(本記事は、ダーシーニ・デイヴィッド氏の著書『THE ALMIGHTY DOLLAR 1ドル札の動きでわかる経済のしくみ』かんき出版、2018年11月12日刊の中から一部を抜粋・編集しています)
ドイツからイギリスへ──「宇宙の支配者」のツイていない1日
エミリー・モーガンは、午前7時には決まってデスクにいる。
コーヒーを片手に、コンピュータ画面をスクロールして情報漁りに夢中だ。サーモンピンク色の『フィナンシャル・タイムズ』紙には、ロンドン地下鉄に揺られながらすでに目を通してある。
エミリーの職場は、金融街にひしめく銀行のひとつのトレーディングフロアだ。
この時間にはもう、フロアは期待に満ち溢れ、コーヒーとベーコンサンドウィッチの匂いに包まれている。
フロアには何百ものデスクが整然と並び、複数のモニターが刻々と変化する最新情報を映し出している。エミリーの同僚たちもデスクについていて、みな午前8時になるのを待っている。
8時になってロンドンの株式市場が開けば、ポンド(やドル)が目まぐるしいスピードで売買される。いまはまだ、嵐の前の静けさに包まれていた。
エミリーは営業担当で、潤沢な投資資金を有する顧客層を扱う。年金ファンドや裕福な国家、ほかの銀行の代理人になることもある。いわばエミリーは、銀行のトレーダーと顧客をつなぐ「仲人」役なのだ。
世界中のお金が集まるロンドンの金融市場
今回は、ファンドマネジャーのハンス・フィッシャーと彼が運用する年金ファンドが彼女の顧客だ。
ハンスとエミリーは、彼女の同僚にアドバイスを仰ぐ。同僚のアナリストやエコノミストは、いちばん儲かる投資先を掘り当てたくて自らの予測を伝える。
そしてアドバイスを得たら、エミリーがトレーダーに発注の旨を伝える。発注を受けたトレーダーは、何の市場でもそうだが、需要と供給を天秤にかけて、注文を受けた商品の価格をエミリーに知らせる。その価格が適切であれば、取引の成立だ。
エミリーは今回、ハンスから託された「ハンスのドル」で、アメリカの銀行からアメリカの資産を購入しようとしている。
もちろん、資産の受け渡しはボタンを押すだけで完了し、ボタンの向こう側には、ハンスのドルを手に入れようと狙っている買い手が待ち受けている。
エミリーのデスク近くの壁には、東京、ニューヨーク、シドニー、ブエノスアイレスの時刻を告げる時計がかかっている。ロンドンはヨーロッパの、いや世界の金融の中心地だ。
都合のいいことに、世界時間の中心でもあり、ニューヨークの5時間後、東京の9時間前の位置にある。それにビジネスの場の公用語も、いまのところは英語だ。
ロンドンの金融街シティでは、日々何兆というドルが通り過ぎる。ハンスのドルはそのほんの一部にすぎない。お金は、グローバル経済を円滑に動かすための潤滑油であり、人々の暮らしを維持するための燃料だ。
それを管理することが、イギリスでは巨大産業となっている。世界中のお金の大半がロンドンに集まり、お金はロンドンの長く輝かしい歴史とともにあった。
19世紀のイギリスで生まれた童謡に、「お砂糖とスパイス すてきなものすべてから」という一節がある。これは、「女の子は何でできているの?」という問いの答えだ。
世界の金融システムが何でできているかも、同じ答えで説明できるのではないか。
大航海時代の真っ只中だった1600年、ロンドンに東インド会社が設立されたことがきっかけで、世界の大海原を航海する商人がロンドンに集まるようになった。
東インド会社は、シルクや塩、紅茶をはじめとする東アジアからの物資の輸送と取引を円滑に行う目的で生まれた。同社はいわゆる「ジョイント・ストック・カンパニー」で、複数の出資者が存在した。
出資者は会社全体の株の一部を保有して株主となり、会社の業績がよければ利益を得ることができる。その一方で、会社が破綻しても、株主がリスクの責任をとることはない。
株主の責任は、持ち株の価値に限定されていた。
その2年後、オランダが東インド会社を設立した。この会社の株は、市場で売買することができた。
ここでいう市場とは、アムステルダム証券取引所を指す。自由に株を売買できるとあって投資家のあいだで人気を博し、成長と繁栄に必要な資金が確保された。
ロンドンの金融市場は自由化で急速に発展
ロンドンの証券取引所は1801年に設立された。
現在のトレーディングフロアからは想像もつかないが、ロンドンの証券取引の起源は、実はコーヒーハウスにある。証券取引所ができる何年も前から、品格ある紳士たちがコーヒーハウスに集い、市場価格の動向をチェックしたり、投資を行ったりしていたのだ。
