目の前のお客様を、いかに喜ばせ、驚かせるか

壽屋,清水一行
(画像=THE21オンライン)

――ここまででも少し触れていただきましたが、清水社長が引き継いでからの御社の歴史についてお聞きしたいと思います。社長就任時、会社はどんな状況だったのでしょうか?

清水 父親が経営していたときは節句人形を扱っていて、ピーク時は営業所が14カ所ありました。しかし、節句人形の需要が減ったため、玩具店に転換して、最終的には立川(東京都)の店だけになっていました。

私が引き継いだときの売上げは年間で2,000万円もなくて、債務超過の状態。税理士からは「父親が作った借金なのだから、引き継ぐ必要はない。事業はやめればいい」とずいぶん言われました。けれども、自分としては、なぜかやれそうな気がしたんですよね(笑)。債務超過とはどういうことなのか、実感がなかったんです。

お店は第一デパートという百貨店の3階の一番奥にあって、そもそもお客さんが来ない立地でした。1日に10~15人くらいしか来ません。人が来ないから静かなんです。市だったか、商工会議所だったか、記憶が定かではありませんが、融資をしていただいたので、コンサルタントが毎月やって来ていたのですが、その人に「この店には動きがない」と言われました。そう言われても意味がわからなかったので、天井の近くに列車の模型を走らせたりしていました(笑)。

そのうち、スーパーカーブームやガンダムブームが来て、人気の模型があちこちのお店で売り切れるようになりました。ところが、うちの店には人が来ないので、売れ残っていた。それで、穴場として知られるようになり、知名度が上がってきました。

そこで、やって来たお客様に喜んでもらったり驚いてもらったりするためにはどうすればいいのか、常に考え、工夫するようになりました。例えば、来店したものの何も買わずに帰ろうとするお客様には声をかけて、探している商品をすぐに手配し、次に来店したときには在庫があるようにしました。米国にまで買い付けに行ったこともあります。

――マニア向けのお店として、知られる存在になったということですね。

清水 当時、立川には米軍基地があったこともあって、情報を早く掴むお客様も多かったですからね。そうしたお客様が求める、尖った品揃えの店でした。

ただ、そういう商品を買いに来る大人だけでなく、大人に憧れて、子供もよく来ていました。

――百貨店の奥から抜け出したのは、何がきっかけだったのでしょうか?

清水 エヴァンゲリオンのブームのとき、そのガレージキットを製造していたのですが、注文に追いつかないので、静岡の同業者に製造を頼みに行ったんです。するとOKしてくれて、生産量が倍になりました。しばらくするとブームが落ち着きましたが、企業としては、その倍になった売上げをキープしないといけないので、横浜に店を出しました。それが多店舗展開の始まりです。横浜店のおかげで、無事に売上げは維持できました。

それまでは1カ所に全社員が集まって仕事をしていましたから、「横浜の店に行ってくれ」と言うのは社員を島流しにするような感じがして、決断には勇気が要りました。けれども、1度経験をすると、2店目、3店目の出店は早かったですね。

ただ、その頃に出した店舗で今も残っているのは大阪の日本橋店だけで、横浜店も含めて、ほとんどを閉めました。縁あって総合スーパーのマイカルの中に出した店が多かったのですが、客層が合わなかったんです。

良かったのは、閉店の決断ができたことです。閉店するにも費用がかかるので、決断ができず、潰れてしまう会社が多いですから。

――小売り中心から製造中心へと変わったのは、いつごろですか?

清水 ここ10年くらいのことです。意図したことではなくて、製造の伸びが小売りを上回った結果として、そうなりました。

通販が伸びている現状では、業種を問わず、実店舗の経営が難しくなっていると感じています。そんな中で、当社も出店数を抑えてきました。

また当社は、製造した商品の一部を直営店で販売していますが、基本的には、量販店や通販業者などに卸しています。そのため、小売りではしばしば値引き販売をされてしまいます。直営店では値引き販売をするわけにはいきませんから、価格競争力では劣ってしまう。そこで、店舗限定商品を作ったり、予約をしてくれたお客様には付加価値のある特典物を付けたりしていますが、結果的に、製造の売上げが小売りを逆転したということです。

――今や売上高80億円超(17年6月期)にまでなり、さらなる成長が見込まれているわけですが、自身の経営観が養われたのはいつ頃だと感じていますか?

清水 社員がある程度増えてきた頃から、自分が気づきを得たり、社員のレベルを上げたりするために、本を読んだり、セミナーを受けたりということを、ずいぶんしました。自分が受けて納得がいったセミナーは、社内にも取り入れていましたね。売上げが30億円くらいのときに、研修費に1億円もかけていたこともありました。長くいる社員からは「研修マニア」と呼ばれたりもします(笑)。

けれども、何より、目の前のお客様にいかに喜んでもらうかを考え続けてきたこと。それが、経営者としての私を形作ったのだろうと思います。

清水一行(しみず・かずゆき)〔株〕壽屋代表取締役社長
1954年、東京都生まれ。78年、父が経営する〔有〕壽屋(96年に株式会社化)に入社。86年、2代目代表取締役に就任。2017年、JASDAQに上場。《写真撮影:長谷川博一》(『THE21オンライン』2018年10月号より)

【関連記事THE21オンラインより】
ヒットコンテンツを最大限に盛り上げるために 〈1〉
TBM「世界的なプラスチック問題の高まりは、LIMEXが貢献できる大きなチャンス」
エボラブルアジア「民泊の需給ギャップは大きなビジネスになる」
ウェルスナビ「富裕層並みの資産運用を、働く世代のすべての人に」
<連載>経営トップに聞く