東、西太平洋にあるソロモン諸島の一島で、ガダルカナル作戦は1942年8月7日から1943年2月7日のおよそ6カ月にわたって、日本軍と米英連合国軍とのあいだで行なわれた一大消耗戦でした。

ガダルカナル作戦の失敗は、適切な時期、場所に戦力(経営資源)を集中することが、作戦でも、経営でも共通して重要であることを教えてくれます。

山本五十六長官が主張した積極策である、真珠湾攻撃をはじめとする南方作戦の成功によって、日本海軍は1942年4月、ハワイおよびオーストラリアの攻略を作戦に組み込む方針を新たに掲げました。

その一方で、従来の大陸を中心とした持久戦略を主としていた陸軍は、日本本土から4000海里(約7400キロメートル)も離れた島への展開は、部隊移動や兵站支援などからしても困難と考えていました。

しかし、オーストラリアが米軍の対日反攻作戦の最大拠点となる可能性や、南方作戦が成功していたことを加味して、南方作戦の第二段階という新方針に陸軍も同意したのです。 その第一攻略目標としてフィジー、サモア各島が定められ、作戦遂行に寄与する飛行場建設をガダルカナル島で進めていました。

日本は南方作戦第二段階の手始めとして、ガダルカナル島に飛行場を建設してラバウル以南の前進航空基地を建設し、ソロモン諸島の制空権を拡張しようと考えていたのです。

その一方で米軍は、先に述べたミッドウェー海戦で勝利を収め、反撃作戦をまさに開始しようとするところでした。

米軍の最終構想は、日本本土攻撃による戦争終結です。そのためにガダルカナル島を起点とし、ラバウルを経由して日本列島へ戦略爆撃を行なうというグランドデザインを描いていました。

そこで対日反攻作戦の第一弾として目標となったのが、日本軍が飛行場を建設中のガダルカナル島だったのです。

つまり、米軍側のガダルカナル作戦とは、日本軍が建設中の飛行場を制圧・守備し、対日反攻作戦の第一次拠点にする、というものでした。

1942年8月7日、ガダルカナル島にオーストラリア軍の支援を受けた米海兵隊が上陸し、日本軍が建設中の飛行場を制圧しました。

これに対して、日本軍は海軍が米艦隊・航空部隊をガダルカナル海域の戦闘(第一次~第三次ソロモン海戦)で撃破しつつ、ガダルカナル島の陸軍補給物資の輸送を護衛する、補給を受けた陸軍がガダルカナル島の飛行場を奪還するという作戦でした。

ガダルカナル島および周辺海域で行なわれた日米両軍の陸戦と海戦を、ガダルカナル作戦と総称します。

日本軍は二度の総攻撃を行なったものの、米軍の圧倒的な火力と徹底的に強化された防御陣に阻まれ、飛行場の奪還には失敗します。

ガダルカナル島の飛行場はすでに米軍が利用しはじめ、海域の制空権は米軍にあったため、大型輸送船での兵員や武器の輸送は不可能となりました。

そこで駆逐艦などによる輸送に切り替えたのですが、その補給物資や糧食も尽きかけていました。

ガダルカナル作戦では、陸戦と並行して海軍による三度のソロモン海戦が行なわれています。

第一次ソロモン海戦は日本海軍の圧勝でした。しかし、第二次ソロモン海戦は両者が艦艇の被害を出したものの、日本はガダルカナル島への輸送を断念して、戦略的には敗北します。

そして、第三次ソロモン海戦は日本側の完全な敗北に終わり、日本軍は熟練パイロットや艦船など多くを喪失しました。

その段になるともはや、飛行場の奪還は不可能という戦況でしたが、大本営からは撤退の結論が出てきません。

ようやく二カ月後に大本営から撤退命令がくだり、撤収が行なわれたときには、1万2500人あまりの戦死者に加え、約8700人が負傷や病、飢餓などで命を落としてしまいます。

アメリカの歴史学者であったサミュエル・モリソンは「ガダルカナルとは、島の名ではなく感動そのものである」と述べました。また、日本人の軍事評論家・ジャーナリストであった伊藤正徳は「それは帝国陸軍の墓地の名である」と書いています。

ミッドウェー海戦によってアメリカ優位に傾いた戦局ですが、ガダルカナル作戦以降、その趨勢はさらに確固たるものになったのです。

折木 良一(おりき・りょういち)
1950年熊本県生まれ。自衛隊第3代統合幕僚長。72年防衛大学校(第16期)卒業後、陸上自衛隊に入隊。97年陸将補、2003年陸将・第九師団長、04年陸上幕僚副長、07年第30代陸上幕僚長、09年第3代統合幕僚長。12年に退官後、防衛省顧問、防衛大臣補佐官(野田政権、第2次安倍政権)などを歴任し、現在、防衛大臣政策参与。12年アメリカ政府から4度目のリージョン・オブ・メリット(士官級勲功章)を受章。