イギリスとオランダ、いずれの東インド会社も商業的に成功を収め(イギリスはインドの統治も進めていた)、その後、資本主義と近代金融の礎となる産業に融資することで、成長を促す仕組みが確立した。
大英帝国の拡大に伴い、ロンドンのシティは世界の金融の中心になった。しかしながら、真の意味で現代の国際金融がロンドンで始まったのは、1986年の金融改革からだ。
この「ビッグバン」で、イギリスは金融市場を自由化した。
これにより、ロンドン証券取引所のトレーディングフロアでは、「オープン・アウトクライ方式」で人間どうしが叫び声や手ぶりで直接株を売買することはなくなった。その代わり、電子取引が標準となり、株取引の資格や手数料に関する規制が緩和された。
国際金融システムは、テクノロジーのおかげで21世紀にかけて急速に発展し、これまでにない規模で人と資金を結びつけることが可能になった。古いルールブックはひと晩にして反故にされ、競争が激化した。
ロンドンでは外資系企業の力が増した。規制が撤廃され、その自由度に匹敵するのはアメリカくらいしかなく、ロンドンは金融の中心地として活況を呈した。
シティは「スクエアマイル」とも呼ばれ、東はロンドン塔、西はブラック・フライアーズに囲まれた1マイル四方の小さな地区だった。ところがいまは金融機関の数が急増し、東の境界線はカナリー・ワーフの古い倉庫街、西は貴族が集まるベルグレイヴィアまで拡大している。
2016年には、金融業だけで年間1800億ドル近くをイギリスに貢献するまでになり、雇用は100万を超えた。利益率もほかの産業とは比べものにならないほど高い。
金融業のおかげで、高級品の小売業や高級住宅をターゲットにした不動産業も好調を維持し、政府の税収も安定している。
ロンドンの中心部とシティのある南東部だけが、イギリスで好景気にわいていた。大勢の人が財を成し、優秀な銀行員が世界中からロンドンに群がった。
いまや、アメリカの銀行は当たり前のようにロンドンに支店を構えるようになった。そうすれば、ヨーロッパ全域で営業できるからだ。
ちなみに、アメリカの銀行がイギリス国外の顧客との取引で得る手数料や利益は、イギリスが「輸出」した金融サービスとしてカウントされる。
ビッグバンによって変わったのは、金融業の規模や広がりだけではない。
そこで働く人々も変わった。
1980年代が終わる頃には、山高帽をかぶってブリーフケースを持った典型的なアッパーミドルクラスの紳士はシティから姿を消し、ストライプのシャツを着てシャンパンをがぶ飲みするような若者たちが街を闊歩した。ヤッピー(上昇志向を持つ行動的な若者たち)の登場である。
彼らの親世代は世界大戦に怯えるなかで生まれ育ち、質素な生活を送っていたが、そうした生活習慣は影を潜め、贅沢三昧の風潮が蘇った。若者たちは大金を手にし、巨額を稼ぎ出した。
彼らの頭にあるのは、ペントハウス、連日連夜のパーティ、海沿いの別荘だ。高級自動車のディーラーやヨットの販売元は、とてつもない大金を手にした。
若者の勢いという点では、アメリカのウォール街はさらに上をいった。野心むき出しでドルを追い求める彼らの姿は、作家トム・ウルフのニューヨークを舞台にした代表作『虚栄の篝火』で「宇宙の支配者」として描かれている。
彼らは必ずしも、裕福な家庭の出身ではなかった。自分も大金持ちになれるかもしれないという希望の兆しが、あまり裕福でない家庭で育った若者をいっそう駆り立てたのだ。
1987年を代表する映画『ウォール街』の主人公に象徴されるように、アメリカでもヨーロッパでも、俄然「欲は善」とみなされた。
ロンドンの金融市場が刷新して活況を帯びると、そこで働く人たちにも多様性が見られるようになった。女性が登場し始めたのだ。
とはいえ、エミリーはいまだにマイノリティである。トレーディングフロアの最前線で働く女性は、いまだ2割に満たない。
金融業のキャリアの頂点には、人生が変わるほどの富が用意されている。とはいえ、この業界で仕事を得てキャリアを形成するには、人を押しのける我の強さが必要だ。
エミリーは、出世の階段をのぼっていく人はごくわずかだと知っている。出世の道は、銀行の貸借対照表にゼロを追加できるかどうかがすべてだ。
業績が下位10パーセントの社員は、定期的に容赦なく切り捨てられる。
エミリーは、1ドルたりとも稼ぎを失わないように努めつつ、顧客と良好な関係を育んでいる。良好な関係を保つには、もっとも利益率の高い投資先へ導き、他社にない画期的な戦略や商品を紹介し、顧客の利益を増やさないといけない。
エミリーの仕事は、18世紀にシティのコーヒーハウスに紳士が集まっていた時代と何も変わらない。お金からお金を生み出すのが彼女の務めだ。